怪盗パンプキン
『お昼に食べようと思ってたシュークリーム、教室に置いておいたら盗まれた(怒) 代わりにこんなもの置いてあったし……ちょっとかわいいけど、むかつく!』
添付されてる画像には、一枚のメッセージカードのようなものが写っている。『Trick or Treat! オ菓子ハ頂イタ!』という文字と、デフォルメされたジャックランタンの絵がついている。
大学に向かう電車の中、ぼんやりとツイッターを眺めていると、そんなツイートが目についた。IDは「aminur」、見知らぬ名前だ。小さく「なるみんさんがリツイート」と書いてある。
ああ、なるほど。なんだかなるみちゃんが好きそうなことだ。
大学の最寄駅で電車を降りると、僕は首から垂らしたマフラーを結び直す。もう三十一日とはいえ、十月の気温ではないなと思いながら大学に向かってとぼとぼと歩く。
それにしても、ハロウィンか。毎年誰かが「今日はハロウィンだよ!」と言って騒いでいるのは見るけれど、実際にパーティーだのなんだのをやっているのは見たことが無いな。やはりパーティーではみんな仮装をするのかな。ちょっとしてみたいような……
気はしないな、やっぱ。
大学の門をくぐって、右手に見える西洋建築の意匠あふれる建物に入る。僕が所属する近世文学講座の研究室と、いくつかの教室が入っている、白樺講堂だ。
一、二年生のころは、こんなおしゃれな建物で勉強できるなんていいなあなどと思ったものだけれど、四年生になった今となっては、古いだけあっていろんなところから隙間風が入るなあくらいしか思うところはない。あと、歩くたびに廊下がギシギシ鳴ってうるさい。
一階の廊下の突き当たりにある、近世文学講座の研究室の前に辿り着く。「おはようございます」と言いながら、ドアを開けると、むわっとした熱気が僕の体を包み込む。曇った眼鏡を一度とって部屋の中に入ると、奥の方から藤野先輩の声が聞こえる。
「ああ、片桐くん。入ったら閉めてよ、寒いんだから」
藤野先輩はデスクトップの前で何やら難しい顔をしてカチャカチャやっている。
「先輩、暖房入れ過ぎじゃないですかね」
「うっさい。わたしが来た時は寒くて寒くてしょうがなかったんだから。だいたいここの暖房、微調整なんかできないっての」
ですよねーと返すと、僕はいつも座る席について自分のノートパソコンを起動する。理由はわからないけれど、藤野先輩は明らかに苛々しているようだ。一人でぶつぶつ言いながらパソコンに向かっている。とりあえずそっとしておこう。
「卒論」のフォルダを開くと、構想やメモ書きなどをまとめたワードファイルを呼び出す。
……うーん。やっぱりこのままだと上手く書けなさそうな気がする。材料はほぼ揃っているし、章立てもだいたい決まっている。今の状態ならもう書けるはずだし、時期としてもそろそろ書きはじめないとまずい。
「あー、これじゃだめか」カチャカチャ。
……でもなあ。これじゃ考察が弱いんだよなあ。いくら三万字書いても考察がこれじゃあなあ。やっぱり理論的な部分の勉強がもっと必要だよなあ。でも教授からはとりあえず書きはじめろって言われてるしなあ。うーん……
「はあ!? なんでそうなるのよ!」ガタッ。ガチャガチャガチャ。
……だめだ。
藤野先輩のことはそっとしておこうと思ったけれど、どうやら無理みたいだ。気は進まないが、聞いてみるか。
「どうかしたんですか、先輩」
先輩は顔を上げると、
「どうもこうもないわよ! まったく。小野寺先生が急にね、自分のホームページを作りたいとかおっしゃってね。まあ、それだけならどうぞご自由にって話なんだけど、『作り方がわからないから藤野さんやってよ』って! わたしはただの大学院生であんたの秘書でもなんでもないっつーの。まったく、こっちは修論もあるのに」
一息で喋ると、キーボードを壊さんばかりの勢いでエンターキーを弾く。
「ま、まあまあ。先輩、小野寺先生に気に入られてるから」
「その割には全然おごってくれないけどね! あー、イライラする。片桐くん、煙草吸っていい?」
「だめですよ、十月から構内全面禁煙です」
「じゃあ、プリン食べる!」
先輩は弾かれたように椅子から立ち上がると、共用で使っている冷蔵庫の方に歩いていく。後ろでまとめた髪がぴょこぴょこと揺れていて、不覚にも少しかわいいと思ってしまった。
パソコンの画面を見てみると、HTMLらしきものが表示されている。まあ、藤野先輩はパソコンに関して、小野寺先生よりはマシってだけで特別詳しいわけではないからな。
僕がこの、口は悪いが面倒見の良い大学院生に同情していると、当の大学院生の叫び声が聞こえてきた。今度は何だ。
「ない! わたしのかぼちゃプリンが!」
それはまた、かわいそうに。共用で使っている冷蔵庫なので、こういうことはままある。先輩の後ろから冷蔵庫を覗き込んで、「ちゃんと名前書いてましたかー?」と言おうとした。
雑多に詰め込まれた冷蔵庫の中に、一枚のカードが見えた。
カードには『Trick or Treat! オ菓子ハ頂イタ!』の文字。そして、愉しげに笑うかぼちゃのおばけ。
「それで、どうなったの?」
「どうもこうも。怒ってる藤野先輩をなんとかなだめてはいたんだけど、どうもしばらくはおさまらなさそうだからね。こうして食堂に避難してきたってわけ」
怒り狂う藤野先輩から逃げてきた僕は、食堂で会った相馬さんと一緒にお昼を食べている。
「あはは、それは恐いね」
相馬さんは楽しそうに笑いながらオムライスをつついている。
僕らの代の近世文学講座の学生は二人しかおらず、僕と相馬さんは自然と仲良くなった。お昼になると、たまにこうやって二人でご飯を食べることもある。
「しっかし、『オ菓子は頂イタ!』か。いったい誰がこんなことしたんだろうね」
藤野先輩の話では、くだんのかぼちゃプリンは講座のOBの人が昨日遊びに来た時に、お土産として買ってきてくれていたものらしい。藤野先輩はすぐ食べるのはもったいないと言って、紙袋にいれたまま大事にしまっていたようだ。
「うちの研究室って鍵かからないから、誰でも入れちゃうよね」
「そうなんだよねえ」
つまり、容疑者はそう簡単には絞れないということだ。
「しかも、どうやら被害に遭ったのは藤野先輩だけじゃないようなんだよね」
僕は携帯を取り出して、朝見たツイッターの画面を相馬さんに見せる。
「わ、同じメッセージだ。ということは同じ人がやったのかな」
「まあ、おそらくはね」
相馬さんはむー、としばし考えている様子。
「片桐くん、ミステリーとか好きだったよね? 何かわからない?」
うーん、好きとはいっても探偵の経験があるわけじゃないんだけれど。
「そうだなあ……。こっちのシュークリームの件に関しては、写真を見ただけだから詳しいことはわからないけど。藤野先輩の件に関しては……白樺講堂の、もっと言えば近世文学講座の研究室の間取りを知ってる人だと思う。いくら朝早くて人がいない時間でも、全く入ったことがない建物でお菓子を探すなんて、普通はちょっとためらうんじゃないかな。少なくとも僕は無理だよ」
「ああ、確かに。となるとうちの講座の誰かかな?」
「まあ、そうだろうね」
厳密に言えば本を借りるとかで講座以外の人が来ることもあるが、人がいない時間帯を狙ったところから、おそらくは近世文学講座の人の仕業だろう。といっても、学部生、院生、教員も入れれば、容疑者は十人以上はいる。
「んー、なかなか気の利いたいたずらだとは思うけど、ねえ?」
相馬さんは少し困ったように笑う。
僕も、ハロウィンらしいウィットに富んだいたずらだとは思う。でも、何も藤野先輩が大事にとっておいたプリンを狙うことはないだろう。
「とりあえず……藤野先輩には後で購買に寄って、プリンを買っていってあげようと思うよ」
「さっすが片桐くん。やっさしー」
「いやいや。あのままあそこで暴れられているとこっちが卒論できないし」
目の前のたぬきそばをずるずると啜る。
「卒論かー。片桐くんは今どんな感じ?」
「んー、あんまりかな……。考察の部分がいまいち気に入らなくて、どうにも書きはじめる気が起きない」
いかん、言っててちょっと沈んできた。「相馬さんは?」
「私はぼちぼちかな。とりあえず三章くらいまでは書いてみたけど」
「え、早。それって半分以上は書いたってことじゃん」
「いや、そんなことないって! とりあえず書いてみただけだから、これからいっぱい直すと思うし」
相馬さんは慌てて手を振る。全く書けていない僕への心遣いが透けて見えて、つらい。
この時期の四年生は、「卒論どう?」があいさつ代わりになっている気がする。少し前までは「就活どう?」がそうだったわけだが、相手によってつらい質問になるという点では同じだ。
僕らは昼ご飯を食べ終えると、二人で購買に寄って藤野先輩にあげるプリンを買った。
うちの大学はキャンパスが南北に延びていて、白樺講堂は南の端にある。食堂はほぼ真ん中辺りにあるので、僕らは研究室に向かって南下するかたちになる。ちょうど構内の銀杏の紅葉が見ごろということもあり、キャンパスはカメラを持った観光客であふれかえっている。
人込みをかきわけながら歩いていると、後ろから馴染みのある声が聞こえた。
「片桐先輩! 相馬先輩!」
振り返ると、ベージュのダッフルコートを着て人懐っこい笑顔を浮かべた女の子がこちらに向かって歩いてくる。
「ああ、なるみちゃん。これから研究室行くの?」
「はい!」
なるみちゃんは、元気いっぱいに返事をした。
小村なるみちゃんは、近世文学講座の二年生で、僕と相馬さんにとっては二こ下の後輩にあたる。
僕らが入った次の年は、講座にひとりも学生が入ってこなかったので、なるみちゃんが入ってきたときは「初めて後輩ができる!」と相馬さんと二人で大喜びした。しかもその年の新入生はなるみちゃんひとりだったということもあり、まあ一言でいえば、猫っ可愛がりをしている。
「なるみちゃん、そのダッフルかわいいね」
「ありがとうございます! えへへ」
相馬さんとなるみちゃんを見てると、講座の先輩後輩というよりは、仲のいい姉妹のように見える。しっかりものの姉と、甘えん坊の妹、といったような。
「なるみちゃん、うちの講座にも出たよ、お菓子泥棒。藤野先輩がプリンを盗まれた」
なるみちゃんはもともと大きな瞳をもっと大きくして、
「出たんですか!? 『怪盗パンプキン』が!」
僕と相馬さんは一瞬顔を見合わせる。
「怪盗、パンプキン?」
なるみちゃんは得意げに胸をそらすと、僕らに説明してくれた。
「かぼちゃの絵を描いたメッセージカードを残すから、『怪盗パンプキン』ですよ。チョコとかガムとか飴とか、いろんなお菓子が盗まれてて。今、大学中でちょっとした騒ぎになってるんですよ。わたしも友達から聞いただけなんですけど」
それはなんとも。暇な人間がいたものだなあ。
相馬さんも同じ感想を抱いたようで、「うちの大学は平和だねえ」とつぶやいている。いや、冷静に考えれば窃盗事件なんだけれど。
「ところで、なるみちゃん。その箱は? ケーキか何か?」
なるみちゃんはいかにもケーキが入っていそうな白い紙箱を、僕らの方に得意げに突き出して見せる。
「〈エドウィン・ダン〉の秋限定、かぼちゃのタルトです! 甘あい栗かぼちゃと、たっぷりしぼったホイップクリームの相性が抜群で、とってもおいしいんですよ! あとでみんなで食べましょう!」
おお、それはうれしい。これで藤野先輩も機嫌を直してくれるといいけれど。
それにしても、ケーキが入っているのにそんなにぶんぶん振り回して大丈夫なのかい、なるみちゃん。
研究室に戻ると、藤野先輩はいなくなっていた。荷物は置いてあるので帰ったわけではないようだが。
ずっと暖房をつけているせいか、なんだか部屋の空気がよどんでいたので、部屋に一つだけある、大きな上げ下げ式の窓を開ける。建物と同様、年季が入っているので、開けるたびに外れないかとびくびくする。
例のメッセージカードをなるみちゃんに見せてあげると、興奮した面持ちでカードを食い入るように見ていた。
「怪盗パンプキンとやらが誰かは知らないけどね、何も藤野先輩のものを狙わなくともよかったのに。まー怒って怒ってそれは大変だったんだから。何もプリンひとつでそこまでってくらい」
なるみちゃんは、元気いっぱいだった顔を少ししゅんとさせると、
「私、藤野先輩の気持ち少しわかります。この季節に食べるかぼちゃプリンって、とってもおいしいんです」
相馬さんは頷いて、
「そうだね。なるみちゃんのタルトも、怪盗さんに盗まれないようにしっかりしまっておかないとね」
なるみちゃんはこくんとうなずくと、持ってきた紙箱を大事そうに冷蔵庫の奥にしまった。
二時を過ぎても藤野先輩は戻ってこなかった。小野寺教授のお手伝いでもしているのだろうか。僕ら以外の講座の人も来る様子はない。研究室には僕と相馬さん、なるみちゃんの三人だけ。
僕は午前中と同様に、ノートパソコンを前にうんうんと頭を悩ませていた。やはりどれだけ考えてもいい案が見つからない。どうやら煮詰まってきているようだ。
そんな僕とは対照的に、相馬さんの方からは、軽快なタイピングの音が聞こえてくる。執筆のペースは順調のようだ。
なるみちゃんは、講義の教科書らしきハードカバーの本を静かに読んでいる。
珍しい。いつもなら、卒論をやっている僕らの方を、かまって欲しげにちらちら見てくるのに。
と、なるみちゃんは何かを思い出したような顔をすると、読んでいた本を閉じて立ち上がった。
「忘れてた、明日の授業の資料印刷しておかなきゃいけないんだった! ちょっと印刷室行ってきます」
印刷室は、研究室の隣にある、コピー機が置いてある部屋だ。
「なるみちゃん、うちのコピー機使うの初めてでしょ。使い方わかる?」
なにしろ旧型なので、使い方にはちょっとこつがいるのだ。
「多分……わかると思います」
なるみちゃんは曖昧に笑うと研究室を出て行った。まあ、わからなくなったら聞きに来るか。
研究室には僕と相馬さんの二人きりになった。
すると、程なくしてキーボードを叩く音が止み、
「私もちょっと飲み物買ってくるね」
相馬さんはパソコンを閉じると、上着と財布を持って、研究室を後にした。
そして、部屋の中には僕一人になった。
ときおり暖房がたてるブーン、という音が聞こえるくらいで、あとは完全な静寂。
……あんまり静かすぎてもやりづらいな。
僕はうーん、と背伸びをすると、そのままの勢いで椅子の背にもたれかかった。
完全にだらけきった体勢でいると、勢いよくドアが開いて、困った顔をしたなるみちゃんが飛び込んできた。
「あ、あの、コピー機が動かなくなっちゃいました……」
原因は紙詰まりだった。なにせ古いので、印刷するスピードを調節しないと、すぐに詰まってしまうのだ。機械のふたを開けて詰まった紙を取り除き、今度はスピードを遅めにして印刷をスタートさせると、ゆっくりと紙を吐き出し始めた。
「ありがとうございます、先輩!」
「どういたしまして。また何かあったらすぐに言ってね」
「はい!」
うん、いい返事だ。
僕らは、コピー機から規則正しく紙が吐き出されるのを、二人で眺めていた。
廊下の方からギシギシという足音が聞こえる。相馬さんが戻ってきたのだろうか。
コピーした紙の束を抱えたなるみちゃんと一緒に研究室のドアを開けると、相馬さんがビニール袋から紅茶のペットボトルを取り出していた。購買で買ってきたらしい。
「あれ、また詰まったの?」
にやにやしながら聞いてくる相馬さんに、肩をすくめて答える。「『印刷速度は最遅にすること』とか書いて、コピー機に貼っておいた方がいいかもね」それが、大学に頼んで新しいコピー機を買ってもらうか、だ。
「そうそう、外歩いてたら藤野先輩と会ったよ。なんでも、小野寺教授のところにお客さんが来るからってお使い頼まれたとかで。しばらく戻ってこれなさそうだったよ。……あと、これ以上ないってくらいイライラしてた」
……先輩、かわいそうに。
「どうする? 先輩はまだしばらく来ないだろうし、先に、なるみちゃんが買ってきたタルト切っちゃおっか」
部屋の時計を見ると、三時を少し過ぎている。おやつの時間にはちょうどいい。
相馬さんの言葉に、なるみちゃんはその場で飛び跳ねそうな勢いで、「はいっ!」と答えた。相馬さんも嬉しそうに、
「よしよし、時間も丁度いいし、お茶にしよう」
冷蔵庫を開けると、奥にしまってあった紙の箱を取り出した。
と、相馬さんは一瞬、「あれ?」という顔をした。首を傾げながら、テーブルの上に箱を置いて、箱を開けた。
『Trick or Treat! オ菓子は頂イタ!』
箱の中にはかぼちゃのタルトは影も形もなく、一枚のカードがあるだけだった。
なるみちゃんはよっぽどショックをうけた様子で、「わたしの……タルト……かぼちゃ……ぱんぷきん……」などとぶつぶつつぶやいている。相馬さんはそんななるみちゃんをなぐさめようと、なでたりさすったりしている。
……状況を整理してみよう。
まず、なるみちゃんが印刷室に行く。ほどなくして、相馬さんが購買に行くといって部屋を出る。
詳しくは覚えていないが、どちらもだいたい二時半くらいのことだろう。
そのあと、多分五分くらいして、なるみちゃんが僕を呼びに来る。
そして、廊下から相馬さんらしき足音を聞こえる。少しして、僕となるみちゃんは印刷を終えて研究室に戻る。
時計を見ていたわけではないので詳しい時間はわからないが、研究室に誰もいなかった時間はせいぜい十五分くらいだろう。その間、研究室の前の廊下を通った人間は、購買から戻ってきた相馬さん以外にはいないはずだ。印刷室には窓がないので、直接見たわけでないが、誰かが通れば床板がきしんですぐにわかる。
つまり、廊下から研究室に侵入するのは不可能だ。ということは……
換気のために開けておいた窓を見る。大きな窓なので、よっぽど大柄な人間でもない限り、身をかがめれば通れるだろう。
まさか、外から。
窓から身を乗り出し、地面を見てみる。
すると、ちょうど窓の真下に、紅葉した落ち葉が集められて、山になっていた。上から踏みしめたりした痕跡はない。となると、外から侵入したのでもない、か。
「……おもしろいじゃないか」
相馬さんとなるみちゃんが怪訝そうにこちらを見ている。
「この謎は僕が解いてみせる! 卒論はいったん中止だ!」
落ち込んでいたなるみちゃんが、ぱあっと顔を輝かせる。相馬さんは「いや、卒論もちゃんとやろうね。片桐くん、ちょっとやばいんだから」と苦笑いしている。
「とりあえず目撃者を探してみよう。もしかしたら怪しいやつを見たという証言が得られるかもしれない」
結論から言うと、有用な目撃証言は得られなかった。講堂の中には空き教室を使って自主ゼミをしているグループや、教授と面談をしている院生などがいたが、誰も怪しい人間は見ていないという。まあ、みんな部屋の中にいたのだから廊下の方には特に注意していなかったのだろう。考えてみれば当たり前の話だ。
いったい、誰がどうやって。部屋には鍵がかかっていたわけではないが、廊下を通って研究室に行くには、印刷室の前を通らなければならない。この部屋はいわゆる「密室」だったわけだ。
状況だけを見れば……
僕は相馬さんの方をちらっと見る。一番怪しいのは彼女だ。外出先から戻ってきた相馬さんが、僕となるみちゃんが印刷室にいる間に、かぼちゃのタルトを盗ったと考えるのが自然だ。
だが、ワンホールのタルトをどこに隠したのかが問題になる。研究室にはそんな場所はないし、彼女のカバンにも入りそうにはない。
そもそも、相馬さんがそんなことをする動機が考えられない。表ではなるみちゃんのことをかわいがってはいるが、裏では嫌っていた、とか?
無意識のうちに、相馬さんの方を見つめると、視線に気づいた相馬さんが、こてん、と首を傾げる。
いや、ないない。こんな良心のかたまりみたいな相馬さんを疑うなんて、僕はどうかしている。
「廊下を歩く足音は聞こえなかったんですよね? じゃあ、犯人は腕と脚を突っ張って壁を伝って来たとか! 忍者みたいに!」
ほら、こうやって! となるみちゃんは両腕を広げて見せる。
「それだと、床板はきしまないかもしれないけど、壁を伝って印刷室に直接振動が伝わってばれちゃうでしょ」
相馬さんに冷静に諭され、なるみちゃんはしょぼんとしている。ああ、わかりやすいくらいにかわいいなあ。
「少し話を変えよう。藤野先輩がプリンを盗まれた事件についてだ。
藤野先輩は昨日、OBさんたちからおみやげのプリンをもらった。だが、すぐに食べるのがもったいなくて、紙袋に入れたまま冷蔵庫に入れておいたらしい。そして、今日。先輩は九時くらいに研究室に来て、ずっとパソコンに向かっていたらしい。十時すぎに僕が来るまで、誰も来なかったって。そんで、十時半くらいかな、冷蔵庫のプリンがなくなっていることに気づいた」
二人はうんうんとうなずいている。
「僕は昨日ここには来ていないんだけど、だいたい何時くらいまで人がいたかな」
なるみちゃんは、「私も昨日は来ていないのでわからないです……」と言うので、相馬さんの方を見る。
「私は最後までいたからわかるよ。確か六時半くらいにはみんな帰ったんじゃないかな」
と、なると。
「先輩のプリンが盗まれたのは、昨日の夜六時半から今日の九時までの間ということか。うーん、さすがに広すぎるなあ」
やはり容疑者の絞り込みは難しいか。まあ、藤野先輩をよく知っている人間ならば、先輩が大事にとっておいたプリンをわざわざ盗むなんて命知らずなまねはしないだろうと思いたい。が、それだけの理由で講座の人間を除外するのは難しいだろう。
僕だって、よっぽど腹に据えかねたことがあれば、先輩のプリンを盗むくらいするかもしれない。いや、しないけど。
だめだ、わからない……
僕は、空の紙箱の中を覗き込む。
汚れひとつない真っ白な箱の中に、名刺サイズのカードが入っている。まったく、何が「お菓子をくれなきゃいたずらするぞ」だ。有無を言わさず盗んでいるじゃないか。
――ん?
待てよ……まさか。
頭の中にあった色んなことがつながった気がした。そうか、そういうことだったのか。
「片桐くん、どうしたの? さっきから黙っちゃって」
相馬さんが心配そうに僕を見ている。
「犯人が……わかった」
「本当に? 誰なの?」
僕はふうっと長い息を吐く。そして、期待に満ちた顔つきで僕を見つめる後輩の女の子を正面から見据える。
「君だね、なるみちゃん」
なるみちゃんは少しだけ驚いた様子を見せたが、その顔はすぐに挑戦的なものに変わった。
「片桐先輩、どうして私が犯人なんですか? 私は被害者ですよ?」
しゃべり方は不満げだが、なるみちゃんはどこか楽しんでいるようでもある。
僕は空の紙箱を手で示す。
「なるみちゃん、そもそもこの箱の中には最初からかぼちゃのタルトなんてはいってなかったんじゃないか」
考えてみれば、僕も相馬さんも箱の中を見てはいない。なるみちゃんからこの中にはタルトが入っていると聞いて、そう思い込んでいただけだ。
「何を根拠にそんなことを……証拠はあるんですか?」
なるみちゃんは僕をからかうように笑う。
「証拠ならあるよ。冷静に考えてみるとね、この箱は少しおかしいんだ」
「おかしい? 何の変哲もない、きれいな箱じゃないですか」
「そう、そこだよ。きれいすぎるんだ」
なるみちゃんはけげんそうに眉を寄せる。
「相馬さん。なるみちゃんが言うには〈エドウィン・ダン〉のかぼちゃタルトはどんなものだった?」
相馬さんは少し、考え込むと、
「ええと……『甘い栗かぼちゃと、たっぷりしぼったホイップクリームの相性が抜群』で……あっ、そうか!」
気づいたようだ。
「そう。ホイップクリームをたっぷり使っているんだよね? ならば、箱の内壁に少しもクリームがついていないのはおかしい。なるみちゃんはずいぶん元気よく箱を振っていたしね」
なるみちゃんは感心したように頷いている。
今回の事件がなるみちゃんの自作自演だとすると、問題は簡単だ。あらかじめカードを仕込んでおいた空の紙箱を僕らにこれ見よがしに見せ、最初からかぼちゃのタルトがあったように見せかける。あとは、うまいこと研究室に誰もいない時間を作り出し、そのときに盗まれたという風に思わせればいい。
「なるほど、よくわかりました。じゃあ、藤野先輩のかぼちゃプリンも私がやったっていうんですか?」
「かぼちゃプリンだって?」
僕は人差し指をびしっと突きつける。その動きにつられて、なるみちゃんは若干寄り目になってしまっている。
「どうして盗まれたのがかぼちゃのプリンだって知っているんだい? 僕らはただプリンとしか言ってなかったはずだけど」
なるみちゃんは一瞬で顔を強張らせた。僕は一拍置いて続ける。
「藤野先輩のプリンがかぼちゃのプリンだと知っているのは、昨日研究室にいた人間か、盗んだ犯人だけだ。なるみちゃん、昨日は研究室には行ってないって言ってたよね」
なるみちゃんはがっくりうなだれると、大きなため息をついた。
「むー。うまくいったと思ったのにい」
「まだまだ詰めが甘いね」
……まったく、なんて楽しいんだ! 名探偵ってやつは!
僕が大人げなく得意げになっていると、僕らのやりとりを聞いていた相馬さんが、ぽつりとつぶやいた。
「あれ、じゃあなるみちゃんがリツイートしたとかいう、シュークリーム盗まれた子も、なるみちゃんがやったってこと?」
僕は携帯を取り出して、ツイッターの画面を呼び出す。
「この、『aminur』さんが投稿したツイートのことだね。しかしこのIDはどうやって読むんだろうね。あみぬる? どういう意味だろうか。まるで暗号みたいだ」
冗談めかして話していると、さすがになるみちゃんもむっときたようだ。不満げに頬をふくらませている。
「ごく簡単な並べ替え問題だよねえ、なるみちゃん」
相馬さんは少し考えると、ああ、と手を叩いた。
「それにしても、どうしてこんなことしたの? わざわざツイッターで新しいアカウント作ったりして、いたずらにしてはずいぶん手がこんでるじゃない?」
相馬さんが不思議そうに聞く。確かに、僕もそこは気になるところだ。なるみちゃんはゆっくりと口を開くと、
「だって……先輩たち十月に入ってから、ずっと卒論卒論で大変そうで。片桐先輩なんか、明らかに煮詰まっちゃってるし」
うぐっ。なるみちゃんにまでそれを言われるとつらい。とてもつらい。
「だからっ。ハロウィンくらい息抜きしてもらいたいと思って! 特に、片桐先輩はいっつもミステリーの話とかしてるし。こういう謎かけとか絶対好きだと思ったから」
ああ……
なんて先輩思いの後輩だろうか。なんだか方向性が間違っている気がしないでもないが、先輩のためを思ってここまでしてくれるなんて。
「そうなんだ。なんていうか……なるみちゃんらしい理由だね。うん、確かに少し楽しかったよ。でも、藤野先輩にはあとでちゃんとあやまらなきゃだめだよ」
相馬さんに頭をぽんぽん、とされると、なるみちゃんは嬉しそうに答える。
「はい! ちょっと隠しておいただけなので、すぐに持ってきます!」
そういって、こちらの方をちらっと見る。「片桐先輩は、どうでしたか?」
「うん、まあ、楽しかったよ。というか、探偵役って気持ちいいんだなって思った。それに、いいガス抜きになったと思う」
なるみちゃんの笑顔がはじける。ああ、本当にいい顔をするなあ、この子は。
これで一件落着かなと思っていると、研究室のドアが開いた。
「あー、疲れたー」
「あ、お帰りなさい、藤野先輩」
小野寺教授のお使いとやらは終わったのだろうか。
「あ、なるちゃんもいたの。相変わらず子りすみたいだねえ」
先輩はにやにやしながら後ろ手にドアを閉める。
あれ? あんまり怒ってない?
「いやーあの先生もほんといいかげんにしてほしいよね。『お客が来るからあそこのケーキ買ってきて』とか言っておいて、わざわざ買って持って行ったら、『やっぱり外で会うことになった』とか言うんだもん。腹立つからみんなで食べちゃおう」
そう言うと、左手に提げていた紙袋をテーブルの上に置いた。袋には、「Edwin Dun」の文字が書いてある。
「え、いいんですか。僕らで食べちゃって」
「いいのいいの。どうせあのおじさん一人じゃ食べきれないんだから。さ、切り分けよう。相馬ちゃん、ナイフ持ってきて」
はーいと言うと、相馬さんは食器棚の方に向かった。
なるみちゃんは、藤野先輩が箱を開けるのをきらきらした瞳で見守っている。
たっぷりの生クリームがかかった、金色に輝くかぼちゃのタルトが、箱の中から顔を出した。
――Happy Halloween!!