彼女が人をやめた理由(ワケ)
そこは深い森の中だった。
鬱蒼と生い茂る木々は太陽の恵みを遮り、昼間だというのに辺りは一面薄暗く、人間程度の視覚では足元に何があるのかさえ覚束ない。
そんな森の奥深く、うら若い女性が一人、雑木に隠れるようにして地に腰を下ろしていた。
日課の薬草摘みのさなか、考え事に意識を囚われている内に、いつしか常には踏み込まぬ方角へと足が逸れて、立派な迷子の身となってしまっていたのだ。
彼女の耳に奇妙な音が届き、ようやく周囲の異常に気が付いた時には、もう何もかもが遅かった。
真正面から猛スピードで迫りくる全長一と半メートル程のカマキリ型のモンスター。
女の胴目掛けて放たれた鋭い鎌の一撃を、例え反射的にでも回避できたのは、もはや奇跡と呼ぶほか無いだろう。
それでも、無傷というわけにはいかず、彼女は利き腕である右腕に浅くない切り傷を負ってしまった。
がむしゃらに逃げ出す人間と、それを追うカマキリ。
脚力も、地の利も、その他の何もかも適わない相手から真に逃げられると考えていたわけではなかったが、だからといって、その場で即座に死を覚悟し諦めの境地に至るなどということは、女にはできなかった。
生きたいというただひたすら純粋な渇望だけが、彼女の足を動かしていた。
走って、走って、ついに身体が限界を迎えた時、女は一際大きな木の根元に倒れるような勢いで蹲った。
膝を抱え、強く瞼を閉じ……そのまま荒れる呼吸を何度か繰り返して後に、ふと気付く。
追ってきていたはずのカマキリの気配が、どこにもしなくなっていた。
いつから消えてしまったのか、必死だった彼女には見当もつかない。
なぜ、と考えるも答えが出るはずもなく、それでもどこか助かったような気持ちで、女は僅かに息を吐いた。
ほんの少しだけ緊張を緩め、ようやく痛みを感じ出した右腕を簡易的に治療する。
ここが危険な森であることを承知で入り込んでいたからには、包帯や傷薬は常備していて当たり前の物だ。
そうして無事に手当てを終え、どうにか立ち上がろうとした刹那。
彼女のほぼ目の前といえる場所を、人間の胴体から蜘蛛のような八本足を生やした不気味なモンスターが音もなく横切った。
モンスターの胴体部分は死体さながらに青白く骨ばっており、一見人の如き顔面の眼球周りは窪んで黒々としたクマに縁取られ、また頬は異様にこけて、およそ生気が感じられず、また一切の体毛が生えておらぬようで、眉どころか睫毛すら存在しない異質さは、いくら酷似していようがコレは人間とは全く別の生物であるのだと自ら主張してさえいるようだった。
胴体部とは逆に棘のような毛の生えた肉厚の蜘蛛足をゾロリと揺らして森を移動する化け物。
女は咄嗟に息を止め身を固めていたが、人ならざる者特有の知覚によってか、モンスターは彼女の鎮座する方向へと異様な角度で首を曲げ、汚泥のような濁りきった黒の目を乾く青の瞳に合わせてきた。
瞬間、カマキリとは比べ物にならない脅威に触れ、死を幻視した女が喉を引き攣らせる。
逃げようにも、恐怖に萎縮した身体は動かなかった。
しばらく無表情で圧倒的弱者を見つめていた化け物は、視線を外さないまま首の角度をまだ人間にも可能だと思われる程度の位置に戻し、それから頭を小さく上げ下げしつつ口を開いた。
「あ、どーも」
それだけ言って、正面を向き直り、再び無音で進行を開始する化け物。
まるで人間さらながらの会釈に、彼女はほんの一瞬唖然とした後、頭で考えるより前にその場を駆け出していた。
「待って、私を助けてぇッ!」
「きゃあぁぁッモブ太さんのエッチぃぃぃッ!」
女が化け物の腰に腕を回し込んで勢いよく抱きつけば、化け物の絹を引き裂くような悲鳴が森の中にこだまする。
「も、モブ太?」
「ちょっとちょっと! いくら多種族と言えどセクハラよコレは!
出るとこ出るわよ! 訴えるわよ!?」
予想外の反応に固まる女と、見た目にそぐわぬオネェ言葉でプンスコ憤慨するモンスター。
そんな彼の台詞を受け、彼女は目を見開いてこう言った。
「っえ、あなたメスだったの?」
途端、化け物は更に口調を変え怒鳴り出す。
「おぅコラ姉ちゃん、どこに目ぇつけてんだ!
どっからどう見ても、立派なオスだろうが!
この腰に下がっているブツを見てからモノを言えってんだよ!」
言い終わると同時に、モンスターは自らの腰を前足でペシペシ叩きながら後ろ脚二本を支えに器用に身を起こした。
彼の言葉通り、その腰にはラージサイズの息子さんが無防備にブラブラピタピタしている。
突如飛び込んできた卑猥な物体を前に、一応仮にも年頃である女は反射的に顔を両手で覆った。
「きゃああッ! ななななんで服着てないのよぉ!?」
「モンスターがそんなモン着てるわけねぇだろ!」
テンパった女の叫びに、化け物が身体を元のうつ伏せのような体勢に戻しながら正論を返す。
「って、そうよ!
何でモンスターが言葉をしゃべっているのよ!
伝説の聖獣様じゃああるまいし!」
彼のツッコミから一般常識(人語を解するのは聖獣だけ)を思い出した彼女が、今更すぎる疑問に口を荒げた。
それに対し、化け物は顔を顰めながら舌打ちする。
「知らねーよ、俺、生まれた時からこうだもんよ。
じゃあ、俺その聖獣ってヤツなんじゃねーの」
「ずうずうしいわね! 自分の姿を見てから言いなさいよ!」
女は、ほとんどパニック状態でまともな思考の適わない脳を置き去りに、脊髄反射で叫び続けた。
「どこからどうも見てもモンスターでしょうがぁ!
上級ランクモンスターのヒューマンスパイダー・ゾンビでしょうがぁ!」
「放っとけ! ってか、分類分けは人間が勝手にやってることだろ!
俺が何かなんて俺自身知るわけねーじゃねーか!
逆に聞くけど、お前は誰にも何も教えられずに孤独に育って、自分が人間って名前の生物だと認識できると思うわけ?」
「そ、それはっ……」
「ほら見ろ! ほぉーら見ろ!
ってか、お前もさぁ、そのどっからどう見てもモンスターな俺によ?
何、助けてーとか言っちゃってんの?
意味分かんねーし! 俺ら一応敵対関係じゃん!
お互いこう、見かけたらさ、とりあえず殺しておきましょー的なさ!」
人間の女といかにも化け物じみたモンスターがみっともなく言い争う光景は非常にシュールだったが、幸いというべきが、それを目の当たりにする者は誰一人として存在しなかった。
モンスターの物騒な言葉に、少しだけ自らの状況を思い出すことの出来た女の脳が、ようやくノロノロと回転を始め出す。
「…………でも、あなた殺さなかったじゃない。
しかも、モンスターにあるまじき会釈なんかしちゃってさ」
「はぁーん?
それだけで人が助けを求めて来ようと思うほど、俺ぁお綺麗な見た目してないッスけどねぇ」
「あとは…………カンよ」
「そうかい。
ま、確かに腕を怪我した状態で、若い女が森に一人座り込んでるよりゃあマシな選択かもな」
「ッな、知って……!?」
「そんだけ血の臭いさせてりゃあ、誰だって気付くっての。
今は俺が牽制かけてっから、そこらの雑魚も寄って来ねぇけどよ」
「えっ」
「って、即座にそんな期待に満ちた眼差しを向けて来るな!
違ぇし! お前のためじゃねぇし!
俺が雑魚に絡まれるの鬱陶しいからだし!」
シシシッと威嚇音のようなものを上げながら、化け物は女を遠ざけるように前足を振るわせた。
それから、静かに動きを止めて数秒、彼は少しばかり女から視線を逸らして、どこか疲れたように息を吐き出し告げる。
「いいか。そもそも、俺はグルメなんだ。
お前ら人間を狙うような不味い肉食生物の肉なんざ食わねぇんだよ。
そんで、無駄に体力を減らすような無益な殺生もしねぇ。
それだけのことだ」
「モンスターがグルメとか……」
「なんだよ!?
モンスターが美味いもん食いたがっちゃいけねぇのかよ!
ってか、何なのさっきから!?
助かりたいの、怒らせたいの、どっちなの!?」
「助けてくれるの!?」
何だかんだと救済を求めながら、彼女はモンスターである彼の中に人間を助けるという選択肢などないものだと考えていた。
だからこそ、まるで条件次第では助けるも吝かではないのではないかとも取れる発言に過剰反応してしまったのだが、それが更に化け物の気に障ってしまったらしい。
モンスターはツルツル禿丸頭を激しく左右に振りながら己が境遇を嘆き出す。
「もーッ! やだこの子、全然会話通じないぃーッ!
何なのホント今日! 俺ってば厄日なのぉー!?」
「そ、そこまで言わなくたって……」
「アンタ周りの人間から変人って避けられてなかったぁ!?」
「バっ、わたっ! そ、そんなの今はどうだっていいじゃないの!」
「はいはい、図星図星!」
明らかに動揺し、分かりやすく話を逸らしにかかる女を、モンスターは思い切り馬鹿にした様子で鼻を鳴らし、肩をすくめた。
そうすることで少しばかりでも気が晴れたのか、彼は先程とは打って変わって落ち着いた様子で彼女に向かい言葉を投げかける。
「……で、そもそも俺がお前助けるメリットって何だよ?
同じ人間同士だって、完全な善意で人助けするヤツなんか稀だろ」
「ぅえっ?」
化け物からの突然の問いかけに、女は答えを探して視線を左右に巡らせた。
そして、言葉を詰まらせながらも、自らが最も得意とする分野で差し出せるものを交換条件として提示する。
「あ……あの……薬、とか」
「くすりぃ?」
「えっと、私、これでも一応薬師なの。
助けてくれたら、今後あなたが怪我や病気をした時に無償で薬を分けてあげる。
もちろん、一回限りなんてケチなこと言わないわ。
どう?」
彼女としては破格の条件のつもりだったのだが、いかんせん彼は人間の常識の通用しないモンスターだった。
「いやー、いらねぇなぁ。
俺これでも結構高い自己治癒能力持ってっからなぁ。
それに、人間に効果がある薬がモンスターに効くとも限らないだろ。
変な風に作用してトドメにでもなっちゃ堪らねぇや」
「んなっ! も、モンスターのくせに正論吐いてんじゃないわよ!?」
あまりにもあっさりと、それでいて納得せざるをえない断り文句を投げられ、まさか拒否されるとは思っていなかった女は混乱気味に暴言を吐いてしまう。
カマキリに襲われた辺りから、彼女のアドレナリンは止まる所を知らない大放出フィーバーフィーバー状態となっているのだから、ある意味では仕方のないことだった。
当然、弱肉強食の生物界において遥か格下の存在にそんな言われ方をして、強者である彼が腹を立てない理由もない。
「っだー! むっかつく!
ホンットお前どういう育てられ方したんだよ!?
親の顔が見たいわ!」
瞬間、女の顔が分かりやすく歪む。
「おい?」
「…………物心ついた頃にはもう孤児だったから、産みの親の顔は知らないわ。
あと、育ての鬼ババアなら先週身罷ったから、どちらにしろ見せようがないわよ」
「恨んでんだか慕ってんだか分からん言い方しやがる。
それで、周りの人間とも上手くいっていないし、自棄になって森の奥まで自殺しに来たはいいけど、やっぱり土壇場で怖気づいて帰りたくなったってトコか?
はんっ、とんだ悲劇のメス豚気取りってワケだ」
「はぁーぁ!? 日課の薬草採取に来ただけだし!
変な妄想しないでくれますぅ!?
それとも、あなたちょっと頭のお薬必要な感じの方でしたぁ!?」
「そんな薬があるならまず自分に処方しろぃ!」
売り言葉に買い言葉でヒートアップする両者だったが、ついに彼女と会話を続けることに痺れを切らしたらしい化け物が、グルリと身体の向きを変え吐き捨てるように言い放った。
「…………俺だって暇じゃねぇんだよ。
見返りが用意できねぇってんなら、もう行くぞ」
これに慌てたのは当然、女の方だ。
「え、ちょっ! 待って待って待って!
そうだ、料理ッ! 料理はどう!?」
叫びつつ、再び身体を張ってモンスターを引き止める彼女。
「うぉぉこの変態女、性懲りもなくまた抱きついて来やがって離れろぃ!
俺の純潔は最強の女に捧げるって決めてんだよッ!」
「理想こじらせた独身女みたいなこと言ってないでよ!
料理でどうなの! いいの、ダメなの!?
人間の手料理を味わう機会なんて、きっとこれっきりよ!
お買い得よ!
グルメを名乗るなら、一度は食べておかないと大損よッ!?」
しつこい人間を、モンスターは前から三本目の足を器用に動かして己の身体と女の隙間に差し込み引き剥がそうとするが、火事場の馬鹿力でも発揮しているのか、一向に彼女が離れる様子はない。
さすがにこれ以上に力を込めれば骨でも折ってしまいそうだと、彼は諦めの境地で足を戻した。
「…………必死かよ」
「必死よ! 決まってるでしょ、命かかってるんだから!」
化け物の呟きを拾った女が、半泣きになりながら喚く。
同時に、彼女の彼を抱く腕の力が更に強まった。
「はーぁ……分かった、分かったよ。
それでいいよ、もう。めんどくせぇな」
「分かっ、え……えっ!?」
「まぁ、料理に興味がないと言えば嘘になるしな」
「っっあっ! り、がと……ぅ……」
粘り勝ちとでも言おうか、ついに化け物の首を縦に振らせることに成功した女は、胸の内に急速に広がっていく安堵の気持ちに放心したように身を任せた。
緊張から解放された精神に肉体が呼応し、固まっていた筋肉が徐々に解れて、彼女は無意識の内に地に崩れ落ちていく。
人間が触れていた箇所を後ろ足で払うように摩りながら、目の前の彼女の様子など全くお構いなしにモンスターが口を開いて胸を反らす。
「おう。存分に感謝しろ。
で、何だ。森の外まで送って行きゃあいいのか?」
「…………あ、あ。そう、ね」
そこで正気を取り戻した女は、それまでの狼狽ぶりが嘘のように理性的な眼差しを化け物へと向けた。
「えっと、とりあえず、森さえ抜けられれば後は大丈夫だと思う。
村のある方角は分かる?」
「知らねぇ。
けど、よく人間が侵入してくるルートなら知ってるから、そっちに向かうわ」
「そっか。
考えてみれば、森の奥深くに住むモンスターがその外にある村のことなんて知るわけがないわよね。
うん。とりあえず、いいわ。それでお願い」
そんなこんなで、世にも珍しい人間とモンスターのコンビは姦しく会話を続けながら森の外へと向かい移動を開始するのだった。
「……ったく、面倒かけやがって」
「な、なによ。対価は払うでしょ」
女が予想外だったのは、特に彼女から何を言ったわけでもないのに、化け物が人間の遅すぎるペースに合わせて歩を進めているという事実だった。
老婆に引き取られ薬師として生きてこのかた、彼女は同じ村の人間からすら、そのような気遣いを受けたことはなかった。
緊急時には頼りにされていたとはいえ、老婆は人嫌いで有名で、その彼女に育てられた女もまた、孤児であったという劣等感から人を苦手にしているところがあり、まともに言葉も紡げない有様だったのだ。
そんな自分が、なぜ本来相容れない異種族であるモンスターを相手にここまで饒舌に会話が出来てしまうのかと、彼女はひっそりと首を捻っていた。
この時、すぐ傍を歩く化け物も女とほぼ同様の考えに耽っていたのだが、そんなことは彼女が知る由もない。
「そうは言うがなぁ、実際に食うまでは失った時間に見合う代物かどうかなんて分かんねぇじゃねぇか。
実は俺を騙してて、毒混ぜて退治してやろうって魂胆かもしれねぇし?」
「馬鹿にしないで。
この特級薬師ディリアリアの娘ミネッサ・マグダウール、己が矜持にかけてそんな愚かな真似はけしてしないと誓うわ」
「お、おう?
……何だよ、急にマジになりやがって」
その後も、他愛無い会話をぽつりぽつりと繰り返しながら、彼らは深く暗い森をひたすら歩き続けた。
そうして、無事に薬師ミネッサを送り届けることに成功した化け物は、後日、お約束の「うーーまーーいーーぞぉーーーー!」を経て、交渉の末、三日に一度の頻度で彼女と昼食を共にするようになる。
そんな中で、彼はミネッサからトルクという名を与えられ、いつしか、二人はモンスターと人間という垣根を越えて、すっかり気のおけない友人関係を結んでいた。
そして…………。
「俺、明日から旅に出るわ」
「えっ」
常のように森で落ち合い、ミネッサ手製の食事を済ませ、会話を交わしながらのんびりと時を過ごしていた二人だったのだが、そこでトルクがポツリと呟いた。
その声は本当にミネッサに向けて告げられたものであるのか疑ってしまうほどに小さかったが、彼の牽制により生物が傍らで音を発することのないこの場所にあっては、むしろ聞き逃す方が難しい。
人間に苦手意識を持ち、引きこもりがちな彼女にとって、トルクと見えることは日々を生きる上で唯一の楽しみとなっていた。
だからこそ、動揺を押し隠そうにも衝撃が大きすぎて、彼女は冷静な態度を取り繕うことが出来ないでいる。
「な、なん、何で、そんな、急に」
ミネッサの言葉が分かりやすく震えていることに気付いていながら、トルクは変わらぬ様子で台詞を紡いだ。
「急……ってか、何度か言っただろ。
俺は最強のメスと運命の出会いを果たしたいんだ、って。
そのためには、いつまでもこの森に留まってちゃあダメなんだ」
「あっ、で、でもっ、だって、あの、ご飯、は……?」
「あのな……人間のミネッサには分からないかもしれねぇけど、俺らは自分より強い子孫を残すことが最高の誉れで、唯一の使命なんだよ。
だから、若くて力のある今の内に相手を見つけないと、食べてもらわないと、意味がないんだ」
「………………え、た……食べ……えっ?」
「あ?」
ミネッサがトルクの不穏な発言に目を丸くすれば、彼は彼女に不思議そうな目を向け首を傾げる。
やがて思い至ったらしい事実に、トルクは右前足で自身の後頭部を掻いた。
「あぁ、人間は違ったっけか、そういえば。
えー……俺らオスはな、交尾の後、メスに食べてもらうんだよ。
強い子孫を産むための栄養に、礎になるんだ」
「っそんな!?
だって! だって、せっかく私たちッ!」
「そして、それはオスの生が最も輝く名誉の瞬間であり、至福の時だ。
誰にも、何にも、邪魔することはできねぇよ」
「…………本気、なの」
「それが俺の生きる意味だからな」
真っ直ぐに向けられた静かな黒の瞳に、ミネッサは彼の決意を見る。
トルクはどこまでも本気だった。
だからこそ……だからこそ、ミネッサも今この瞬間に覚悟を決めることができた。
自身の震える拳を固く握り、彼を正面から見つめ返しながら、彼女はゆっくりと口を開く。
「…………だったら……私が……」
「あん?」
「私が最強のメスになるから!」
「は?」
突然飛び出した意味不明の宣言に、今度はトルクが呆ける番となった。
「え?」
「私が誰にも負けないメスになるから!
だから、どこにも行かないでよぉッ!」
叫び、彼の身に縋りつくミネッサ。
そんな彼女を前に、トルクは未だ再起動を果たせずにいる。
「えっ、いや……え?
そもそも種族違うし、俺らに作用するフェロモンとか、あの、出ねぇ、だろ、人間からは?」
「出すもん! そういう薬開発するもん!
というか、もう研究は佳境に入ってるもん!」
「はぁぁ!?」
ミネッサの口から発射された脅威の真実に、彼は思わず驚愕し吠えた。
「こわッ! え!? いつの間に何の研究とかしちゃってんの!?
っていうか、お前、俺のことずっとそういう目で見てたの!?
えっ!? こわっ! 人間こわぁっ!?」
「行かないでぇーーー!
どこにも行かないでよぉぉーーーーッ!」
「ひぃーーーー!」
全身を使って己を拘束してくるミネッサを、半泣き状態で引き剥がそうとするトルク。
その日、森の中にはいつまでもいつまでも彼の悲鳴がこだまし続けていた。
そして、時は流れ三年後。
宣言通りこの世で最強レベルのムキムキゴリマッチョ乙女となったミネッサは、むしろフェロモン薬を使うまでもなく素敵抱いて状態に至ったトルクを娶り、人里離れた遠い遠い秘境の奥地でいつまでもいつまでも幸せに暮らしたのだという。
いつかの日、とある冒険家の証言によれば、世界の果てには、人言語を操る六本足のヒューマンスパイダー・ゾンビを従え、特級ランクモンスターであるマンモスベアーを拳一撃で屠る、どこか人間にも似た恐ろしく逞しい何かが生息しているのだとかいないとか……。
当然、現実味のないその証言は一笑に付され、時を置かずして世に数多蔓延る真偽不明の噂話のひとつとなり、間もなく風に吹かれ儚く消え去った。