ナラズモノ
彼女は今、どうしているのだろう。
屋根の上に寝そべり星空を眺めながら、彼――久地楽はただひたすらそのことばかり考えていた。
彼女に捨てられたあの日から、ずっと彼女のことだけを考え続けていた。
あれからもう三年も経ってしまっている。
大人になんてなりたくなかったのに。彼女とずっと同じ時を過ごしていたかったのに。
このまま自分だけが年老いて死にゆくのが嫌だった。彼女が自分ではない他の誰かと生きてゆくのが許せなかった。
彼女が自分のものにならないのなら、いっそ――
「久地楽! こんなとこにいたんだ!」
甲高い女の声が響き、久地楽の思考が止められる。
体を起こし、声のした方を振り向けば、露出の多い服を着た桃色の髪の女が嬉しそうに駆け寄って来た。
「あんた全身黒いから、一瞬景色と同化してわかんなかったわよ!」
一体何がおかしいのか。笑いながらこちらを指さす女は扇だった。
確かに髪も服も黒いが、戦いをする身としては扇のような露出の多い半袖短パンの方が頭がイカれていると思う。
「邪魔だ」
「相変わらずそっけないわねー!」
扇はそう言いつつも笑顔を崩さず、久地楽の隣に腰掛ける。
「ねえ、こんなとこいてもつまんないでしょ? あたしとデートしようよ!」
彼女とはナラズモノに入った三年前に知り合ったのだが、どうやらその前にも会ったことがあるらしく、何故か最初からこんな調子だ。しかし久地楽にはまるで記憶がなく、訳もわからずしつこく纏わり付いてくる扇にうんざりしていた。
「ああそうだ玄界に用事があったんだ」
「あからさまに棒読みなんだけど!? 大体、久地楽からメンバーに話し掛けんのほぼ見たことないし!?」
――面倒だ。
図星だったが、早々にここを退散した方が身の為だと判断し、久地楽は屋根から飛び降りた。
上空からまだ何やら騒がしい声が聞こえたものの、追い掛けられる前に闇夜に紛れる。
せっかく彼女のことに浸っていたのに、全てが台無しだ。
彼女の表情、声、温もり――今でも鮮明に思い出せるのだが、一時でも忘れたくはない。彼女を想う時間だけが、久地楽にとって唯一安らげる時間なのだ。
それなのに扇と会ってからというもの、ほぼ毎日のように邪魔をしてくるのでいい加減どうにかしたかった。
取り敢えず時間も時間なので、ここ最近滞在している宿屋へ戻ることにする。
「お帰んなさい」
古びた三階建ての宿屋の老婆が、久地楽の姿を捉えてぽつりと呟くように言った。基本的に宿屋の主人というのは明るい性格の人間が多いのだが、ここの老婆はほとんど笑顔も見せず、必要なことしか話さないので、久地楽にとっては寧ろ居心地がよかった。
「ああ」と軽く返事だけし、二階の部屋へと向かう。階段はギシギシと音を響かせ、今にも崩れそうである。恐らく木が腐っているに違いない。
階段を登りきると、紫色のローブに身を包んだ背の低い小柄な男が立ち塞がっていた。頭もフードを被っているので顔はほとんど見えないが、男だとわかるのは知り合いだからだ。
「やあやあ、久地楽くん。キミ、おいらに用事があるらしいじゃないかぁ。喜んで聞いてやるよぉ?」
フードから八重歯を見せて三日月型に口を変形させた。
先程、口から出任せに用事があると言った玄界である。
恐らく扇が告げ口した訳ではないだろう。玄界は常に神出鬼没で、盗み聞きが趣味の見た目から気味の悪い奴だ。
「久地楽くん、今すごい失礼なこと考えたよね、そうだよねぇ?」
「被害妄想だ。オレはもう寝るからそこをどけ」
玄界はつまらなそうに舌打ちすると、自らフードを剥ぎ取った。
その両の瞳は綺麗な金色だ。扇の観点だと美少年という評価が下された。いや、年齢を考えれば美青年と呼ぶのが正しいのだが。十代に見える容姿なのだが、久地楽よりも三つも年上の二十六歳だそうである。
しかし、美少年なのは右半分の顔のみのこと。何故なら左半分の顔の皮膚は赤く爛れているのだ。
原因は聞いたことはないし、興味もなかった。
「リーダーが久地楽くんを呼んでるみたいだよぉ?」
久地楽は現在、〈ナラズモノ〉という集まりに所属している。玄界も扇もそのメンバーの一員だ。といっても、他はあと二人の五人しかいない少人数ではあるが。
そのリーダーとなる人物にどうやら呼び出されているらしい。
「まあ呼ばれてんのは全員だけどねぇ」
「どこに行けばいい」
玄界は再びフードを被り、「すぐそこの居酒屋」と言いながら階段に向かった。
「阿天坊と扇は?」
「扇ちゃんには久地楽くんが逃げた後すぐ伝えたから、もう向かってるはずだよぉ」
ニヤリと八重歯を見せて微笑んだのを見て、やはり盗み聞きを立てていたのだなと確信した。
「阿天坊くんはもうリーダーと出来上がってんじゃないかなぁ」
「……ただの飲み会ならオレは参加しない」
動かそうとした足を止めると、玄界も足を止めて体ごとこちらを振り向いた。
「まあまあ。二人ともお酒強いし、大事な話があるって言ってたから、そこまで飲んでないってぇ」
へらへらと言われても何の説得力もない。大事な話を居酒屋でやること自体おかしいのだ。
無言で立ち去ろうとすると、玄界は久地楽の服の裾を引っ張った。
「リーダーね、〈彼女〉の居場所に心当たりがあるらしい」
「っ!」
思わず息を呑む。
そういうことならば話は別だ。
「さっさと行くぞ」
「はいはい、りょーかい」
久地楽の切り替えの早さを玄界は当たり前のように受け入れ、二人は宿屋を後にした。
「ギャハハハハ! またフラれたのかよ、扇ぃ!」
「うっさいわね! あんたってマジでデリカシー無さすぎ!」
寂れた居酒屋で男の下品な笑い声と女の金切り声が響き渡る。
チラホラいる周りの客は異質な目で彼らを見ていた。
全力で他人の振りをしたい。久地楽は心底そう思ったが、彼女に関する情報があるというのならやむを得ない。
近付いて行くと男の方が気付いたらしく、「待ってたぜ!」と手を振った。日に焼けた浅黒い肌のガタイがいい男――阿天坊はニカッと笑って二人を出迎える。
対称的に扇は不満気な表情だ。
「もう久地楽ってば! 何であたしの誘いは断って、玄界の誘いにはホイホイついて来てんのよ!」
「おいらってば、誘い上手だからさぁ」
断じて違うのだが、得意気な玄界を見ると面倒で否定する気にもなれない。
席に目を移せば、肝心の人物が見当たらなかった。
「おい、あいつは?」
阿天坊に問うと「ああ、あいつは便所で大の方を……」と言い掛け、突如彼の顔面に何かがぶつかった。
「ぶっ!?」
もろに受けた阿天坊の顔から剥がれ落ちたそれを見ると、便所サンダルのようだった。
「誰が便所なんぞ行くかい。ワシみたいな二枚目は屁すらせんわ」
便所サンダルが飛んできた方向を振り返ると、一人の男が立っていた。
本人の言う通り、確かに二枚目なのだろう。しかし剃り込みの入った髪とタトゥーが刻まれている左頬、ピアスやら指輪やらの装飾品にガラの悪さが滲み出ており、明らかに堅気の雰囲気ではない。
妙な訛り口調がさらに迫力を増し、近寄りがたいオーラを放っている。
彼の名は六波羅。
久地楽達の所属するナラズモノのリーダーだ。
が、言うことはくだらない。
「じゃあ、その便所サンダルは何だよ!? つか顔面に当てる奴があるか!? 汚ねー!」
叫ぶ阿天坊に、扇が鼻をつまみながら「顔洗って来てよ!」と文句を言う。
「じゃかあしい。履き替え忘れたんじゃ。おう、そこの兄ちゃん。悪いんやけど、ワシの履きモンを便所から取ってきてんか?」
六波羅が店員の若い男に頼むと、「は、はい!」と少し怯えながら走り出した。
「やっぱ便所に行ってたんじゃねえか!」
「ちょっと、さっきから便所便所って止めてよね!?」
「もう便所の話はどうでもいいからさぁ。リーダー、おいらは本題が聞きたいなぁ?」
つまらなそうな玄界に、六波羅は「ああ、悪い悪い」と言って席に座る。その時、彼と目が合った。
「おう、久地楽も来たんか。まあ座りや」
扇が隣に座るよう笑顔で座席をポンポン叩くが、久地楽は玄界の隣に座った。
それに対し阿天坊がまた馬鹿笑いを始め、扇が言い返そうとするが、
「ワシが話すんじゃ。後でやりぃ」
六波羅が凄みを利かせ、二人は一気に静まった。その瞬間に間が良いのか悪いのか、店員が恐る恐る「持ってきました」と言って、便所から持ってきたのであろう六波羅の靴を差し出した。
「あー、おおきに。ところで兄ちゃん」
「え!?」
嘘っぽい笑みで、驚く店員の肩に腕を絡め顔を引き寄せた。
「あんたは呪力持ちか?」
耳元で低く呟くと、店員は「は、はい、そうですけど……!」とビクビクしながら答えた。
「ほな、呪力統制機関のことどう思っとる?」
「ど、どうって……?」
「好きか、嫌いか、どっちや聞いとんねん」
店員は逡巡するも、六波羅の気迫に怖じ気付いたのか、「き、嫌いです……」と返答した。
「審査が厳しくて、登録もできませんでしたから……」
「おー、兄ちゃん! 気が合うなあ! ワシも大っ嫌いじゃ! 気持ちはようわかんで。呪力持ちの為と言いながら、利用できんのは上流階級の人間だけ。あとは仕事に困ってようが、差別受けようが、ほったらかしじゃ! 一番その援助を必要としとるのは、身元を証明できない生い立ちのワシらと違うんか!?」
店員を腕から解放し立ち上がると、六波羅は店内を見回した。
「ただでさえ正常人から差別受けとんのに、何で同じ呪力持ちからも見下されなあかんのじゃ! 討伐部隊みたいなチヤホヤ育った連中よりも、ワシらの呪力の方が勝っとると思わんか!?」
まるで演説するかのように大仰な身振りで声を張り上げる。
「大体、呪力持ちを管理しようとする根性も気に食わん! 人間に呪力は厳禁? そんなもん、無力な正常人が勝手に決めたルールじゃ! 法律で縛れば何でも言うこと聞くと思たら大間違いやで! ワシらをおざなりに扱ったことを後悔させとうないか!?」
静まっていた客も徐々に「そうだそうだ!」と賛同する者が出てきた。
恐らくこの居酒屋は、呪力統制機関に登録していない〈野良〉と呼ばれる呪力持ちの溜まり場なのだろう。
久地楽には意図がわからないが、六波羅はそれを知っているからこそ、このような演説をしているのだろうと考える。
「ワシらは呪力統制機関に喧嘩を吹っ掛けるつもりじゃ! その為に一人でも多くの仲間を探しとる! ワシの言葉に少しでも共感した奴がおるなら一緒に戦おうやないか! ここにおらんあんたらの仲間にも是非声を掛けて欲しい! まだ踏ん切りつかん奴も、よう考えたってや! いつでもワシらは迎えたる!」
店内はざわついた。その中の一人から「あんたら、一体何者なんだ?」と質問が上がる。
六波羅はニヤリと微笑み、
「ナラズモノ」
したり顔でそう答えたのだった。
「え~っと、六波羅さん? 急にどうしちゃったのよ?」
居酒屋からの帰り道、唖然としながら扇は六波羅に声を掛けた。阿天坊はヒュウと口笛を吹く。
「意外と熱い奴だったんだな、六波羅」
楽しそうな彼に、六波羅は「アホ」と鼻で笑った。
「演技じゃ演技。こんくらい盛り上げれば面白くなるやろ」
「なーんだ残念。結構共感したんだけど、全部嘘っぱちぃ?」
そう言いつつもまるで残念そうにない玄界。しかし六波羅は首を横に振り否定した。
「いや、本心や。せやけど、ワシが嫌いなんは正常人でも呪力統制機関の奴らでもない。平和ボケした奴ら全員や。だからワシはな――」
そう言って、全員を振り返る。
「誰もが不幸せな世界を創りたい」
その表情はとても残酷で、感情が読み取れない。
黙り込んでいた久地楽は彼女のことを思い出していた。
彼女もまた、人々の不幸を望んでいた。
「ふ~ん。ま、おいらは楽しく殺り合えればそれでいいけどさぁ、結局話って何だったの? あの演説を聞かせること?」
確かに突然始まった演説のせいで話し合いどころではなくなってしまった。
「あながち間違いではない。今まではつまらん邪獣討伐の仕事しかさせられへんかったからな。近々、当初の目的を実行しよ思たんや。お前らも十分な戦闘力が身に付いたしな」
「俺サマにかかれば、倒せねえ呪力持ちはいねえぜ!」
阿天坊は腕に力瘤を作って見せた。
「だけどさぁ、本気であの討伐部隊を敵に回すつもりぃ? 確かに下っ端は弱そうだけど、隊長クラスは中々強そうだよぉ?」
「一番戦いたくてしょーもない奴が何言っとんじゃ」
六波羅が呆れると、玄界は「フフフ」と不気味に笑う。
「せやけど一理あるな。おう、今更やけど扇はええんか? 一度あいつらと殺り合えば、もう後戻りできんぞ」
すっかりと油断していたらしい扇は「え、あたし!?」と自分を指さして驚く。
「何で扇だけに聞くんだよ?」
不思議そうな阿天坊に六波羅は再び呆れた表情を浮かべる。
「扇はまだ二十二やろ。若いし、しかも久地楽に惚れとって戦いなんぞする気ないやろ。後悔されても責任は取るつもりないで」
扇は途端に不機嫌になる。
「あたしだって、覚悟したからここにいるの! 大体、居場所なんてもうここ以外ないんだから! それに若いって言っても、六波羅さんだって十分人生やり直せるくらい若いと思うんだけど!?」
彼は今、二十八歳になるのだったか。三十路後半並の貫禄があるので、久地楽もすっかりと忘れていた。
「じゃあ、二十五の俺サマもやり直せる訳だな!」
「え、やり直したいのぉ?」
「いや、あり得ねえ!」
阿天坊と玄界がふざけたやり取りをしていると、六波羅はどこか諦めたような様子で遠くを見上げた。
「あいつに――〈灯月〉に囲われとったワシらが、まともに生きる気力なんぞある訳ないか」
その言葉に、久地楽は大きく反応する。
「六波羅、オレはお前の目的に興味はないが、お前の命令には従う。だから彼女――灯月を見つけるという条件は必ず守れ」
「ようやく喋ったかと思たら、あの女の名前を出したせいか」
彼は苦笑して「わかっとるわ」と肩を竦めた。
「最近、とある一定の地域で神隠しが頻発しとるらしい」
その言葉に、久地楽だけでなく全員が目を見張る。
「あの女、まだそんなことやってんだ」
先程まで感情を露にしていた扇は、急に冷めた表情でぽつりと呟いた。
「まだも何も、それがあいつの生きる術やろ」
諌めるような六波羅に対し、扇は何か言いたそうにしながらもそっぽを向く。
「……神隠しなんてざらにある。確実な情報なんだろうな」
期待して実は別人の犯行だったとしたら笑えない。
「安心しぃ。このワシが神隠しのあった村までわざわざ足を運んで調べたんじゃ。灯月の力――きっちり感じたわ」
何故かはわからないが、六波羅には灯月の力を感じ取ることができるそうだ。久地楽は羨ましくて妬ましくて殺意まで湧いて仕方がなかったが、 彼女は姿を隠すのが非常に得意だ。彼女を探す為には六波羅は必要不可欠な存在なのである。だからこうして嫌々ではあるが彼の傘下に入った。
「そう……か」
久地楽の胸は高鳴った。また彼女に会うことができるのだと。この手で触れることが叶うのだと。
「おお、あの久地楽がニヤけてるぞ!」
「久地楽くんは灯月ちゃんのことになると、本気で気持ち悪くなるからねぇ」
ふざけた調子のままである二人の言葉は、久地楽の耳には届かない。
「ここ暫くは大人しゅうしとったみたいやから見つけられへんかったけどな。あいつの力を辿ってある程度の居場所は絞れとる」
「教えろ」
六波羅の言葉には直ぐ様反応するのだが、「それはワシの用件を済ませてからじゃ」と答えてくれなかった。
久地楽は思い切り舌打ちをしながらも、自分から約束を反故にする訳にはいかず、口から出かかった反論の言葉を飲み込んだ。
不満があるのは一目瞭然なのだが、六波羅は特に気にした様子はなく、「そないに時間は掛からへん」と告げ、「呪力統制機関と正常人と野良は今、緊張状態とも言えるやろ。それを少ぉし掻き回すだけでええんじゃ」と厭らしい笑みを浮かべた。
要は奴らを殺せばいいのだろう。
久地楽はそう解釈し、夜空を見上げる。
今宵は満月。
大きな真ん丸い月を眺め、久地楽はもうすぐ会えるだろう彼女――灯月に想いを馳せるのであった。