奇跡監査官は、死者の声を信じない ――追憶聖堂と、返せなかった電話――
一 死者の声には管がある
死者の声には、たいてい管がつながっている。
それが、前世で十九年間、霊感商法の被害相談を担当していた俺の経験則だった。
だから管を外せば、嘘は黙る。
――その日までは、そうだった。
「マルタ」
薄暗い礼拝室に、男の声が響いた。
祭壇の前に座った老婦人が、息を呑む。
「あなた……なの?」
「ああ。長く待たせたね」
磨き上げられた銀枠の鏡に、彼女が夫と呼んだ男の姿が浮かぶ。男が身じろぎすると、像の足元で泥のついた靴先まで揺れた。老婦人は震える手を伸ばし、鏡の表面へ触れた。
よくできていた。
だが、奇跡ではない。
隣室の役者の姿を、斜めに置いた板硝子に映している。足元の泥は舞台袖のものだ。声は椅子の脚に埋め込まれた銅管から来ている。死者の好物や口癖は、三日前の告解で聞き出してあった。
入堂時、係員が老婦人の喪服へ留めた飾り糸は、青、白、赤の三本だった。
青は「夫」、白は「病死」、赤は「子どもなし」。聖堂の係員が、役者へ情報を渡すための符丁である。
この三日、俺は入堂者の糸の色と告解の順番を、片端から突き合わせてきた。解読に要ったのは、鉛筆一本と、疑う根性だけだ。
「最後に、何か言っておくれ」
「戸棚の奥を見なさい。君に渡せなかった指輪がある」
それも告解で、老婦人自身が「形見が見つからない」と話していた。聖堂の者が家へ入り、指輪を隠しておけばいい。
奇跡は、客に種の半分を語らせる商売だ。
鐘が一度鳴った。
鏡の男は霧のように消え、老婦人は床へ泣き伏した。
白い祭服の男――追憶聖堂長のサリウス――が彼女を支え、黒い帳面を差し出す。右手にだけ、肘まで届く黒い手袋をはめていた。
「対価として、旦那様との思い出を一つ、女神へお返しください」
「では……初めて一緒に雪を見た日のことを」
老婦人が帳面へ指を置くと、頁に黒い染みが広がった。
染みは彼女の指先から影を吸い上げ、やがて文字の形に凝った。遠目には読めない。だが確かに、何かが書かれた。
彼女は何度か瞬きをした。
「私は今、何を差し出したのでしょう」
「悲しみの一片です。心が軽くなりましたね」
サリウスは優しく笑った。
俺は笑えなかった。
老婦人のそばへ膝をつき、尋ねる。
「奥さん。ご主人と初めて雪を見たのは、どちらで?」
「雪?」
老婦人は不思議そうに首を傾げた。
「主人は雪が嫌いでしたよ。四十年、一緒に見たことなんて一度も」
鏡、役者、伝声管までは人間の細工だ。
しかし、記憶が本当に消えたのなら、そこだけは話が別だった。
「監査官殿。いかがでしたか」
サリウスが尋ねた。
「よくできた芝居です」
「芝居、と」
「板硝子は掃除した方がいい。役者の靴跡が映っています。銅管は三番目の継ぎ目で音が漏れている。死者が風邪をひくとは知りませんでした」
サリウスの頬が引きつった。
俺は王立奇跡監査院の身分証を開いた。
「レオル・アスター。追憶聖堂が申請した国庫補助金について、奇跡の真正性と安全性を調べます」
審査期限は二日後の正午。聖堂は〈大追憶祭〉の開催補助を申請し、四千人余りの参列を見込んでいた。
祈りが傷を塞ぎ、踊りが雨を呼ぶ世界では、偽物の奇跡にも値札がつく。本物と認定されれば国庫から金が出る。だから王国は、神殿より帳簿を信じる役人を作った。
神々が沈黙しても、申請書は毎年届く。
「本日のところは、死者交信の奇跡は否認です」
そう告げ、椅子の下から銅管を引き抜いた。
継ぎ目が外れた。両端とも何にもつながっていない。ただの銅筒だった。
その奥で、少女が囁いた。
『お父さん。また、お仕事なの?』
――日本語だった。
俺の手から管が落ちた。
床で跳ねた管を、サリウスが拾い上げて覗き込む。
「……何も聞こえませんが」
前世に残してきた娘――日菜の声だった。
二 忘れられた兄
人生を一度終えたくらいで、人は賢くならない。
前世の俺、朝倉孝介には、日菜という十歳の娘がいた。
死ぬ日の朝、透明な傘を持った日菜に聞かれた。
「今日、早く帰れる?」
「たぶん」
「たぶんは約束じゃないから、嫌い」
ある雨の夕方、仕事中の俺に日菜から電話がかかってきた。
相談者の自宅へ押しかけた霊能業者と交渉している最中だった。俺は着信を切り、「あとで」とだけ送った。
それが、俺の人生で最後に送った言葉になった。
あとでは来なかった。
その帰り道、信号を無視した車にはねられ、死んだのは俺の方だった。
電話の用件は分からない。「あとで」の三文字を、あの子が読んだのかどうかも分からない。その後、日菜がどんな大人になったのかも知らない。
返事をする間もなく生まれ直し、この世界で三十二年を生きた。
監査手帳の最後の頁に、俺はこの世界の誰にも読めない文字で、あの子のことを書いてある。
――日菜。十歳。傘は透明。色つきは嫌がった。雨粒が跳ねるのを見るのが好き。卵焼きは甘い方。電話:未回答。
思い出は薄れる。記録なら、薄れたことに気づける。三十二年かけて、俺はそれを商売にしてきた。
帳簿と現場が食い違うたび、判定欄へ「否認」と書く。監査院での渾名は「否認のアスター」。褒め言葉だと思っている。
それでも、雨の日に鐘が鳴ると、胸の奥で十歳の娘が返事を待っている。
だが、今の声を日菜本人だと決めつける根拠はない。少なくとも、俺が知る最後の日菜は生きていた。
そうであってはならない。
死者の声を欲しがる心ほど、だましやすいものはないと、俺は知っていた。
だから、いちばん先に自分を疑った。眠り草の香を吸いすぎたか。三十二年ぶりに日本語を聞いた耳が、勝手に鳴ったか。
手帳に書きつける。
――伝声管を外した後に声。日本語。サリウスには聞こえず。要再現。
「監査官さん」
聖堂を出ると、石段の陰から少女が声をかけてきた。
十四、五歳ほどだ。短く切った黒髪に紙くずをつけ、革紐で綴じた分厚い本を抱えている。
「私が送った苦情、読んだ?」
「差出人は匿名だった」
「じゃあ、読んだんだね」
少女はエナと名乗った。町の製本工房で見習いをしているという。
「追憶聖堂は、死んだ人と話せる場所じゃない。生きている人を、いなかったことにする場所だよ」
「根拠は?」
「私には兄さんがいる」
「名前は」
「――イヴォ」
答えるまでに、妙な間があった。
名を口にする直前、少女の目が本の表紙へ落ちた。読んだのだ。思い出したのではなく。
エナは慌てて本を開いた。最初の頁に、青年の顔が描かれている。笑うと左の頬にだけえくぼができる、くせ毛の青年だ。
その下に、大きな字で書いてあった。
――私の兄はイヴォ。十八歳。右手の小指が曲がっている。蕪が嫌い。一年前、追憶聖堂で働き始めた。
「毎朝、これを読むの。……朝だけじゃない。今日、兄さんの名前をもう三回なくした。忘れたと気づくたびに読むの」
「家族は?」
「お母さんは、私に兄なんていないって言う。工房の親方も、聖堂の人も。兄さんが使っていた寝台も靴もあるのに、誰のものか分からないって。半年前から、みんなそう」
エナは次の頁を見せた。
そこには同じ一文が、日付を変えて百八十二回書かれていた。
――今日も私は、イヴォを覚えている。
最後の頁にだけ、別の筆跡があった。走り書きの一文を、何度もなぞった跡がある。
――作った記憶は、終わりまで書いて綴じれば、外へ歩かない。
「兄さんの字。みんなが兄さんを忘れる前の晩に、これだけ書いて寄越したの。意味は分からない」
俺は本を伏せ、尋ねた。
「小指は、どちらへ曲がっている」
「外側。小さい頃、私を庇って戸に挟んだの」
少女は本を見なかった。
百八十二日分の記録が、この子の記憶を支えている。それとも、記録だけが残って、中身はとうに空なのか。俺には区別がつかなかった。
「監査官さんは、死者を信じないんでしょう」
「信じない」
「じゃあ、記録は?」
俺は少女に本を返した。
「記録も信じない。だから調べる」
翌朝、エナは工房で作った写しを一冊、俺の宿へ届けに来た。肖像から百八十二行目まで、一字も違わない。
「原本は私が持ってる。監査官さんは、そっちを」
「写しで足りるのか」
「記録は写せる。思い出は写せない」
少女は当たり前のように言った。帰るつもりだったらしいが、職員の数を調べると聞くと、本を抱えたまま俺の後についてきた。
その朝から、聖堂の職員全員に番号札を持たせた。
名前、年齢、持ち場、入退室時刻。食堂へ入る者と出る者の数まで、俺は表にした。
職員は嫌がった。サリウスだけが、「監査官殿のお好きなように」と柔らかく笑った。
帳簿を隠す者は、鍵を渋る。この男は違った。何を見ても構わないと笑っている。それが、いちばん気に入らなかった。
その日の昼、帳尻が合わなくなった。
食堂へ入った者は十八人。
俺が思い出せる顔は十七人。
卓上に残った椀は十八個。
俺は名簿を上から指で追い、七番の札を捜した。
灰色の服を着た給仕が、すぐ横に立っていた。
見えているのに、視線をそらすと存在を忘れる。
顔を覚えようとすると、濡れた紙のように輪郭が崩れた。だが、右手の小指だけが不自然に曲がっている。外側へ。
「七番」
俺は番号を呼んだ。
給仕が振り向く。
俺は視線を外さないまま、監査表へ赤字を走らせた。
――七番から目を離すな。
「君の名は?」
青年は困ったように、自分の番号札を見た。
「七番、としか」
エナが俺の横へ来た。開いた本と青年の顔を、何度も見比べる。
「イヴォ」
青年の顔が、一瞬だけ鮮明になった。左の頬に、えくぼが浮かぶ。
「兄さん」
呼ばれた青年は、礼儀正しく頭を下げた。
「申し訳ありません。お客様のお名前を伺っても?」
エナは本を閉じた。文字に逃げず、自分の口で答えた。
「エナ。あなたの妹。今日は私が覚えているから、兄さんは覚えてなくてもいい」
廊下の隅で、黒い頁がめくれるような音がした。
次の瞬間には、俺は何のために食堂へ来たのか分からなくなっていた。
手元の監査表を見る。
――七番から目を離すな。
いつ書いたのかさえ思い出せない。顔を上げると、エナが泣きながら自分の本を読み直していた。
記録を取る癖が、かろうじて自分の正気をつなぎ止めた。
俺はその場で、七番の行へ赤い字を書き足した。
――名はイヴォ。エナの兄。えくぼは左。
一分もしないうちに、俺は自分の書いたその行を、初めて読む文章のように読んでいた。
三 余白は続きを欲しがる
潜入調査で、人間の仕掛けはすべて割れた。
二重壁の裏の告解記録、鏡裏の役者、眠り草、喪服の符丁。錠前屋の支払台帳には、マルタの家へ忍び込み、見つけた指輪を戸棚の奥へ隠した報酬まで記されていた。
サリウスは、どの証拠も隠そうとしなかった。鍵を求めれば鍵が出てきて、帳簿を求めれば帳簿が出てきた。
想定外だったのは、仕掛けではない。帳簿の方だ。
黒い帳面は四十三年分、一万五千冊余り。日付はほぼ一日一冊で途切れない。ただし、大勢の記憶を一日に集めた三度に限り、次の記録まで、その人数とほぼ同じ日数の空白があった。
寄進の記録ではない。何かを毎日一つずつ与え、眠らせてきた記録だった。
「詐欺の証拠としては満点だな」
隠し舞台で俺が言うと、若い役者が力なく笑った。
「奇跡としては落第ですか」
「当然だ」
「安心しました」
「詐欺と呼ばれて、か」
「五年かけて、ようやく誰かが僕の仕事を正しい名前で呼んでくれた。『慰めにはなった』という言い訳まで、奇跡の名で正当化されたくありません」
役者の名はスロウといった。
二十歳そこそこで、声だけなら老人にも幼児にもなれる。五年間、この鏡の裏で、二百人以上の死者を演じてきたという。
「人を泣かせるのが仕事でした。泣かせた相手の顔も、二百人を超える死者の口癖も、全部覚えています」
彼は台本の束から一冊を抜き、表紙を俺に見せた。
『妹マーラの生涯』。その下に、二つの名が並んでいる。
――作 スロウ、イヴォ。
「これ、僕の字なんです。稽古のために、架空の妹を作った。好きな菓子、寝癖、初恋、喧嘩した日のこと。百個の思い出を作って、毎晩、実在するように想像した。……らしいんです」
「らしい?」
「僕は、マーラを思い出せない。隣に書いてあるイヴォという相手のことも」
台本の中身は、文字だけを洗い流したように真っ白だった。
「中身が白くなったのは半年前です。誰かが器へ差し出したのだと、聖堂長は言った。それでも、僕の頭にはマーラの笑い方だけ残っていた。三日前までは」
表紙の隅に、細い字で書き込みがある。
――未完。妹を死なせる話だけは、二人ともどうしても書けない。
スロウはそれを、他人の手紙のように読み上げた。
「実在しない人間のことまで、どうやって忘れるんでしょう」
俺はエナの本を開き、くせ毛の青年の肖像を見せた。
スロウは長いこと眺めて、首を振った。
「知らない顔です。二百人の死者は覚えているのに、隣で台本を書いた人だけが抜けている。……でも、この人、笑うとえくぼが片方だけなんじゃないですか」
背後で拍手がした。
「さすがは監査官殿。舞台裏まで三日ですか」
サリウスが入口に立っていた。
「役者、鏡、薬、空き巣。十分な証拠です」
「では、死者交信を否認なさる」
「その前に説明してもらう。差し出された記憶は、どこへ行く」
サリウスは答えない。
「マルタという老婦人は、四十年連れ添った夫と雪を見た日を差し出した。その一分後には、夫は雪が嫌いだったと言った。役者と管では、そこまではできない」
俺は最古の帳面を開いた。
「最初の日付は四十三年前。この町の鉱山が崩れた日だ。死者は三百二十人。これは寄進簿ではなく給餌記録――違うか」
黒い手袋の指が止まった。
「こちらへ」
案内されたのは、祭壇の真下にある書庫だった。
地下へ降りるほど空気が冷たくなり、壁の燭台は、風もないのに最下層の一点へ炎を曲げた。
最下層には、一冊の巨大な黒い本があった。四隅から伸びた鎖で、床の鉄環へつなぎ留められている。
人の背丈ほどもある。表紙は何の革か分からず、脈を打つように膨らんでは縮んでいる。
周囲の棚には、何千冊もの黒い帳面が並んでいた。背には日付と数だけが記され、名前は一つもない。四十三年分の、誰のものでもなくなった思い出の目録だ。
「事故の遺体を納めた地下墓所で、あれは見つかりました。形はありません。名もありません。人の中にある〈失った場所〉へ入り、そこへ似合う顔を見せ、本人だと受け入れた者の思い出を食べる」
「怪異に名前をつける趣味はないが、呼び名は必要だ」
「我々は〈余白〉と呼んでいます」
最初に食われたのは、鉱夫たちにまつわる記憶だった。妻が夫を、親が子を忘れた。次に〈余白〉は、生きている人間の名を食べ始めた。名を失った者は、そこにいても誰からも気づかれなくなる。
当時の聖堂長は、帳面へ思い出を移して一日一つずつ与えれば、怪異が眠ることを発見した。
「あの巨大な本が、怪異そのものか」
「いいえ。怪異へ記憶を運び、食われたものを内側へ綴じ込む器です。消えた思い出は、なくなったのではなく、あの表紙の内側に保管されている」
「根拠は」
「二十年前、鎖が一本緩んだ夜だけ、三人の名前が一刻ほど戻りました。修復すると、また消えた。記録が残っています」
「だから死者の声を売ったのか」
「ただ奪えば、人は抵抗します。ですが、もう一度だけ会えるのなら、喜んで思い出を差し出す」
「喜んで、ではない。真実を隠した上で選ばせた。そんなものを同意とは呼ばない」
サリウスの声から、柔らかさだけが落ちた。
「私は一分の偽物を売り、この町に一日の現実を買っている」
「繰り返し通い、家族の記憶を全部なくした者もいる」
「それでも町は残った」
「イヴォは?」
初めて、聖堂長の目が揺れた。
「あの青年は、架空の記憶でも餌になると気づいた。作り話だけを与えればいいと言った」
「正しかったんじゃないのか」
「半年前、彼は結末のないマーラの台本を器へ差し出した。〈余白〉は書かれていない続きを求め、まず作者のイヴォへ戻った。彼は危険に気づき、『終わりまで書いて綴じれば』と妹へ残した。それでも、器から台本を取り戻し、自分で結末を書こうと、一人で鎖を解いた。あの青年は、誰かに相談する前に自分を差し出す」
「それで名まで食われた」
「ええ。マーラの一部は共同作者の中にも残った。ですが三日前、あなたが町へ入った日から〈余白〉が活性化し、スロウに残った最後の記憶まで辿ったのです」
「それで、目につかない給仕として働かせている?」
「外へ出れば、馬車にひかれても誰も気づかない。ここに置くしかなかった」
「なぜ王国へ危険を報告しなかった」
「一度はしました。返答は、鉱山ごと永久封鎖し、全住民を強制移住させるというものだった。私は町を残す方を選んだのです」
「それなのに、今回は国の補助金を申請した」
サリウスの視線が、俺の胸元の監査手帳へ落ちた。
「鉱山が閉じ、寄進が尽きました。イヴォが鎖を外してからは、一日一つでは眠らない。そして、あなたが町へ入られた日から、あれはいっそう飢えた。よほど大きな〈失った場所〉をお持ちのようだ」
俺は答えなかった。
「明日の正午が限界です。申請書で『否認のアスター』を名指しすれば、すべてが露見することも分かっていました」
俺はこの監査を、王都の上役が押しつけた嫌がらせだと思っていた。
「助けを求めたのか」
「その言葉を使う資格はありません。ただ、止めてほしかった。自分では、もう止められなかった」
「それでも、明日までに代案が見つからなければ?」
「予定どおり祭りを行います。もう一度の失敗に、町の全員を賭ける決断だけは、私にはできない」
正しさはあった。
言い訳もあった。
誰かを守るためについた最初の嘘が、やがて嘘を守るための犠牲を求める。前世で何度も見た転落だった。
「明日の大追憶祭で、町の全員に一つずつ記憶を差し出してもらいます」
サリウスは巨大な本を見上げた。
「一日一つでは、もう眠らない。ただ、過去の記録では、一度に大量の記憶を与えれば、その日数に応じて深く眠る。四千人分なら、次の十年は持ちます」
「何の記憶を取る」
「自分を育てた人についての、最も古い記憶です」
俺は聖堂長の襟をつかんだ。
「町を守るためなら、町から故郷を奪っていいのか」
「では、あなたが代案を出すのです」
サリウスは俺の手を振りほどき、右手の手袋を外した。指は爪の根元まで黒く染まっていた。
「私は妻の顔を差し出した。息子の声を差し出した。もう名前さえ分からない。それでも、『サナとリオを、町のみんなを守れ』と書いた自分の手紙だけは残っている」
毎日の供物が足りないときは、自分の記憶を帳面へ移してきた。そのたび、指先から黒くなったのだという。
遠くで時を告げる鐘が鳴った。サリウスの左腕が、誰かを招き入れるようにわずかに持ち上がる。
「手紙によれば、息子は鐘を怖がり、私の左袖へ潜り込んだそうです。腕だけが、私よりよく覚えている」
「その二人が、本当に家族だったと信じられるのか」
「分かりません。記録によれば妻と息子です。それでも、思い出せない約束だけを頼りに、私は四十年、守り続けてきた」
床へつながれた巨大な黒い本が、ひとりでに開いた。
頁の奥は、底のない黒だった。
そこから、小さな手が伸びた。
俺は反射的に目を閉じた。
前世で、相談者に教えていたことがある。霊能者に会う前に、嘘を一つ用意しておけ。死んだ人が絶対に持っていなかったものを、一つだけ思い浮かべておけ。
黄色い傘。
目を開けた。
『お父さん』
日菜が立っていた。
黄色い傘を差し、十歳の姿で笑っている。
『今度は、電話に出てくれる?』
三十二年分の謝罪が喉までせり上がった。それでも俺は、先に確かめた。
「日菜」
『なあに?』
「その傘、気に入っていたか」
『うん。お父さんが買ってくれたんだよ』
『でも、お父さんは悪くないよ。お仕事だったんでしょう』
俺は目を閉じた。
透明だったはずの傘が、頭の中で黄色く塗り潰されかけていた。
日菜は、雨粒が頭の上で跳ねるのを見るのが好きで、色のついた傘を嫌がった。
黄色い傘は、たった今、俺がわざと作った偽の思い出だ。そして俺は、あの子に傘を買ったことがない。買ったのは母親だ。
「お前は日菜じゃない」
日菜なら決してしない角度まで、口元だけが笑った。
『声は同じだ』
「違う」
『顔も同じだ』
「違う」
『では、何が違う?』
「それは、俺がいちばん言ってほしかった言葉だ。だから違う。あの子は、俺を楽にするための答えなんか選ばない」
黄色い傘ごと、少女の姿が黒い頁へ沈んだ。
俺は震える膝を押さえ、監査手帳の最後の頁を開いた。
――日菜。十歳。傘は透明。
その一行が、上から水をかけたように滲んでいた。まだ読める。だが、確かに薄い。
会えば、払わされる。
俺は薄れた文字の上を、もう一度なぞって書いた。
それから、証拠として預かっていたスロウの白紙の台本を開いた。
架空の妹まで食われた。
実在しない黄色い傘も、〈余白〉には見えた。
ならば、〈余白〉は本物と作り物を区別できない。人が記憶のように鮮明に思い描いたものなら、どちらも餌になる。
ただし、餌からその人の実在の記憶へ侵入するには、作り物を〈自分の過去〉として受け入れさせる必要がある。
マーラに欠けていたのは、実在性ではない。結末だ。
人の記憶に明確な終わりはない。だから〈余白〉は続きを求め、つながった人間の中を歩く。
だが物語には、最初の一頁と最後の一頁を作れる。
監査手帳へ、四行だけ書いた。
――餌の実在性:不要。
――実在の記憶への侵入:自分の過去としての受入れが条件。
――結末と製本:移動を止める可能性。
――共有人数:餌の量。
イヴォは答えの半分まで辿り着いていた。足りなかったのは、物語を閉じる誰かだった。
「エナを呼んでくれ」
俺はサリウスに言った。
「大嘘を一冊、製本する」
駆けつけたエナは、兄の走り書きを読んでから、きつく本を抱いた。
「兄さんは一人で本の中へ入った。今度は、私が外から閉じる」
〈余白〉に、帰り道のない記憶を食わせる。初めから作り物だと全員が知り、誰も自分の過去として受け入れず、始まりと終わりを持つ物語を。
「失敗すれば、町の全員が名を失います」
サリウスが言った。
「成功しても、あなたがしてきたことは消えない」
「承知しています」
まず十二人で、青い尾を持ち、左耳が二つある犬の一生を思い描いた。
役者が四人、書記が三人、錠前屋、製本親方、エナ、俺、それにサリウス。犬の名はポルト。雷を食べ、十七年生き、春の日だまりで眠るように死んだ。
始める前に、全員が自分だけの記憶を六つ書き、封をした。試験後、同じ六項目を別紙に書かせてから封を開くと、七十二項目すべてが一致した。一人一項目は家族にも照合させた。
巨大な本の縁から、ほんの一滴だけ採った黒い染みは、人数に比例して試作帳へ移った。誰の実在の記憶も欠けなかった。
全員で「おしまい」と告げ、帳面を綴じる。染みは頁の外へ出なかった。
人数を変えながら、成功条件を計三度再現した。参加者を増やすほど、試作帳へ移る染みも増えた。人数は安全装置ではなく、餌の量だった。
四度目の試験では、条件が一つ崩れて失敗した。錠前屋が犬の顔へ、子どもの頃に飼っていた本物の犬を重ね、「これは俺のラドだ」と呟いたのだ。染みは試作帳から這い出し、男の袖まで登った。慌てて頁を閉じたが、男はその場でラドの名を忘れた。
似ていることが危険なのではない。作り物を自分の過去として受け入れた瞬間、そこに帰り道が開く。
俺たちは三つの規則を、すべての試作帳へ書いた。
――これは作り物だと知ること。
――これは自分の思い出ではないと声に出すこと。
――最後は必ず「おしまい」で閉じること。
記憶のインクと黒い糸で綴じた小さな器なら、作り物を餌として取り込み、頁の外へ出さずにおけた。
仮説だけではない。三度は再現した。
ただし、試せたのは一滴だけだ。〈余白〉そのものを移せるかは、明日の一度で確かめるしかない。
俺たちに残された時間は、一晩だった。
四 町じゅうでつくる大嘘
翌日、追憶聖堂には四千人余りが集まった。
一晩で鉄の運搬枠を組み、八本の仮鎖で巨大な黒い本を枠へ固定してから、床の鎖を一本ずつ外した。拘束を一度も途切れさせず、四十人が滑車で地下から運び、今は祭壇の鉄環へ留め直してある。その前には、町中の工房から集めた紙を、記憶のインクと黒い糸で仮綴じした白い大冊が置かれていた。
人々は、自分が何を失うのか知らされないまま、安心した顔で列を作っていた。
サリウスが祈りを始める前に、俺は鏡の前へ立った。
「祭りを始める前に、奇跡監査の結果を報告する」
俺が合図すると、スロウが自分の手で鏡の裏幕を落とした。隠し舞台と役者、声を運ぶ銅管が露わになる。
「マルタさん。ご主人の声を演じたのは僕です。あなたが告解で話した言葉を並べて、僕が返しました。ご主人から預かった言葉は、一つもありません」
老婦人の唇が震えた。
「夫は……何も話していなかったの?」
「はい」
スロウは死者の声を使わず、自分の声で答えた。
俺は眠り草の袋を裂き、喪服の符丁と錠前屋の台帳を示した。泣く者がいた。怒鳴る者がいた。石が飛び、スロウの額が切れた。
慰めを奪われた怒りが渦巻く中、サリウスが祭壇へ上がった。
「すべて、私の命令です。四十三年、偽物の再会と引き換えに、本物の記憶を差し出させました。そして今日は、皆さんを育てた人についての最も古い記憶を、説明せず奪うつもりでした」
罵声が聖堂を揺らした。それでもサリウスは祈りを始めず、自分の手で西の扉を開いた。
「ここからは、皆に選んでもらう」
俺は〈余白〉のことと、昨夜の実験を説明した。確かめられたのは一滴だけで、絶対の保証はないこと。作り物を自分の過去として受け入れれば、実在の記憶まで失うこと。何も差し出さず、この町を去る選択もあること。
「本物の思い出を自分の意思で一つ差し出すか、作り物だと知った上で、一つの物語を皆で覚えるか。それとも、参加せずここを出るか。俺は物語を提案する。だが、どれを選んでも責めさせない」
幼い子を抱いた男が、「俺の子を試験台にするな」と吐き捨て、扉を出た。数十人が続いた。残った者の中からも、「失敗したらどうする」と声が飛ぶ。
「そのとき最初に名を失うのは、提案した俺だ」
「そんな答えで安心できるものか」と誰かが怒鳴った。もっともだった。
長い沈黙のあと、マルタが祭壇の前へ戻ってきた。
「夫との思い出は、もう一つだって渡さない。でも、最初から作り話だというなら――今度こそ、私に選ばせておくれ」
一人、また一人と白い本の側へ移った。サリウスは最後まで、開いた扉の脇に立っていた。
正午の鐘が鳴った。
巨大な黒い本の内側から打ちつける音がして、鎖が一本ずつ切れた。頁が嵐のようにめくれ、黒い染みが石畳の目地を走る。
染みの一本が、白い大冊を抱くエナへ伸びた。
灰色の給仕が、理由を思い出すより先に妹を突き飛ばし、その前へ立った。黒い染みは、外側へ曲がった右の小指を這い上がる。だが、奪う名をすでに持たない青年の胸元で迷い、床へ落ちた。
イヴォはエナを知らない。それでも身体は、記録より先に妹を覚えていた。
鏡の中と、人々の間に死者が立った。
マルタの夫。土にまみれた鉱夫。幼い娘。事故で死んだ友人。
何千もの懐かしい声が、同時に名前を呼ぶ。群衆は、最も近くに現れた幻へ手を伸ばした。
パン屋が亡き母の手を取った。次の瞬間、彼は母の呼び名さえ分からない顔で、空になった手を見つめた。
「見るな!」と俺は叫んだ。「それは死者じゃない。あなたたちの中にあるものを映しているだけだ!」
正論は、会いたい人間の姿に勝てなかった。
だから、別のものを用意した。
エナが白い大冊を抱えて祭壇へ上がる。最後の頁には、すでに結末が書かれていた。途中で何を問われても、そこへ辿り着く筋書きだ。
「皆さん! 今から、私たちは大嘘をつきます!」
俺は一枚の肖像を掲げた。紫の髪を高く結い、鼻先のいぼが笛のように鳴る老婆だ。誰かの過去だと思い込みにくいよう、わざと馬鹿げた姿にしてある。
「この人の名は、メル婆さん。百九歳まで生きた」
「誰だ、それは」
「誰でもない。今から俺たちが作る」
スロウが老婆の衣装をまとい、舞台へ出た。
「これは死者の声ではありません。僕の声です」
そう断ってから、杖を振り回す。
「メル婆さんは蕪が大嫌いだった!」
エナが続けた。
「だから、蕪三株と順番に結婚した!」
誰かの喉から、嗚咽とも笑いともつかない息が漏れた。隣の者が笑い、それが少しずつ広がった。
マルタが一歩前へ出る。
「若い頃、王様の影を盗んで海へ逃げた!」
「六本脚の猫を飼っていた!」
「その猫は、自分を犬だと言い張った!」
子どもたちの声に、今度は聖堂中から笑いが起きた。
「似ていても構わない。ただ、自分の過去にするな。声に出してくれ。――これは作り物だ」
「これは作り物だ」
数千人の声が重なった。
「これは、私の思い出ではない」
「これは、私の思い出ではない」
そう知ったまま、全員が同じ老婆を思い描く。笛のようないぼ。蕪へ求婚する姿。王様の影を袋へ詰め、六本脚の自称犬と海へ逃げる後ろ姿。
エナが、最初から決めてあった最後の頁を読む。
「百九歳の春、メル婆さんは海辺の椅子で、いぼを一度だけ高く鳴らして死にました。三株の蕪と、自称犬に見送られて。これが最後。この先はありません」
黒い染みの流れが止まった。
死者の幻が一斉に、老婆の方を振り向く。数千人の脳裏で同じ老婆が笑った瞬間、〈余白〉の飢えがそちらを向いた。
紫髪の老婆が、鏡の中央に現れる。今度は役者ではない。いぼも、しわも、笑う口元も、黒い墨で描かれていた。
『私は、いたのかい?』
「いなかった」
『では、なぜ皆が私を覚えている?』
「物語にしたからだ」
『嘘と何が違う?』
「嘘は真実を名乗り、選ぶ権利を奪う。物語は、作り物だと名乗ってから、心へ入れてもらう」
黒い老婆は、群衆をゆっくり見回した。
『四人目の夫の話を、まだしていないねえ』
あちこちで口が開きかける。
「三人で十分だよ!」
マルタが叫んだ。笑いが起き、口が閉じる。
続けるな。イヴォを食ったのは、その〈次〉だ。
エナが白い本を開く。語られた大嘘が、記憶のインクとなって頁へ浮かび上がった。黒い老婆の足元が溶け、死者の幻とともに本の余白へ流れ込んでいく。
巨大な黒い本の脈動が止まった。
最後の数頁を残し、エナが綴じ針を引く。そして糸の反対側を、兄の曲がった小指へ掛けた。イヴォは妹の顔を知らないまま、それを強く握った。
サリウスが白い本へ手を添える。彼の前にだけは、幻が一人も立っていなかった。
「サナ。リオ。二人を忘れて町を守ったつもりで、私は町の人々にも同じことをさせた。もう、誰からも奪いません」
彼が頁を押す。
『お父さん』
この世界で、俺をそう呼ぶ者はいない。
透明な傘を差した日菜が、閉じかけた本の向こうに立っていた。雨の降らない聖堂で、傘の上を雨粒が跳ねる。
『本当に閉じるの? 電話の用件、聞きたくない?』
「あとで」の三文字が、三十二年遅れて喉まで戻った。
「聞きたい。ずっと、聞きたかった」
幻の日菜が手を伸ばす。
俺はその手を取らなかった。
「日菜。遅くなった。お父さんは帰れなかった。ごめん」
雨粒が止まる。
「でも、その後悔は俺のものだ。お前に支払うものじゃない。あの子の用件は、あの子だけが知っている。お前が言えば、それは俺が作った続きになる」
俺はエナへ頷いた。
残った人々が声を合わせる。
「おしまい」
エナとイヴォが、両側から糸を引く。
『お父さん!』
最後の一頁が閉じた。
白い本の中で、何かが絶叫した。
古い器の綴じ込みが緩み、巨大な黒い本から、まだ形を残していた名が無数の文字となって舞い上がった。三百二十人の鉱夫の名が。名を食われた〈名なし〉たちの名が。天井にぶつかり、雪のように降る。
エナは「イヴォ」と書かれた名を両手で受け止め、兄の胸へ押し当てた。青年はまだ意味が分からない顔をしていた。それでも、曲がった小指で妹の手を握った。
「……雪」
掌に落ちた黒い文字を見つめ、マルタが呟いた。
「主人と初めて雪を見たのは、この町を見下ろす山の上だった」
そして、聖堂からすべての声が消えた。
五 証拠不十分
イヴォは、すぐには元へ戻らなかった。
〈余白〉が名を削り続けることは、もうない。エナが兄の記録帳を一頁ずつ読み聞かせるたび、彼の輪郭は濃くなった。最初に読んだのは、事件の日に書いた新しい頁だった。
――今日、兄さんが私を庇った。これは本から読んだ思い出ではない。今日、二人で作った思い出だ。
七日目に妹の名を呼び、十四日目に蕪を残して叱られ、二十一日目に初めて笑った。えくぼは肖像のとおり、左にしかできなかった。
二十二日目、彼は妹の本の最後の頁に、自分の字で一行を書き足した。
――今日も俺は、エナを覚えている。
ほかの〈名なし〉たちも、手紙や道具や近所の証言から、少しずつ生活へ戻った。だが、失われた記憶のすべてが返ったわけではない。四十三年前に夫を忘れた者の多くは、降ってきた名を初めて聞く名のように受け取った。
取り返せないものがあるから、被害は被害なのだ。
サリウスは聖堂の隠し帳簿と、犠牲になった全員の記録を監査院へ渡し、職を辞して裁きを受けた。帳簿の末尾には、自分が差し出した記憶の目録が四十年分あった。最初の一行は「妻の顔」だった。
追憶聖堂は閉鎖された。
半年後、同じ建物は〈追憶劇場〉として再出発した。役者は死者を演じる。ただし幕が上がる前に、必ずこう告げる。
――これは、ご遺族からお預かりした記憶をもとにした物語です。死者本人の言葉ではありません。
それでも客は来た。
人は必ずしも、奇跡だけを求めているわけではなかった。
話を聞いてくれる場所と、泣いていい時間が必要だったのだ。
こけら落としは『妹マーラの生涯』だった。スロウとイヴォが、初めて最後まで書いた。マーラは九十まで生き、二人の兄に別れを告げて、自分の手で本を閉じた。
あの頃の二人は、物語を終わらせることと、誰かを失うことを同じだと思っていた。
〈余白〉を封じた本は、王都から離れた監査院の封呪庫へ運ばれた。猶予は推定九年。月に一度、俺が綴じ糸と町民の記憶を検査する。遺族の実在の記憶をもとにした追悼劇は、供物に使わない。それとは別に、初めから完全な創作として作られ、観客もそう承知して共有した完結済みの脚本だけを、将来の安全な供物として保管することになった。
俺は最終報告書に記した。
――死者交信の奇跡:否認。
――記憶転移現象:実在。重大な危険あり。
――公費支出:聖堂への補助は打ち切り。劇場および記憶保管事業への組み替えを推奨。
書き終えたところで、封印庫の奥から、頁を一枚だけめくる音がした。
二重の封印は無傷だった。表紙も綴じ糸も動いていない。検査票にも、誰かの記憶が欠けた形跡はない。
机上の報告書の余白に、見慣れない文字が浮かんだ。
この世界の文字ではない。
丸みを帯びた子どもの筆跡で、日本語が記されていた。
――お父さん、今度はちゃんと答えたね。
〈余白〉が、俺の望みを読んで書いたのだろう。
そう考えるのが、いちばん合理的だった。
合理的な考えは、たいてい正しい。前世でも、この世界でも、俺はそれで飯を食ってきた。
俺は一度だけ目を閉じ、雨粒が透明な傘の上を転がる音を思い出した。
それから報告書の末尾へ、監査官としての判定を一行だけ書き加えた。
――当該音声および筆跡の出所については、証拠不十分につき判定を保留する。




