幕間-1 あの日のこと
楓葉は今でも鮮明に覚えている。
あの日、初めて巻物の力を使った日のことを。
──楓葉16歳。
「師匠!またこんなボロボロの宿にいらっしゃるんですか!
お金なら私が出します!もっといい所に泊まってください!」
「ええー、楓葉失礼じゃなぁい?」
「だって!窓硝子も割れ、あちらこちらに蜘蛛の巣が張っていますよ!」
それは、楓葉が警護官となって2度目の夏のことであった。
路川街の湿気に慣れた彼の手には、しっかりと薄い布が握られている。
少しばかり息を切らしながら、楓葉は目の前にあった水を勢いよく飲み込んだ。
「ほら、水もぬるい…」
水を飲み干したあと、べぇっと舌を出す楓葉。
文句ばかりの彼を見て、墨はふふっと軽く笑ったのだった。
「なんだい楓葉、警護官の寮はそんなにいい場所なのかい?」
「ええ、もちろん。路川街の中心部に位置していますから何でもありますしね。
…家族も一緒に暮らしていいんですよ。師匠も来たらいいのに」
「はははっ、素直じゃないねぇ」
墨は楓葉のおでこをツンと指で突付いた。
しかし、楓葉は彼のその指を手で払い除ける。
「わっ、私は子どもではありません!馬鹿にしないでください!」
「わお」
「それに私が今日ここに来たのは、こんな下らないことを言うためではないんです!」
「え、楓葉からはじめた話じゃん」
「うるさい!」
楓葉は顔を真っ赤にしながら、一度咳払いをした。
その様子を面白そうに眺めていた墨は、パンパンと手を叩き合わせた。
「で?何の用事?」
*
「…ほほう、つまりは裏京里を滅ぼしたヤツの名前が分かりそうだと」
「分かりそう、じゃないんですよ!恐らく十中八九そうなんです!
これは警護官として、さまざまな情報に触れた上での確実な証拠です!」
「じゃあそれでいいんじゃない?」
「は?」
「だから君が言いたいのは、巻物の力を使って事実かどうか確認させて欲しい、ということだろう?」
それまで、ギラギラと目を輝かせていた楓葉。
部屋内に響き渡る彼の大きな声は、少しずつ小さく萎んでいく。
一度瞳を伏せてしまった彼だが、再び墨を真っ直ぐに捉えた。
「私は…」
楓葉はそれだけ呟いて、しばらく沈黙した。
しかし彼は、再びゆっくりと口を開く。
「私はどうしても復讐したいんです。でも、そう簡単に復讐できる相手じゃない」
「ふうん?」
「だ、だって恐らく犯人は露華国の皇帝だから」
楓葉の言葉に、今度は墨が目を見開いた。
墨の黄色い瞳が楓葉の茶色の瞳を確実に捉える。
しばらくその奇妙な時間が続いた後、墨は勘弁したように溜息をついた。
「なるほどねぇ。つまり確実性がどうしても必要だと」
「はい、その通りです。守護者であるはずの警護官が何を言っているのかと思うでしょう。
でも私は、自分が警護官になった理由を見失ったことはありません。
私は国をひっくり返してでも、皇帝を潰す」
「わーお、怖いこと言うよねぇ」
ふざけ口調でそう言うが、墨の目は笑っていなかった。
楓葉は大きな深呼吸をして、墨に手を伸ばす。
「…露華国暦、545年。寒月10日。その日付で皇帝が書いた密書の内容を知りたい。そして実際に誰が裏京里に手を下したのかも」
楓葉の声はいつになく真剣だ。
それに彼の大きな瞳からは、大粒の涙がポロポロと溢れ出している。
墨はそれを見て、深く溜息をついた。
「了解。じゃあ、その条件で文字を浮かび上がらせてみよう。
…覚悟はいいね」
「もちろん」
楓葉はこの後、自身の故郷を滅ぼす計画を立てた首謀者が皇帝であること、そして殺手が呪具の付喪神であることを知る。
楓葉はさらに、その動機についても巻物を使用して調査を継続。
しかし、これといった情報は出てこず、今に至る。




