二章 ラオルテと第三騎士団(3)下
食堂から、ラビ達以外の人間がいなくなり、あっという間に静かになった。
ユリシスが小さく息を吐き、自分とセドリックの分の珈琲を淹れた。セドリックはラビを気にして「飲みますか」と訊いたが、彼女は片手を振って要らない事を伝えた。
人がほとんどいなくなったタイミングで、ノエルが食堂にやって来た。
『一昨日に氷狼の襲撃があったって、外の猫が噂してたぜ』
彼はそう報告しながら、ラビの近くにきて座りこんだ。慣れない土地だというのに、緊張感もなく大きな欠伸をかみしめ、落ち着いた面持ちで優雅に尻尾を揺らせる。
その時、キッチンの奥から出てきた中年女性が、そのままノエルの方へ向って歩いて来た。
彼の尻尾が踏まれてしまうのではないかと感じて、ラビはギョッとした。しかし、ノエルは女に目も向けないまま、器用に尻尾を上げて回避してしまう。
女性の足は、先程までノエルの尻尾があった場所を踏みつけ、擦れ違いざまセドリックとユリシスに「また昼間に」とにこやかに挨拶をして去って行った。二人は女性の挨拶に応えたあと、ラビを挟んで会話を始めたのだが、ラビは左右を飛び交う話しの内容が耳に入らなかった。
ラビの視線を受けとめたノエルが、途端にニヤリとした。
『なんだ、俺の尻尾が踏まれると思ったのか? だから言ったろ、普通の人間には見えないんだから、そいつらにとって俺達はいないのと同然なんだよ』
でもオレは見えているし、だから心配してしまうんだよ。
そう言い返したかったが、ラビは、セドリックとユリシスの存在もあったので黙っていた。
すると、ノエルが小馬鹿にしたように顔を上げて、得意げに目を細めた。ラビの中でドキドキは苛立ちに変わり、今すぐその偉そうな顔に両手を押し付けて、揉みくちゃにしてやりたくなった。
「ラビ、何を見ているんです?」
前触れもなく、眼前にセドリックの顔が現れて、ラビは驚いて目を丸くした。ノエルの姿が、彼の向こうに隠れて見えなくなる。
こちらを見つめるセドリックは、どこか少し拗ねたような、面白くなさそうな顔をしていた。
「僕が隣にいるのに、無視しているんですか?」
「……オレ、何か話しを振られたの?」
ラビが困惑しつつ尋ね返すと、隣にいたユリシスが、「別に話しは振っていませんが」と珈琲カップを持ち上げた。
というより、まずはこの並びがおかしいのでは、とラビは腹の中で呟いた。
ユリシスとセドリックは、間にラビを挟んで座っている。互いに話したいのであれば、隣同士か、向かい側に座ればいいのにと、この席に案内されてからずっと怪訝には思っていた。
ラビは、ひとまず水を飲んで落ち着く事にした。その間もずっと、何故か横顔にセドリックの視線を感じた。
用もなく見られ続けるというのも、なんだか居心地が悪い。
何かしら、こちらから話しが返ってくるのを待っているのだろうかと考えて、ラビは、横目でそれとなく訊いてみた。
「――そういえば、ルーファスは元気?」
「兄さんなら元気ですよ。今は仕事で忙しくされていますが」
話しかけただけなのに、セドリックが目を和らげて嬉しそうに微笑んだ。
セドリックの兄、ルーファス・ヒューガノーズは、十八歳という若さで王宮騎士団をまとめる重役に就き、二十四歳になった今も華々しく活躍し続ける優秀な男だった。
ラビは四年ほど顔を見る機会がなかったが、ルーファスについては、伯爵や伯爵夫人からたびたび話しを聞かされていた。伯爵の話しによると「ウチの長男は、出来過ぎる美形で立ち周りも上手い。恐ろしいぐらい男女共にモテにモテて大変」なのだそうだ。
「……そういえばさ、伯爵がルーファスのこと、陛下にも気に入られる美しさだとか自慢してたぜ。大丈夫か、お前の親父」
「えッ、いつ話したんですか?」
「うーん、三ヵ月前あたりかな」
ラビは、記憶を辿りながら答えた。
ヒューガノーズ伯爵は、甘党とは思えないほどに若作りでハンサムな男なのだが、自分好みの顔をしている長男を溺愛している変わり者なのである。ラビの金髪についても「眺めていて飽きない」と言い、幼い頃のように伸ばしてくれる事を期待していた。
すると、ユリシスが「なるほど」と理解に至ったような顔で相槌を打った。
「一時期引き取られていた事もあって、今も伯爵家とは交友があるわけですか。ルーファス様とは、最近もお会いしたのですか?」
「ううん、最後に会ったのは四年ぐらい前だし、ルーファスも覚えてないんじゃないかな」
ラビがそれとなく述べると、セドリックが「そんな事はないですよ」と笑った。
「兄さんの口からは、今でもラビの話しが出ますし、末っ子みたいに考えているところもありますから、寂しがっていると思います」
「末っ子ッ? それってセドリックより下って事じゃん! ヤだ!」
「ヤだって、そんなこと言わないで下さいよ。だって、ラビが最年少じゃないですか……」
困り果てるセドリックを見て、ノエルが『お前がしゃきっとしてねぇからだろ』とニヤニヤした。
ラビは心の中で、そういうところは確かに末っ子っぽいよな、と答えた。
「兄さんは、特に家族想いですからね。いずれ本邸に母上も来て頂きたいと考えて、仕事の合間を縫って色々とアプローチをしているようですが、……無理やりつれてくるわけにもいきませんし」
セドリックが「ふぅ」と悩ましげな息を吐いた。
伯爵夫人だって、本当はその気持ちがあると、ラビは知っていた。せっかくの家族が擦れ違うのを見るのは嫌だと感じて、つい幼馴染兄弟に少しだけ教えたくなった。
「きっと大丈夫だって。ちょっと無理に言い聞かせてでも、本邸に戻した方がいいとオレは思うけど。だってさ、伯爵も最近はあまり帰ってこられないから、すごく寂しがってた。王都に行きたいけど、別の事に気がかりがあるみたいで、理由はビアンカにも話――」
話してくれてないんだよな、と続けようとして、ラビは慌てて口をつぐんだ。
ビアンカは、可愛がってくれている伯爵夫人を大事にしていた。ラビが別荘を訪問する際に、どうしたら彼女の溜息の数が減るのか相談してくる事も多かった。
しかし、猫から話を聞いているんです、と正直に説明出来るはずもない。
セドリックが「え、それ本当ですか?」とこちらを覗きこんで来たので、ラビは追及を避けるべく「なんでもないッ」と立ち上がった。すると、彼が慌てて腕を掴んできた。
「ラビ、待って下さい」
「待たない、調査してくる」
「えっと……分かりました。その、母上の事を気にしていてくれて、ありがとうございます」
どうしてか、彼は自分の事のようにはにかむんだので、ラビは思わずジロリと睨みつけてしまった。
「オレじゃなくて、ビアンカに言ってやれよ。夫人が寂しがらないように、いつもそばにいてくれているんだから」
伯爵夫人は、以前は身体が弱かったために療養していたようだが、今では体調に問題はない。
彼女をホノワ村に引きとめている本当の理由は分からないが、ラビとしては、夫や息子達を想ってスコーンを焼き、好きよと伝えるように優しく抱きしめてくれる彼女は、家族と一緒に、穏やかに暮らす姿が一番合っていると思えた。
ビアンカも、ラビも、血の繋がった家族がいないからこそ、それを強く確信しているのだ。