ネコがのどを鳴らした
ネコが嬉しそうに喉をごろごろ鳴らしている。
『咲田』の表札がついた家の前でネコを撫で回しているのは、知らない男の子だった。ランドセルを背負ったままネコの横にしゃがみこんでいる。
じっと見ていると、男の子は顔を上げて目を丸くした。すごい勢いで立ち上がる。
「あ、あの、ご、」
「……いいよ。そのネコ、ぼくんちのじゃないし」
男の子は、知らない小学校の制服を着ていた。ぼくのとこは私服だから違う学校の子であることは間違いない。
曇り空は夕暮れを示していて、もうしばらくしたら「子供ははやくお家に帰りましょう」の放送が流れる頃だった。
ぼくはネコを挟んで男の子と反対側にしゃがんだ。撫でるのをやめられて不満そうなネコの頭に手を置いた。背を向けてどこかに行こうとする男の子に声をかける。
「ねえ、何年生?」
「え、よ、四年……だけど」
「へえ。じゃあぼくと同じだ」
「……そうなんだ」
「名前は?」
「りょうた」
「どうしたの、こんなところで」
「……学校、終わっちゃったから。家に帰らなきゃいけないなあ、って」
りょうたは口をもごもごさせた。変わった奴だなあ、とぼくは首を傾けた。
「家この辺なの?」
「…………うん」
「へ? じゃあなんでぼくと学校違うの?」
「……おれ、電車に乗って遠くの学校に通ってるから」
「ふうん」
なんだかしらないけど、そんな奴もいるんだなあ。りょうたって、どんな字だろ。ぼくの友達には『亮介』ならいるけど。
ふとネコを撫でるのをやめると、手に毛が付いていた。
「うげ、なにこれ」
「あったかくなってきたから、毛が生え変わるんだよ」
「へえ」
こいつ、ぼくより頭よさそうだなあ。
手に付いた毛を払って立ち上がると、背後から高い声がした。
「つーくん」
「あ、つばさ」
後ろに立っていたのはつばさで、いつものセーラー服ではなくて白いニットにショートパンツ姿だった。中学はもう春休みなのだろうか。
「中入らんの? ――あれ、その子友達?」
ぼくはちらりとりょうたを見た。りょうたはあたふたしている。
「あの、その、ちがいま」
「うん。友達」
つばさはちょっとだけ笑ってネコを抱きかかえた。
「そう、じゃあお友達もどうぞ。叔父さんは絶対良いって言うやろうから」
ぼくも、そう思う。
中に入ると、もう三月も終わりだというのに未だに電気ヒーターが付いていて、暑いくらいだった。この家のヒーター(シバくんというらしい)はよく働くなあ、とぼくは感心した。
おじさんはというと、半纏から厚手のカーディガンになっただけで相変わらず炬燵に入りこんでいる。鉛筆を握っているけど、仕事なのか単に暇を潰しているのかはよくわからない。
「おー、つばさちゃんにつーくんコンビ、いらっしゃい~。――えっと、つーくんの友達? もいらっしゃい」
りょうたは、下を向いて眉をハの字にしている。
「と、突然ごめんなさい。あの、おれ、帰ります」
「えー、帰っちゃうの? お茶くらい飲んでいってよ」
おじさんがへらへら笑うと、つばさはネコを床におろして「じゃあお茶淹れてくる」と台所へ行った。
とりあえず座らせると、りょうたはそわそわ辺りを見回した。
なでようとおじさんが伸ばした手を、ネコがするっとかわした。おじさんは唇を尖らせて鉛筆を握りなおす。
「つーくんって今日から春休みだっけ」
「うん」
「へえ。あ、じゃあお友達も?」
「え、あ、はい。今日が終了式でした」
「いいねえ春休み」
鉛筆を持った手を止めておじさんがぼんやり言うと、りょうたは俯いた。
「……嫌です。春休み」
「ええ! なんで!? 学校好きなの?」
ぼくは思わず声を大きくした。春休みって宿題もないんだよ? すごくいいじゃないか。
りょうたはぽつぽつと話し出した。
「好きじゃないけど……学校は席があるから。出席番号があって、靴箱もあるから。……席に座ってたら、名前を呼んでもらえるから」
「ふうん」
よくわからないから相槌だけ打ってみた。おじさんは黙っている。
「学校が休みだと、おれって本当にいるのかなって思うんだ。だから、春休みなんてきらい」
やっぱり変わってるや。
おじさんは「そっか」とだけ言った。それと同時に、つばさが台所から戻ってくる。
お盆の上には湯のみが四つ乗っていた。おじさんの青い湯のみと、その色違いの赤いつばさの湯のみ。のこり二つはいつもぼくが使っている白に黒い肉球模様のやつとその色違いで黒に白い肉球模様のやつだ。
お盆の上から黒に白の肉球が描かれた湯のみを取って、おじさんはりょうたの前に置いた。
「これ、今日初めて使うんだ。つーくん二号のとお揃いだから、今日からこれが君のにするね」
「おれの……?」
りょうたはしきりに瞬きして湯飲みとおじさんを交互に見た。
一つ頷いて、おじさんはお茶を啜る。
しばらく湯のみを見つめ続け、りょうたはやっとそれを手に取った。息を吹きかけてから傾けると、ほんの少し笑った。その隣でネコは撫でてもないのに喉を鳴らす。
ぼくはそのとき、りょうたが初めて笑った気がした。