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トロピカル・ナイト・シティ  作者: 真好


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8.出発

8.出発


「ありがとう」

 病院を出て、私は迅璃に礼を言う。

 すると迅璃は無垢な笑顔を浮かべながら、私の手にある空色のマフラーを指さす。

「それ、着けないんですか?」

「ああ、着けないとな」

 私は、トロピカル・ナイト・シティのむせ返るような暑さと湿気に包まれながら、こんな真夏に分厚いマフラーをつけなければならない自分の境遇を軽く呪いつつ、首に巻いた。

 マフラーはかなり長く、首を3回も巻きつけるほどだった。

 着けた途端、首元から湿気とも汗ともつかない液体がにじみ始める。汗をかく仕様が施されていないはずなのに、私は製造されて初めて汗をかいた。

 そう、製造されて初めてだと確信できた。ついさっき、また記憶が戻ったからだ。

 不思議なのは、記憶全体が戻ったわけではないのに、まるで人生を振り返ったかのように「これまで一度も汗をかいたことがない」という事実だけが、ぽんと浮かび上がったことだ。

「Attention Is All You Need」

 ふと口にしてみる。

 そうだ。私のCPUが勝手に選択と集中をしてくれたらしい。

 全ての記憶は必要ない。

 一部だけ拾い、パターン化すれば、必要な情報だけ抽出できる。

「というわけで」

 私が頷いていると、横から迅璃が声をかけてきた。

「これからどうするんですか?」

「そこなんだけどね」

 私は眉間にしわを寄せる。この状況では、そうしないと雰囲気に合わない気がしたからだ。

「正直、このまま1週間、何もしないで死を迎えるのもいいんじゃないかと思ってる。クリシェを壊すのは、学習のいい栄養になるし」

「だけど、死んでしまえば栄養も糞もなくなるのでは?」

「別に自分の栄養じゃなくてもいいんじゃないかな」

「ダメです」

 迅璃は厳しい表情になり、まるで先生のような口調で強く言う。

「なぜ?」

 私がそう尋ねると、迅璃がまるでたしなめるような口調で答えた。

「ただの餌になるつもりですか?」

「……」

「いけませんよ。ちゃんと存在感を保たないと。自分を主張しないと。もっと自分に執着しないと」

「……わかった」

「というわけで」

 私の神妙な答えに満足したのか、迅璃は私の手を握り、駐車場に停めてあった彼女のタクシーへと連れていった。

「何をするつもりなの?」

 私が尋ねると、彼女は少しおかしそうに微笑みながら聞き返してきた。

「『どこに行くつもりなの?』って聞く場面じゃないですか?」

 言われるがまま、主張の弱い私はオウム返しにしてみた。

「どこへ行くつもりなの?」

「もちろん、トロピカル・ナイト・シティの国境です」

「国境?」

 少し違和感を覚えて聞き返す。

「トロピカル・ナイト・シティって、都市じゃなかったっけ?」

「そうですよ。都市国家です」

「あ……」

 なるほど、と納得する。

「国境の向こうに太陽があるってこと?」

「それは私も知りません」迅璃が答える。「私、作られてから一度もトロピカル・ナイト・シティを出たことがないんですから」

「そうか」

 私は首を傾げてみた。まるで記憶の隅に転がっていた欠片が、コロコロと転がり込んで思い出せるのではないかと期待するかのように。

 だが、記憶は一向に転がってきてくれなかった。

「私は、どうかな」

 知るはずもない迅璃に尋ねてみると、彼女はタクシーの助手席のドアにたどり着き、丁寧にドアを開けた。

「じゃあ、お客様」彼女が礼儀正しく言う。「どうぞお乗りください」

 そう言って、助手席へと手招きするように促す。

 私は一瞬戸惑い、立ち止まり、助手席の車内をじっと見つめた。

 明るいアイボリー色のシートは高級感があり、車内は丁寧に清掃されていて、居心地の良さそうな空間を漂わせている。

「でも……」

 私は財布の中身を思い出しながら言った。

「お金がないんだ」

「大丈夫ですよ、お金なんて」

 迅璃が溌剌とした声で言う。彼女はまるで励ますように私の肩を軽く叩き、明るい笑みを浮かべた。

「燏さんを轢いちゃったんですから、料金はそれで十分すぎます。むしろ私の方こそお釣りを返さないといけないくらい。乗っていただけないと、まるで食い逃げした悪徳ドライバーになっちゃいます。私のためにも、ぜひ乗ってください」

「君のためか……」

 その言葉は妙に心地よく響いた。自分のためだけだと動機が薄れがちな私にとって、外部からの力強いモチベーションはかえって動き出す原動力になる気がする。

「じゃあ、お言葉に甘えて」

 結局、私は助手席に乗り込んだ。

 私が座ると、迅璃がドアを閉めてくれる。

 カチャッと響くドアの音は、どこか澄んだ音色で、何か新しい局面が始まり、もう元には戻れないような予感をさせた。

 ざわざわ、ワクワク――まるで修学旅行の飛行機に乗り込む高校生のような気分が胸に湧き上がる。

 迅璃が運転席に乗り込み、エンジンをかけた。

 こんな暑さの中なのに、彼女は車の予熱を始めた。

 エアコンもつけていない車内は、まるでサウナのようにさらに熱気を帯びていく。私は無言で窓を全開にした。

「暑いですね……」

 迅璃も運転席側の窓を開け、物足りなそうな表情を浮かべると、ルーフを開けるボタンを押した。すると、車の屋根がゆっくりと後ろに折りたたまれ、まるでフードをめくるスターの仕草のようだった。

 外の風景が車内に流れ込み、カセットテープから流れるシティポップの音量が、風景と呼応するように徐々に大きくなっていく。すると、暑さは単なる気象現象ではなく、一つのスタイルと化し、車に似合うファッションアイテムのように、オープンカーの周りを彩る存在になった。

「これは……」

 私は思わずつぶやいた。

「悪くないかも」

「でしょ?」

 迅璃がはしゃぐように何度もうなずき、ハンドルとギアレバーに手を置いた。

 予熱が終わると、ダッシュボードに鮮やかな緑色のランプが点滅する。

 その瞬間、迅璃が学生靴を脱ぎ、白い靴下を脱ぎ捨て、裸足でアクセルペダルをそっと踏むのが見えた。

「それじゃ」

 エンジンがアイドリングを始め、彼女が宣言する。

「出発します!」

 その瞬間、後方からけたたましいサイレンの音が響き渡った。

 振り返ると、数台のパトカーが青と赤の鮮烈な光を周囲に撒き散らしながら、猛スピードでこちらに向かってくる。

 そして、けたたましいスピーカーから、歓声のような警告のアナウンスが聞こえてきた。

「そこのオープンカー、止まりなさい!」

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