44.彼は黒史策
「ご、ごめんなさ…」
「いや、別に怒ってるわけじゃないよ。でもどうしてかなって。今まで、そんなこと聞いてこなかったでしょう」
楓葉は立ち上がってしまった楊に、顔色一つ変えずにそう尋ねた。
楓葉は確かに怒ってはいなかった。
その証拠に、いつも通りの柔らかい笑みを浮かべている。
彼はさらに続ける。
「黒さん…いや、黒史策に聞いてくるようにと言われた?」
「こ、黒史策?え?三大貴族の?」
楓葉の口から出たのは、楊からしたら雲の上の存在であるはずの三大貴族の名前だった。
しかも、彼は「黒」を「黒史策」と呼んでいる。
意味が分からず、楊は再び楓葉に問い直す。
「楓葉様、ま、待ってください。黒は、ただの旅人のはず。
それがどうして、あの黒史策様だと呼ぶんですか」
「…………」
楓葉は、楊のその問いには返事をしなかった。
その代わりに、彼もその場にすくりと立ち上がる。
そして楓葉は、そっと楊の耳元に自身の口を寄せた。
「ふ、楓葉様!?」
「…教えて」
「え?」
真っ赤になる楊の耳元で、楓葉は小さく呟く。
それが聞き取れなかった彼女は、思わず楓葉の顔を見つめる。
「教えて。もし、黒史策が何を考えているかが分かったら」
「え…?」
彼は作り笑顔を浮かべ、その場から去っていく。
楊はその後姿を見つめることしかできなかった。
*
「おーい。おーい、どうしたんだよ」
「あっ、ご、ごめん」
その日の夜。
食器に食べ物をよそっていた彼女は、策の呆れたような声で我に返った。
「自分の膝に飯くれてやんなよ」
「あ、ほ、本当だ」
ボトボトとこぼれ落ちる、幾つもの野菜の煮物。
彼女は慌てて、膝上の食べ物を自身の口に放り込む。
「どうしたんだよ。まさか恋煩いか?昼間、人が一生懸命働いている時に、楓葉といちゃいちゃしてたもんなぁ?」
「…………」
「おい、嬉しくねぇのかよ」
「……それどころじゃないっていうか」
楊は、食器を床に置いた。
囲炉裏が弾ける音だけが、彼らを包み込む。
「あの、その」
「何だよ」
「だから、えっと」
「はっきりしねえな」
策は、歯切れの悪い彼女に毒を吐く。
しかし楊は、しゅんと項垂れるだけで、その後の言葉を紡ごうとはしなかった。
「ったく」
策はゆっくりと立ち上がると、囲炉裏の向こうにいる楊の隣に腰を降ろす。
そしてそのまま、勢い良く彼女の頭を抱きしめたのだった。
突然のことに目を丸くする彼女。
しかし嫌ではないため、為すがままにされる。
「……ったく、駄目じゃねぇか。男に簡単に触らせたらよ」
「……勝手に抱きしめたのはどっちよ」
「ばーか」
策はカタカタと震える楊の背中をゆっくりと叩く。
そうしているうちに、彼女の身体は徐々に落ち着きを取り戻していった。
「いいか、楊」
「え」
策はそれを確認し、ゆっくりと楊の身体を離した。
どこか名残惜しさを感じる楊だが、目の前の策の顔を真っ直ぐに見つめる。
「いいか。男女なんか色々あんのが当たり前、世の常だ。
お前はまだ若いんだ、色々悩むがいいさ。
でもよ、そればかりに気を取られるな。
色恋に喰われるぞ」
「……は?」
力強く恋を語る策に、楊の目は丸くなった。
しかし、それと同時に彼女はプッと噴き出す。
「ふふふ!変なの!」
「んなっ、せっかくおじさんが語ってやったのに!」
「黒は本当に馬鹿ね」
「馬鹿!?俺、年上だぞ!」
頼れると思ったら、どこか間抜けな策。
彼の怒り顔を見ながら、楊はふと思う。
「もし彼が三大貴族の黒史策でも構わない」と。




