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好きな人に、好きな人の相談をしてみた

 松本がメニューを開いたので、私は鞄を隣の席に置いて、訊いた。


「今日、何頼む?」

「生姜焼き」

「見なくてもよかったじゃん」

「一応、新しい可能性は検討する」

「で、生姜焼き」

「信頼してるから」


 だったら店先の食品サンプルだけで済むだろうに、松本は毎回メニューを開く。私はその向かいで、唐揚げと揚げ茄子の定食を探した。


「あ、あった」


 私の声に、松本がメニューから目を上げた。


「そっちも大概だろ」

「私は無くなってないか確認してるの」


 注文を済ませると、松本はおしぼりで手を拭きながら、さっきまで会社で見ていた動画の話を始めた。


「最後のカット、あと一秒くらい欲しい」

「私も思った」

「明日、編集に聞いてみる。どっか詰められるか」

「その前のテロップ減らせば?」

「あれ増やしたの藤田だろ」

「増やせって言われたんです」

「知ってる。横で聞いてた」


 松本が笑ったので、私も笑った。


 会社から駅までの途中にあるこの店は、夜の八時を過ぎても定食が頼める。飲まなくても気兼ねがなく、食べ終わったら帰れる。残業終わりにどちらかが「腹減った」と言えば、だいたいここだった。


 大学の頃は、学食か、部室の近くの牛丼屋だった。


 映画研究会で私が脚本を書き、松本が監督をしていた頃から、食事中にする話はあまり変わっていない。あそこは長い、ここは説明が足りない、その台詞は要らない。今はそこに、予算と納期と上司の都合が加わった。


 同じ会社のプロモーション部門に配属されて、私は企画、松本は制作のディレクションを担当している。就職してまでこいつに駄目出しされるとは思わなかった、と言ったら、こっちの台詞だと返された。


 松本がおしぼりを畳みながら言った。


「そういや、企画書の修正版。あれ助かった」

「何が?」

「参考の画、入れといてくれただろ。あれで先方と話が通った」

「ああ。口で説明しても、絶対違うの想像してるなと思って」

「うん。違うの想像してた」


 松本は水を飲んだ。


 こういうところだ、と思った。


 私が誰かに説明しようとして、途中から自分でもよく分からなくなっているとき、松本はだいたい分かっている。横から勝手に説明してしまうこともあれば、後になって「あれ、こう言えばよかったんじゃない」と指摘してくることもある。


 勝手に説明されたときは腹が立つし、後から言われたときは、だったらその場で助けてよと思う。


 それでも結局、次もこいつに話す。


 グラスを置いた松本が、私を見て訊いた。


「何?」

「え?」

「何か言いたそうな顔してる」

「してない」

「じゃあいいけど」


 追及せず、松本は卓上の小さなメニューを手に取った。季節限定の牡蠣フライを見ている。もう注文したのに。


 私はグラスの外側についた水滴を、指で拭った。


 最近、こういう短い沈黙が少し苦手になった。


 前は、黙っている間に明日の段取りを考えたり、スマホを見たりしていた。今もそうすればいいのに、松本が何を考えているのか気になる。二人で食事をしていることを、こいつはどう思っているのだろう、と。


 たぶん、何も思っていない。


 私もそうだった。少なくとも、少し前までは。


 私はグラスから指を離して、声をかけた。


「松本ってさ」

「うん」

「友達と付き合うのって、どう思う?」


 松本は牡蠣フライのメニューをゆっくり卓上に戻して、聞き返した。


「……どういうこと?」

「どういうことって、そのまま。元々友達だった人と、恋人になるの」

「ああ」


 松本はおしぼりの袋を小さく折ってから、答えた。


「別に、いいんじゃない」

「まあ、そうだよね」

「うん」


 終わった。


 いや、終わっていい。ちょっと聞いてみただけだし。何か具体的な答えを期待していたわけでもない。


 私は水を飲んだ。松本も水を飲んだ。


 先にグラスを置いた松本が、訊いた。


「誰かいるの」


 グラスを置きかけた手が止まった。


「……何が?」

「いや、だから。そういう友達」


 聞かれるに決まっている。


 今の話を自分が振られたら、私だって同じことを聞く。どうして、そこまで考えなかったんだろう。


 私はグラスを置いた。


「いない。いや、いるけど」


 松本が眉を寄せた。


「どっち?」

「だから、いるっていうか。別に、付き合ってるとかじゃなくて」

「それは分かるけど」

「……じゃあ聞かないでよ」


 松本が口を閉じた。


 違う。聞いてほしくないんじゃなくて。


 私は慌てて首を振った。


「ごめん。今の、違う。ちょっと待って」


 何を言っているんだ、私は。


 いつもなら笑ってごまかせるのに、松本は真面目な顔で待っていた。


 返事を待つのが怖くなって、私は付け足した。


「自分でも、よく分かんなくて」


 そこだけは、すんなり言えた。


 好きだとは思う。でも、この人と付き合いたいのか、と聞かれると、途端に考えることが増える。


 食事なら、今もこうして来られる。映画にも行く。用事がなくても連絡できる。会社で嫌なことがあれば愚痴を言えるし、いいことがあれば、たぶん最初に話す。


 今のままで、十分じゃないか。


 そう思える日と、それでは嫌だと思う日がある。


 しばらくして、松本が口を開いた。


「……いいよ」

「何が?」

「聞くけど。俺でよければ」


 少し困ったような顔だった。


 私は、ありがとう、と小さく言った。こんな話も聞いてくれるんだと思ったら、何だか申し訳なくなった。


——————————


 聞くけど、じゃないだろ。


 何を引き受けているんだ、俺は。


 藤田は向かいで、グラスを両手で持っていた。会社を出るときには一つに結んでいた髪を、いつの間にかほどいている。さっき、鞄を置いたときだろうか。


 そんなことより先に、気づくことがあっただろう。好きな男がいるなんて、全然知らなかった。


 いや、まだ好きかどうかも分からないらしい。本人がそう言った。


 だが藤田が、何とも思っていない男のことで、こんなに言葉を選ぶとは思えない。


 俺は、できるだけ普通に聞いた。


「どこの人?」

「どこって?」

「会社とか、大学とか」

「ああ……うん。昔から知ってる人」


 答えになっていない。


 言いたくないのかもしれない。俺も知っている相手なら、名前を出しにくいだろう。


 大学の頃の顔が何人か浮かんだ。


 映画研究会の連中とは、今でもたまに集まる。最後に会ったのは二か月前だ。あのとき藤田は誰と話していたか。


 思い出せなかった。自分も藤田と話していたことしか覚えていない。


 名前を聞く代わりに、俺は訊いた。


「最近、よく会うの?」

「会うよ」

「二人で?」

「うん」


 そうか。


 俺は折ったおしぼりの袋を、さらに半分にしようとした。小さくなりすぎて、うまく折れなかった。


 藤田が、ぽつりと言った。


「話してて楽なんだよね」


 俺が頷くと、藤田は続けた。


「別に、面白い話しなきゃとか思わなくていいし。こっちが適当に言っても、何の話か分かってくれるし」

「うん」

「嫌なことあったときも、変に慰めないっていうか」

「慰めないの?」

「私が悪かったら、私が悪いって言う」

「ああ」

「腹立つけど」


 藤田は少し笑った。


 俺も、笑ったつもりだった。


 そんな相手がいるなら、仕方ない。


 藤田は人付き合いがいいし、俺の知らない友達だっている。休日を全部一緒に過ごしているわけでもないのに、何で今まで考えなかったんだろう。


 俺は、おしぼりの袋をテーブルに置いて言った。


「いいやつなんじゃない」

「……うん」


 藤田が目を伏せた。


 言わなければよかった。嬉しそうに見えて、きつかった。


 俺は卓上のメニューを引き寄せた。牡蠣フライの写真を眺める。藤田の顔を見ているよりましだった。


 向かいから、藤田が遠慮がちに訊いた。


「何か追加する?」

「いや」


 俺はメニューを元の場所に戻した。


 定食が運ばれてきたので、会話が途切れた。生姜焼きが俺の前に、唐揚げと揚げ茄子が藤田の前に置かれる。


 助かった。とりあえず飯を食えばいい。


 藤田は箸を割ると、少し黙ってから言った。


「でも、向こうは、たぶん友達だと思ってるから」

「それは分かんなくない?」

「まあ、分かんないけど」

「本人に聞いたわけじゃないんだろ」

「聞けないでしょ、そんなの」

「……まあね」


 聞けるなら、俺もとっくに聞いている。


 俺たちはどうなんだ、と。


 大学もサークルも同じで、就職先まで同じになった。会社で毎日顔を合わせるくせに、休みの日に映画を見に行くこともある。


 一度、帰りが遅くなった撮影の後、電車で藤田が俺の肩にもたれて寝たことがあった。


 動けずにいた俺の隣で、こいつは駅に着くまで熟睡していた。起きた第一声は「首、痛い」だった。


 こっちも肩が痛かった。それでも起こしたくなかったことなんて、こいつは知らない。


 藤田が、箸の先を見ながら言った。


「私が逆だったら、困るかもなって」


 揚げ茄子をつまみかけて、やめる。俺は黙って、藤田の続きを待った。


「普通に友達だと思ってたのに、実は好きでしたって言われたら。今まで通りにしてていいのか、分かんなくならない?」

「それは……相手によるだろ」

「うん」

「向こうも好きだったら、別に困らないし」

「そりゃ、そうだけど」


 そこでようやく、藤田が俺を見て訊いた。


「そういうのって、分かる?」


 心臓が一つ、大きく鳴った。


「何が」

「友達が、自分のこと好きかどうか」


 藤田は真面目に聞いていた。


 俺の答えを待っている。


「……分かんないと思う」


 答えると、藤田は「だよね」と笑った。


 俺は味噌汁の蓋を取り、椀を持ち上げた。


 昔から知っている。

 二人で会う。

 遠慮なく話せる。


 そこまで並べて、慌ててやめた。


 そんなの、俺に相談する理由にも全部当てはまる。


 だいたい、俺のことなら俺に聞くか、普通。


 藤田が、俺の顔をのぞき込んだ。


「松本?」


 顔を上げると、藤田は俺の手元に目をやって、続けた。


「味噌汁、置けば?」


 飲みもせず、ずっと椀を持っていた。


「ああ。うん」


 置いた拍子に、少しこぼれた。藤田が心配そうに訊いた。


「大丈夫?」

「大丈夫」


 全然、大丈夫じゃなかった。


——————————


 私は紙ナプキンを二枚取って、松本の前に差し出した。


「はい」

「悪い」


 松本はテーブルにこぼれた味噌汁を拭き、椀の底にも紙ナプキンを当てた。


 松本がこぼすなんて珍しい。少し笑いそうになって、さっき自分が八つ当たりしたことを思い出した。


 やっぱり今日、疲れてるのかな。


 ここで話を変えればよかった。明日の打ち合わせのことでも、何でもよかったのに。


 私は唐揚げを一つ食べてから、訊いた。


「松本ならどうする?」

「何が?」

「友達のこと、好きになったら」


 松本は丸めた紙ナプキンを盆の端に置いた。


「……どうするかな」

「やっぱり言わない?」

「何で言わない方なんだよ」

「いや。今、考えてたから」

「言い方を考えてるのかもしれないだろ」


 私は箸を止めた。


 松本は生姜焼きを一切れ取って、ご飯に載せている。こっちを見ていないので、どんなつもりで言ったのか分からなかった。


 私は、もう一度訊いた。


「言うんだ」

「場合による」

「何それ」

「場合によるだろ、そりゃ」


 いつもの返し方に、少しほっとした。


 私は箸の先で揚げ茄子を裏返しながら、もう少し聞いてみた。


「例えば?」

「例えばって」

「どんな場合なら言うの」

「……そのうち、誰かに取られるかもって。そうなったら、嫌だろ」


 私は松本を見た。


 仕事の相談なら、もっとはっきり答える。できる、できない、ここを変えれば何とかなる。難しいなら難しいで、何が難しいのか説明してくれる。


 誰かに取られる。


 松本がそんな言い方をするとは思わなかった。


 少し意外に思って、私は言った。


「松本でも、そんなふうに考えるんだ」

「俺を何だと思ってんの」

「割と、決めたらすぐ動く人」

「仕事ならな」


 そう言われると、何も返せなかった。


 仕事じゃないときの松本も、私は知っているはずだった。見たい映画を三本も挙げておいて、上映時間を調べるのは面倒くさがることも。気に入った靴が傷んでも、別のものに買い替えられなくて、同じ靴をネットで探していたことも。


 でも、恋愛の話をちゃんと聞いたことはなかった。松本から話さないし、私も聞かなかった。


 松本が、味噌汁の椀を置いて訊いた。


「藤田は、どうしたいの」

「だから、それが分かんないんだって」

「そいつがどう思うかじゃなくて。自分は」


 私は、松本の顔を見られなくなった。


 付き合いたい、と言えばいいのだろう。そこで、じゃあ告白しなよ、と返されたら、嫌だ。


 松本に応援なんかされたくない。


 私は箸を置いた。


「……会いたいって言いたい」


 声が小さすぎたらしく、松本が聞き返した。


「何?」

「会いたいって。用がなくても」


 松本の箸が止まったので、私は慌てて続けた。


「今も会ってるんだけどね。でも、何か用がないと誘いにくいとき、あるじゃん。見たい映画があるとか、話したいことがあるとか」

「うん」

「別に何もなくても、会いたいからって言えたら、楽だろうなって」


 言ってから、余計に恥ずかしくなった。


 松本には、用事もなく連絡している。けれど、文面を打つ前には一応考えているのだ。今日も誘ったら多いかとか、先週も会ったなとか。結局、映画や仕事の話から始めている。


 向こうはそんなこと、知らないだろうけど。


 松本が何も言わないので、私は顔を上げて訊いた。


「……変?」

「いや」


 松本は私を見たまま、少し間を置いて続けた。


「それは、言っていいんじゃない」


——————————


 会いたいから会おう、と言われて、断るわけがない。


 そこまで考えてから、俺の話ではないかもしれない、と思い直した。


 さっきから、こればかりだった。


 確かめる方法はある。


 誰、と聞けばいい。


 たったそれだけなのに、俺はそいつの名前を聞かずに、ずっと相談に乗っている。


 藤田は唐揚げを食べていた。話している間はほとんど箸が進んでいなかったが、ようやくいつものペースに戻ったらしい。


 俺も冷めかけた生姜焼きを口に入れた。


 会う理由。


 先月、藤田から映画に誘われた。俺が予告を見て気になっていた作品で、藤田も見たかったのだと思っていた。


 映画を見終わった後、あいつは、まあまあだった、と言った。


 俺が少しむっとしたのを覚えている。こっちは結構よかったと思っていたので、その後入った喫茶店で、どこが駄目だったのかと聞いた。


 結局、一時間以上話した。


 あれも理由だったのか。


 いや、見たかっただけだろう。映画研究会だったんだから。


 藤田が水を飲んでいる間に、俺は訊いた。


「その人も、映画好きなの」


 藤田はグラスを置いた。


「……うん」

「一緒に見に行ったりする?」

「するよ」


 俺は、なぜかむっとした。


「俺と行くので足りないの」


 藤田が目を丸くした。


 しまった。


 俺は慌てて言い足した。


「映画。そんなに見る時間あるんだなって」

「……同じ映画、二回見たっていいじゃん」

「そりゃ、いいけど」


 藤田のグラスがテーブルにぶつかって、思ったより大きな音がした。俺はそちらを見たが、藤田は何も言わなかった。


 そういうことが言いたかったんじゃない。


 何で映画の本数に文句をつけてるんだ、俺は。


 最近何を見たのか。最後に会ったのはいつか。聞けば、少しは絞れる。


 でも、急にそんなことを聞き始めたら、自分のことだと思っているのが伝わる気がした。違ったとき、どういう顔をすればいいのか。


 藤田は皿に残ったキャベツを集めていた。聞ける雰囲気ではなくなってしまった。


 俺は、目の前の皿に視線を落とした。


 藤田が好きだと気づいたのは、いつだっただろう。


 はっきりしたきっかけは思い出せない。ただ、いつからか、藤田と二人で出かけた日に、帰ってから次の予定を考えるようになっていた。


 また誘っても不自然じゃない間隔を空けて、見たい映画を探した。


 藤田が忙しそうなら、何も言わなかった。会社で会えるのだから、それで十分だと思うことにした。


 向こうが同じことをしている可能性は、なぜかあまり考えなかった。


 俺は箸を置いて、藤田を見た。


「そいつからは、誘ってくるの」

「来るよ」

「二人で?」

「うん。……さっきも聞かなかった、それ」

「ああ、そうか」


 違う。さっきは、二人で会うかを聞いた。


 どっちから誘うのかは、まだ聞いていない。


 訂正するほどのことでもないので、俺は黙った。藤田は不思議そうにしていたが、それ以上は何も言わなかった。


 次に目が合ったら、聞こうと思った。


 その相手、俺も知ってる人か、と。


 知っていると言われたら、その次を考えればいい。


 藤田が最後の一口を食べ終えて、顔を上げた。


 目が合った。俺は口を開いた。


「……食べた?」

「うん」


 何を聞いてるんだ。


 見れば分かるだろ。


 藤田は箸を揃えて盆に置き、鞄に手を伸ばした。


「出よっか」


 俺は頷くしかなかった。


——————————


 店を出ると、思っていたより風が冷たかった。


 松本が一度立ち止まり、上着のポケットを確かめた。スマホと財布を触って、それから歩き出す。私はその横に並んだ。


 駅までは、十分もかからない。


 さっきから松本は口数が少なかった。


 映画、何本見たっていいじゃん。


 まだ少し腹が立っていた。松本とだから行きたいのに。そこだけ気にするなら、もっとちゃんと聞いてくれたらいいのに。


 いや、話したくないみたいな返事をしたのは私だ。


 相談が面倒だっただろうか。


 仕事の愚痴なら、もっと気楽に話せる。誰が悪いかを一緒に考えたり、どうにもならないねと笑ったりして、それで終わる。今日の話は、何を言っても私が、でも、と返す。


 聞く方だって困る。


 それでも松本は、好きな相手が誰かとは聞かなかった。


 聞かれたら、どうしていただろう。


 今も答えは分からなかった。


 信号が赤になり、二人で足を止めた。横断歩道の向こうから、自転車を押した人が渡り終えるところだった。


 私は松本の方を向いた。


「ごめんね、変な相談して」

「別に、変じゃないだろ」

「でも、答えようないじゃん。相手の気持ちなんて分かんないんだし」

「まあ……」


 松本は何か言いかけて、やめた。


 何。言ってよ。


 そう思ったくせに、松本がこちらを向くと、私は信号に目をそらした。


 もう気づいているのかもしれない。気づいていて、困っているのかも。


 急に、今までの話を全部なかったことにしたくなった。


 信号が青になったので、私は歩き出した。松本も隣に続く。


 横断歩道を渡りきってから、私は言った。


「やっぱり、今のままでいいかな」

「……何で?」


 松本の返事が早かった。


 私は前を向いたまま答えた。


「いや、だってさ。今でも仲いいわけだし、わざわざ、変なことにしなくても」

「変なことって」

「違う、変じゃないけど。こっちが勝手に好きになって、それで向こうまで、ねえ。困るじゃん」


 松本が何か言おうとしたので、私は先に続けた。


「今まで普通に話してたのにさ。それも駄目になったら、嫌だし」


 松本と気まずくなるのは嫌だ。


 会社で仕事の話しかしなくなって、帰るときも挨拶だけになって、映画を見ても感想を送れなくなる。そんなことになるくらいなら。


 私は松本より半歩前に出て、少し明るい声を出した。


「うん。やっぱり無し! ごめん、付き合わせて。忘れていいから、今日のは」


 後ろから松本の声がした。


「え、待って。何でそこで引くの。俺、待ってたのに!」


 私は足を止めた。


 後ろから来た人が、私たちを追い越していった。


 振り向くと、松本も立ち止まっていた。口を少し開けたまま、私を見ている。


 待ってた。


 何を。


 私は松本の顔を見て、訊いた。


「……待ってたって?」


 松本が目をそらした。


 会いたいって言いたい。


 私、それを本人に言ったんだ。


 私は鞄の持ち手を握り直して、訊いた。


「え、待って。知ってた? 気づいてたってこと?」

「いや」

「え、いつから?」

「気づいてたっていうか」

「だから、いつ? ねえ、最初から?」


 顔が熱かった。


 松本が答えようとしたので、私は思わず背を向けた。


 帰ろう。


 足を踏み出した途端、後ろから呼ばれた。


「藤田、待って」


 無理。今、そっち見られない。


 それでも足は止まった。松本の靴音が近づいて、横で止まる。


 私が顔だけ向けると、松本は口元に当てていた手を下ろして、言った。


「分かってない。そうかなと思ってただけ」

「そうかなって」

「俺だったらいいなって」


 今度は、私が黙る番だった。


 松本が、困ったような顔で続けた。


「だって、違ったらどうすんの。俺のことかって聞いて、お前に、何言ってんのって……いや、だから、聞けないだろ」

「……聞けばいいじゃん」

「聞けないでしょ、そんなの」


 さっき私が言った言葉だった。


 私は口を閉じた。


 駅へ向かう人が、また私たちの横を通った。松本が歩道の端に寄ったので、私もついていった。


 街路樹の下で向き直ると、松本はようやく私の顔を見て、訊いた。


「俺で、合ってるんだよな」


 そんなことまで確認するのかと思った。


 でも、松本は笑っていなかった。


 私は鞄の持ち手を握ったまま、頷いた。


「……うん」


 松本が大きく息を吐いた。そのまま少し上を向いて、今度は私に文句を言い始めた。


「もー……俺だって言おうとしてたのに。ちょっと待ってくれたら。勝手に話進めて、勝手に諦めてさ」

「だって」

「大体、忘れていいって何だよ。よくないだろ。聞いた方は、そんな、すぐに」


 私は何も返せなかった。松本の顔も見られなくて、鞄に目を落とした。


 松本が言いかけた言葉を止めた。


「……いや。分かるけど。俺も、人のこと言えないし」


 松本は私を見て、それから自分の足元を見た。


「……そうだよな。全部駄目になったらって、思うよな」


 私は頷いた。


 松本はもう、何も言わなかった。


 少し前まで、私だけがこんなことを考えていると思っていた。松本にとっては気楽な友達なのに、私が勝手に悩んでいるのだと。


 さっき味噌汁をこぼしたとき、こいつは何を考えていたんだろう。


 思い出したら、少し笑ってしまった。


 私は鞄の持ち手を握る力を緩めて、言った。


「……私ら、似たもん同士なんだね」

「そうみたいだな」


 松本も少し笑った。


 顔を見ていたら、また恥ずかしくなった。私は駅の方に目を向けた。


 改札までは、もうすぐだった。


 帰るのか。


 ここまで話して、それじゃまた明日、と言って。


 隣で小さく咳払いをして、松本が訊いた。


「この後、時間ある?」


 私は松本を見た。


「ある」

「コーヒーでも飲む?」

「……飲む」


 駅の手前の喫茶店は、まだ開いていた。


 二人でそちらへ歩き出してから、私は訊いた。


「何か話すことあるの?」


 松本がこっちを見たので、私は慌てて付け足した。


「いや、なくてもいいんだけど」


 松本は前を向いた。耳が少し赤かった。


「俺も、なくてもいい」


 私は、うん、と答えた。


 店までの短い間、二人とも黙っていた。


お読みいただき、ありがとうございました。

二人のやり取りを楽しんでいただけたら嬉しいです。感想など、お気軽にお寄せください。

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