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猫はもういない


 猫はもういない。いなくなって、二年が経つ。

 僕が知らない間に、「本当の飼い主さん」が現れて「本当のお家」に帰ったのだという。本当って、なんだろう。じゃあ僕たちは、偽物の家族だったんだろうか。


 ちょうど、おじさんが「そろそろ室内猫にならない?」と相談していたばかりの時期だった。聞いたところによると猫のつーくんは、三年前、突然庭先に現れたらしい。おじさんは病院に連れて行って、飼い猫にする事を決めたのだ。つーくんには人に飼われていた形跡があった。いつでも本当の飼い主さんを探せるように、つーくんは放し飼いのまま、おじさんの家で一年近く過ごして、とうとう本当に本当の飼い主さんを見つけてしまった。

 小学生だった僕は、それを悲しいことだと思った。おじさんもつばさも、寂しいくせに口を揃えて「よかった」と言って、僕は何も言えずに俯いていた。


 不義理な猫だ、と思う。僕はコンビを解散した覚えはないし、挨拶もなしに会えなくなるなんて、ずるいんじゃないか。

 でも猫がいなくなったって、僕たちの時間はどんどん進んでく。僕は中学生になって、つばさは高校生になった。そしておじさんには、婚約者が出来た。


「どうしたらええんやろ」


 少し湿っぽい河川敷の堤防は、女の子には座るのに抵抗がありそうなものだが、つばさは自分のお尻を案じてる場合ではないらしい。


 梅雨明け前の夕方の空は、ため息がでるくらい明るい。

 つばさを見ると、彼女はすっかり肩を落としていた。いつの間にこんなに小さくなったんだろう。つい二年前は、つばさと僕の間にはどうしようもない程の隔たりがあったような気がしていた。だけどもう僕とつばさは身長も変わらない。あんなに大きかった三歳の年の差は、今では何てことも無くなっていた。


「その森下さん? が彼女だって決まったわけじゃないんだろ?」


 僕は立てた膝の上で頬杖を付いた。呆れた口調になってしまったのは、落ち込むつばさを慰めるためでも、早とちりじゃないかと思ったわけでも、ない。ただ、本当に好きなんだなと思い知ったからだ。なぜなら僕は、森下さんという女性がおじさんの恋人であり、結婚も考えているのだと知っているから。


 つばさは小さく嘆息した。


「女の勘は鋭いんよ、司くん」


「……女の勘は僕には管轄外だな」


 猫がいなくなったのが、たぶんきっかけだった。つばさもおじさんも、僕を司くんと呼ぶようになった。こうして変わっていってしまうんだな。僕は背が伸びて、見えるものが多くなった。そうして知ったのは、大人は見たくないものも見なくてはならない事だ。


 森下さんとおじさんが二人で歩いているのを目撃したのは、つい先日のことだった。女の勘をもたない僕にでさえ二人の関係はすぐにわかったんだから、つばさが気付くのは当然だ。


「それで、つばさはどうしたいんだ。おじさんを奪い返すとか?」


 僕は言葉が冷たくなってしまうのを、大人げないと感じながらも止められなかった。つばさがおじさんに好意をもっているのは、ずっと前から知っていたことだった。それこそ二年以上前から。早く止めてしまえばいいのに。姪に好かれてると知ってるくせに、決着をつけないまま結婚して幸せになろうとする叔父への恋なんて。


 僕は自分で考えた事に、胸を締め付けられて苦しくなった。

 つばさは珍しく目を丸くしている。


「奪い返すなんてとんでもない。おじさんは、可愛い奥さんを手に入れて、幸せな家庭を育むべきやもん」


「じゃあ何も問題ないんじゃないか?」


 僕はまた出そうになったため息を飲み込んだ。

 おじさんは可愛い奥さんと幸せな家庭を作る。本当の家族を作る。それをただ悲しいことだと思えるほど、僕はもう子どもじゃなかった。今なら僕も言えるのだろう。「よかった」と。


 オレンジ色の空はとっても綺麗なのに、夕日に掛かる雲が暗く見えた。


 膝を抱えるつばさに、僕は何も出来ないんだと思った。猫がいてくれれば、彼女を癒やせたのだろうか。僕がもっと無邪気な子どもなら、手を握ってあげることが出来ただろうか。僕がおじさんくらい大人なら、頭を撫でてあげることが出来ただろうか。







 一週間が過ぎ、少し久しぶりにおじさんの家に行くと縁側に笹が飾られていた。今日は七夕だ。おじさんが行事好きなのは相変わらずで、なんだか安心する。

 おじさんはその黒い目に僕を映すと嬉しそうに笑って、テーブルを指さした。


「短冊、何枚でも書いていいよ」


 僕は何か一言言ってやろうと考えていた筈なのに、いざおじさんを目の前にすると毒気を抜かれてしまった。どうしてこの世界は、上手くいかないんだろう。みんなが幸せに、なれないんだろ。


「僕、願望は自力で実現する主義だから」


「願い事くらい、減るもんじゃないんだからー」


 せめてもの反抗を込めてみたが、おじさんは僕の髪をくしゃくしゃに撫でた。この大きな手が、羨ましかった。でも僕の手が同じ大きさになったって、それだけじゃ駄目なんだと気が付いてしまった。


 そうだ、ちょっとお留守番お願いしていい? おじさんが言って、どうしてかと訊ねると花火を買いに行きたいんだという。


 一人になった僕は、縁側へ向かった。おじさんは無防備すぎるくらい無防備だ。この信頼が時にむず痒い。


 やけに立派な笹に、色とりどりの短冊が付けられている。


『世界平和』


『健康第一』


 この辺りはおじさんだろうな。おじさんの字は職業病なのかやけにポップだからわかりやすい。


「あ」


 高いところにある青色の短冊を見やって、僕は声を上げた。黒いサインペンで書かれたそれは、間違いなくつばさの字だった。


『たくさん花火したい』


 僕はなんだか泣きそうになって、ぐっと拳を握りしめた。テーブルへ戻って、短冊を手に取る。

 思いついたことを適当に書き連ねながら、僕は夕焼けに照らされたつばさの姿を脳裏に浮かべていた。


 おじさんは優しい。残酷なくらいに優しい。僕らはその優しさに引き寄せられてここにいる。きっと猫も、そうだった。


 緑色の短冊を摘まみ上げて、僕はふと部屋を見渡した。色んな時間を共有したな。お茶を飲んでお菓子を食べてごろごろして、決して健康的な時間ではなかったけれど。この場所が、おじさんと森下さん夫婦のものになるのか。いつかは子どもが生まれて、ここで育っていくのか。


 僕は自分の心に芽生えた感情が嫉妬であることに驚いた。僕がこんなに苦しいなら、一体つばさはどんな想いをしただろう。


 緑色の短冊に、ペンを走らせる。


『世界が翼に優しくありますように』


 書き終わると、玄関の方から足音が聞こえてきた。おじさんが帰ってきたのだろうか。焦って短冊を丸めてズボンのポケットに突っ込もうとするが、上手く入らない。なぜか駆け足になる足音に、僕は慌てて近くにあった画集を引き寄せ真ん中辺りのページに短冊を挟んで閉じた。


 現れたのはつばさだった。僕を見て目を細める姿に、心臓が痛んだ。世界が彼女に優しくあればいい。僕は願いを笹に吊すことすら出来ずに、彼女のために出来ることを探し続けていた。

 猫はもういない。


二年がたち、ようやく完結です。ありがとうございました!同シリーズの他作品もよろしくお願いいたします。

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