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1.墨と虎雅と巻物と

いつ「彼」は「彼」になったのか。

そんなことはてんで覚えていない。

ただ気付いたら、「彼」は「彼」であった。


それだけだった。





*





「よってらっしゃい、見てらっしゃい!

この世の文字を、すべて写しだす摩訶不思議な巻物だよ!

もっとも、読んだ後のことまでは、保証しないけどねー」


人々が賑やかに行き交う町、路川街ろせんがい

その名の通り、大河近くのこの街には流れ者が多く辿り着く。


今、こうやって口上を張り上げて客を呼び込んでいるこの青年もその一人だった。


しかし男の元には、人っ子一人訪ねてこない。

彼は手元の巻物を弄びながら、ちぇっと口を尖らせた。


じっとりと身体に纏わりつく重い湿り気。

冬だというのに額に汗をかくのは、この気温とそれのせいであろう。

加えて、耳に入ってくる異国の言葉。

そのどちらも彼の神経を逆撫でする。


「この国の言葉じゃ駄目ってーのかー!

ここは露華ろか国だぞー!

露華国の言葉で話せー!

僕は他国の言葉なんか分からんぞー!

ぴーぴー!ぱーぱー!」


耳に入る言葉を口に出してみるも、それは「言葉」とは言えないものばかり。

ただ奇声を発する彼の姿を、通り過ぎる人々は冷えた目で見つめたのだった。




彼は一時商売を諦め、路地裏へと引っ込んだ。

懐へと手を突っ込んでみれば、数枚の銅貨がチャリンと音を立てるばかり。

彼はため息をつきながら、ズレた丸眼鏡を片手で直したのだった。





*




彼の名は、もく

見た目は20代半ば程の若き青年である。

耳下で綺麗に切りそろえられたおかっぱ頭は、美しい藍色をしている。


墨は、ふと巻物に目を落とした。

上質な紙で作られたそれには、墨と筆で書かれたような文字が浮かんでいる。

しかし書かれている文字は、四角だったり丸かったり、記号のようであったり。

墨が1人で記したとは思えないような筆跡である。



「…あー、今日もたくさん来るわー」



墨は巻物を見つめながら、小さくそう呟いた。

彼の手の中にあるそれが、青白い光を放っているように見えるのは気の所為であろうか。







その日の夜、墨は路川街にある小さな宿屋で身体を休めていた。

彼の所持金は、ほぼゼロ。

この宿の女将さんに頼み込んで泊まらせてもらったのだ。


彼は薄くて硬い煎餅布団に寝転びながら、蜘蛛の巣が張られた天井を渋い顔で睨む。


「こりゃあそろそろ大変なこった。旅を続けられないばかりか、明日食うものにも困る状況よ。何が何でも客を呼び込まにゃ」


床の冷気が墨の背中にじわじわと届く。

彼は小さく身震いした。


「さて。明日も朝早くから仕事しなけりゃな」






彼が布団を被ってから、どのくらいの時間が過ぎたであろうか。

彼は自分の身体にのしかかる、ずっしりとした重みで目を覚ました。


「おや」


まず彼が発したのはその言葉だった。

墨は慌てることなく、そのまま枕元に置いた眼鏡に手を掛ける。




「おやおやおや」

「うるさい、黙れ!このまま刺すぞ!」




窓から射し込む月明かりが、墨の頸に突き付けられた短刀と、少年の姿を露わにした。

身が凍えるほどの寒さだと言うのに、少年の額には大粒の汗が光っている。



「なんだい、こんな夜更けに人の。しかも宿屋の客室に侵入するとは。

君、ただの少年じゃないね?

手練れだ」

「うるせぇ!黙れ!本当に掻っ切るぞ!」

「えぇ…本当に血の気が多い少年だなぁ」



墨は、やれやれといった様子で布団から身体を持ち上げた。

その動作は非常にゆっくりであり、どこか気怠ささえも感じさせる。



「…てめぇ、俺をナメてんのか!」

「ナメる?そんな訳。さっき僕は言ったじゃないか。手練れだってさ」



少年は、墨の黄色の瞳を見て咄嗟に距離を取った。

荒い呼吸をする彼を見て、墨はくすりと小さく笑う。



「で?」

「…は、は?」

「用事があるんだろう、僕に。でなきゃ、こんなオンボロ宿にまで忍び込んだりしないだろう。

今の僕はしがない物売り。

路上で暗殺することだって、君になら容易いはずさ」



墨は、その口元に怪しげな笑みを浮かべた。

ついさっきまで、刃を向けられていたとは思えない態度。

少年の背筋に冷たい汗が落ちる。




「さあ、早く言ってくれないかな。

僕は明日も早くから仕事なんだ。

寝不足になってしまうじゃないか」

「…ちっ、白々しい!」

「ねぇ、いいの?じゃあ寝るよー」

「お、おい!」




少年は思わず大きな声を上げた。

墨は布団に寝転びながら、面倒臭そうな顔で彼を見つめる。


少年は深く息を吸い込むと、墨に向かって片手を差し出し「ん!」と声を出した。



「なんだい」

「…くれ」

「何を」

「巻物だよ!」



少年の鋭い視線が墨を真っ直ぐに睨みつける。

墨はしばらくぽけらんとした表情で彼を見つめていたが、その直後にどっかんどっかんと大笑いを始めた。



「ひーっ!そんなこと!?そんなことで僕をここまで追いかけてきたの!?」

「そ、そんなこととはなんだ!」

「なら、お客さんじゃないか。こりゃ失礼したね。話を聞こう」

「ち、ちが!俺は客じゃ…!」

「はいはい、そこに座りなさい」



少年は、墨の光る瞳に逆らえずにその場に座り込んだ。

それも胡座。

すぐに彼がどうこうするつもりはないと悟った墨はニイっと笑みを浮かべる。



「名前は」

「名乗る必要は…」

「名前は」

「…虎雅こが



少年…虎雅は名乗った後に、チッと舌打ちを打った。


…虎雅は気付いているのだろうか。

自分が墨のペースに呑まれていることに。



「ほほう。虎雅くん。君は巻物を奪うために僕を襲ったと?」



墨は、目を細めて虎雅の身体をジロジロと眺めた。

彼はびくりと肩を跳ね上がらせ、その額に再び汗をかく。



「ああ、その通りだ。俺はその巻物を使って、どうしても知りたいことがあるんだ」



虎雅の唇が、ゆっくりと言葉を紡ぎ出す。


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