プロローグ 堕ちし世界樹 その7
夜光が狂いし世界樹の核を討ち、ホーリィら地母神とその眷属が現世に伸ばされた根を断った同じ時、西方大陸の各地で、一斉に攻勢が始まっていた。
北の果て、夏でも流氷が垣間見える海岸線。
ここにも、邪樹翁の群れは押し寄せていた。
居るはずの飼い主を探し、だが最早誰が、何が主かもわからなくなった群れ。
灰色の雲が途切れることない北の果てで、瘴気を纏い蠢く邪樹翁の群れは亡者の群れにも似ていた。
だが、そのモノクロな光景に光が差し込む。
「かような地まで主を求めるか……哀れよの」
それは、灰色の雲の中から現れた。
眩い陽光を背負った少女が、そうあるのが当然と言うように、天空からゆっくりと舞い降りる。
だが、次第にその姿が崩れてゆく。
「幾ら我らとて再生を続けるそなたらを退けるに消耗は避けられぬのじゃが……本体とのつながりを失っては、最早憂いは無いの」
いや、正確には崩れているのではない。内から溢れる輝きと背負う光輝に肉体が呑まれて行っているのだ。
同時に、北の海岸が光に包まれていく。
少女、いや、最早その司る事象その物の姿に、輝く無数の光球の集合体へと姿を変えた、陽光神アル・ハーミファスは、太陽そのものの光と輝きを解き放つ。
途端に、北の海岸線は熱獄の地へと変貌した。
光そのもので焼かれ、放たれる熱は容赦なく邪樹翁の軍勢を焼いて行く。
もっとも近い者は、一瞬で燃え尽き、放たれる熱の波動で大地へと焼きつけられる。
後には、影のように残る黒い残滓のみだ。
もし、邪樹翁の群れに意志があったのなら、せめてまとまるなり、間近の海に逃げ込むなどしただろう。
しかし、それは叶わない。
元より正気を失った邪樹翁達は、ただ行く手にあるものを歩みのままに破砕し押し砕くばかりで、狂い果てた森の領域を広げる以外の行動を忘れているのだ。
故にこそ、陽光神はその権能を振るう。
普段は彼女に挑むべき資格を持つ者のみに晒される真の姿をさらしながら。
不思議なことに、体高30mを超える邪樹翁の巨体を一瞬で塵にする熱量は、それ以外の者には全く影響を及ぼしていなかった。
強烈な輝きは北の果ての海岸を焼き尽くすであろうはずが、邪樹翁以外の何物も、波打ち際に身隠す貝なども含め、何の影響を及ぼしてはいないのだ。
それどころか、これまで邪樹翁に踏み荒らされ傷ついた生き物が癒されもしている。
陽光神アル・ハーミファスの権能は、太陽の力そのもの。
砂漠を焼き尽くす光の暴虐かと思えば、穏やかな春の日差しのような側面も存在する。
これは神としての真なる身体を晒した、ハーミファスの力そのものだ。
そして、この北の果てに赴いた力ある者は、ハーミファスだけではない。
ほぼ思考力と言うものを失っている邪樹翁の群れも、刺激を受ければ反射行動を取る。
圧倒的な光輝に押され、この地から離れようと、逃げる様な動きを見せる一団も存在した。
しかし、それは失敗に終わる。
光から逃れんと、踵を返した邪樹翁の群れ足元。
余りに強すぎる光に焼かれ、無数の影が伸びるそこで、強大な魔力が発生したのだ。
魔力は急激に凝縮し、影そのものが形を為したような手が、邪樹翁の足元の影から伸び、全てを影の中へ引きずり込んでいく。
「逃げるだなんて、いけないな。君たちの欲はそんなものなのかい?」
「この者らに欲は無い筈じゃ。話を聞いて居らなんだか、強欲の?」
響いた声に、ハーミファスが返す。
見れば、光り輝く球体の真下に、黒々とした影が広がっていた。
空中に浮かぶ光球から地まで、遮るものは何もない。
だと言うのにそこにいるのが当然といった風体で広がる影は、ハーミファスに答えるように影が持ち上がり、厚みを増す。
数瞬の後、そこには一人の少年が立っていた。
ただ外見を見るならば、少々悪戯好きそうな印象だろう。しかし、揺らめく手のような闇のオーラを纏う様は、到底普通の子供ではない。
無造作に伸ばされた髪が目元を隠し、ニタニタと笑う口元だけが印象的な顔。
道化師の様なひらひらとした無駄な布地の多い服は漆黒に染め上げられ、風も無いというのに時折揺らめいている。
彼の者こそ、強欲を司る大魔王グラムドーマ。
外見に反して七大魔王の中で最も古い存在であり、
「そだっけ? まあやることは変わらないし、良いじゃない」
「……全くこやつは。我は本当にコヤツを夫としていたのかのう?」
「少なくとも実の弟なのは動かしようがないねえ」
ハーミファスの双子の弟にして、夫であった。
あまりのグラムドーマの適当さに、光球姿でなければハーミファスは頭を抱えていただろう。
そんな彼女をからかうように、グラムドーマは笑う。
アナザーアースの設定では、大魔王となる前、古き神々としての頃には、ハーミファスを妻としていた存在とされていたとされる。
今は姿を隠した創造神が産んだ原初の双子神。それがハーミファスとグラムドーマであり、始まりの夫婦とされていた。
「それに、別れたつもりもないんだよね。僕は欲しいモノは手に入れるし、同じくらい手の中のものを手放したくないんだから」
「お互い体裁というものがあろうに、此奴は……」
尚、古き神話においてこの夫婦神は、度々夫婦喧嘩と言う名のグラムドーマのやらかしに対するハーミファスの折檻が繰り返されていたとされていた。
そしてグラムドーマが七大魔王となった今も、様々な伝承でも、この二柱が別れたと言う逸話は存在しないのだ。
「こんな所で体裁もないでしょ? それより、とっとと片付けて遊ぼうよ」
「ほんっとにお主は衝動に忠実すぎるのじゃ! あーもー、なんで我の伴侶がこ奴なのじゃ!」
陽光神の嘆きは、波打ち際に消え、とっととこの場を片付けて遊びたいとのたまう大魔王は、その本性をあらわにしてまで狂った世界樹の眷属を蹂躙してゆく。
この地の戦いの趨勢は変わることなく、その後陽光の少女と影なる少年がどう過ごしたのか……。
知る者は当事者二柱と、北の風のみであった。