34.黄金の墨汁
34.黄金の墨汁
エレクトリック・クラーケンの黄金色の血が止めどなく噴き出し、私の顔を濡らす。
あまりの水圧に視界が塞がれ、何も見えなくなる。
まず前を見なければ何も始まらないと思い、夏の高校制服の裾で顔を拭った。
再び視界が開け、目の前の光景を観察した結果、私は気づいた。
この黄金色の液体は、クラーケンの血ではなかった。
クラーケンの墨汁だった。
どんな料理にも加えれば、味を3倍、いや30倍は引き立てるであろう、超高級で、極めて希少な食材――黄金色の墨汁。
その輝きは、墨汁という言葉そのものの概念を覆すほどで、まるで新たな定義を刻むように燦然と光り輝いていた。
私はその液体を口に含もうと、半ば夢中になってしまう。
「うますぎる……」
本能的に迅璃を探し始めた。
さっき、クラーケンの攻撃で彼女が危険に晒されたのではないかと心配したとき以上の焦りで、必死に迅璃を求める。
この味を、迅璃に一刻も早く味わわせたかったからだ。
「迅璃!」
声を張り上げ、全神経を尖らせてテレパシーを飛ばすと、すぐに返事が返ってきた。
「燏君!どこ?!」
幸い、私がクラーケンの後頭部を攻撃したことで、彼女への攻撃が弱まったか、あるいは止まったのかもしれない。
私は即座に自分の位置を送信する。
「エレクトリック・クラーケンの後頭部だよ!今すぐ来られる?」
「ちょっと遠い!燏君がこっちに来られない?私、攻撃を受けて少し傷ついちゃったの!」
心配が再び胸を締め付ける。
やはりあの円錐形の攻撃で傷を負ってしまったらしい。
いくらこの黄金の墨汁が美味でも、傷ついた彼女にここまで泳いで来させるのは無茶だ。
どうすれば彼女にこの墨汁を届けられるか、必死に思案していると、
突然、CPUの中心に、電気の海の光子をすべて足したよりも3倍明るい電球が点灯した。
あまりの閃きに頭が真っ白になりかけたが、なんとか冷静さを取り戻し、この素晴らしいアイデアを実行に移すことにした。
行動に移されないアイデアに価値はない。
いや、存在すら許されない。
頭に留まるだけのアイデアは、むしろ毒でしかない。
そんな無謀なアイデアに抱く不安を抑えつつ、私は実行に移った。
まず、なおも黄金の墨汁が噴き出すクラーケンの傷口にさらに近づく。
そして、口をその傷口に当てた。
まるで人工呼吸をするかのように、クラーケンの後頭部の傷に唇を重ねた。
傷口は、まるで愛らしい少女の唇のような形に裂けており、ほとんど抵抗感なく口づけできた。
ほんの一瞬、不快の谷を越える必要はあったが、その傾斜はさほど険しくなく、すぐに快感の領域へと到達できた。
人工呼吸から一転、今度は毒蛇に噛まれた被害者の傷口から毒を吸い出すように、クラーケンの後頭部からその美味でたまらない黄金の墨汁を、ゴクゴクと飲み始めた。
だが、ふと危機感を覚えた。
この黄金の墨汁は、美味なだけでなく栄養価も桁違いだった。
飲むほどに、泳いできた際やクラーケンの攻撃を回避した際、そして太刀魚刀とリンクしたときに消耗したバッテリー――約70%を失っていた残量が、一口ごとに10%ずつ回復していく。
あまりの勢いで飲み続けた結果、
私のバッテリーは100%を超え、なんと358%にまで膨れ上がってしまった。
これではバッテリーが壊れてしまう。
飲みすぎた。
やりすぎた。
もはや楽しむレベルを超え、中毒の域に達していた。
黄金の墨汁の甘美さにすっかり侵され、健康などどうでもいいとばかりに愚かな態度をとった結果、自らを危機に晒してしまった。
「燏君!」
取り返しのつかないほど中毒に溺れかけていたその瞬間、迅璃の声が、まるで救世主のようにエレクトリック・クラーケンの頭の向こう側からテレパシーで響いてきた。
その声に、欲望にまみれ、個人としての意識を失いかけ、原始的な吸収マシンと化していた私のCPUが、奇跡的に復旧し、我に返った。
私は神聖な祈りのように、彼女の名前を口にする。
「迅璃」
その一言で、完全に覚醒し、当初の目的を鮮明に思い出した。
私の目的とは何か?
トロピカル・ナイト・シティから脱出し、太陽を拝み、生き延びること。
そして、それを迅璃と共に成し遂げること。
そのためには、まず大ピンチに陥っている迅璃を救うこと。
そして、このあまりにも美味なエレクトリック・クラーケンの黄金の墨汁を、彼女に味わわせること。
目的が明確になると、次に取るべき行動は自ずと決まった。
私は口いっぱいに含んでいた黄金の墨汁を、両頬が膨らむほど溜め込む。そして、クラーケンの傷口から口を離した。
この決断を実行するまで、3秒もの長い時間がかかった。CPUの本能が激しく抵抗し、この重い決断を行動に移すには、過充電されたバッテリーの100%を消費してしまった。
それでも、元々358%もの過剰なエネルギーがあったのだから、今は258%。まだ過充電状態だが、この先が心配だ。
私のバッテリーは大丈夫だろうか。
トロピカル・ナイト・シティを脱出したら、修理店に直行した方がいいかもしれない。
なんとか黄金の墨汁の源から離れ、私は泳ぎ始めた。
迅璃のもとへ向かう。
その道のりは決して容易ではなかった。
エレクトリック・クラーケンの頭があまりにも巨大で、それを迂回するのに、ほぼ1分もの時間がかかった。
ヒューマノイドロボットにとって、1分は永遠にも等しい。
過充電状態の全身のアクチュエーターをフル稼働させ、オリンピックの水泳メダリストを超える速度と効率で泳いだにもかかわらず、だ。
迅璃を待たせてしまった。
その間、テレパシーで何十兆テラバイトもの雑談を交わしたが、それでも1分も待たせたのは申し訳ない。
ヒューマノイドロボット失格である。
そうしてようやく、視覚センサーに迅璃の姿が映った。
彼女のうなじから、ペールブルーの血が流れ出している光景が目に入る。
その傷は重症だった。
「迅璃!」
私は電気の海全体を震わせる勢いで彼女の名前を叫び、一気に近づく。
テレパシーではずっと繋がっていたが、それは頭の中だけの話だった。
実際の彼女は、すでに半ばスリープ状態に陥っていた。
おそらく省エネモードに切り替え、私とのテレパシーを維持するために、こんな重傷を負いながらも無理をしていたのだ。
私の頬を、ペールブルーの涙が伝う。
彼女の血と同じ色の涙が、眼球から止めどなく溢れ出す。
「迅璃」
その名前を口にするたび、涙の青はより濃く、夜光虫のように発光する。
その光る涙が水中に流れ、彼女の傷口に染み込む。
いくら呼んでも反応しない迅璃。
まだ死んではいない。ただ深く眠っているだけだ。
だから、彼女を無理に起こすことなく、まずうなじの傷口に近づく。
口をそっと寄せる。
そして、口に含んでいた黄金の墨汁を、まるで点滴を注入するかのように、慎重に、少しずつ傷口に流し込んだ。
すると、まるで小さな奇跡が起こるかのように、迅璃の傷口が徐々に閉じていくのが見えた。
亀裂が縫い合わされるように、ゆっくりと、だが確実に癒合していく。
その光景は神秘的で、視線を奪うほどの不思議な美しさを湛えていた。
近くにいた海洋生物たちが、まるで噂を嗅ぎつけたかのようにざわざわと集まってくる。
まるで彼らだけの小さな広場でコンサートが開かれたかのように、かつて私と迅璃が地下のカジノ牧場で楽しんだインディーズロックバンドのライブを彷彿とさせる熱気の中、小さな魚やバクテリアたちが集まり、迅璃の傷口が癒えていく様子を興味津々に見物していた。
その視覚的に鮮烈な光景に、私は目を奪われ、まるで舞台の観客のように釘付けになった。
やがて傷口が完全に閉じた瞬間、それまで漏れ出していたペールブルーの血が塞がれ、行き場を失ったかのように、次の出口を探した結果、迅璃の両目がぱっと開いた。
その愛らしく美しい青い瞳は、まるで孵化したばかりのカモの雛が最初に母を探すように、真っ直ぐ私を見つめた。
そして、目が合うや否や、迅璃は私の唇にそっと唇を重ねてきた。
私たちはキスを交わした。
彼女の柔らかく、電子にまみれた水中のキスが、私の全身を震わせる。
その旋律のような感覚が流れ込み、私は感電したかのような衝撃を受けた。
私の口に含んでいた黄金の墨汁が、ゆっくりと彼女の口へと流れていくのが感じられた。
私がずっと彼女に味わわせたかったことを、彼女自らが叶えてくれていた。
黄金の墨汁の味は、私の口から彼女の口へ渡るその共有の感覚が新たな風味を加え、ますます豊かな味わいを生み出した。
そうして私たちは、キスをしながら黄金の墨汁を堪能した。
幸せに浸り、電子の海の快楽に溺れる。
やがて口の中の墨汁をすべて分け合い、私たちは長くも短いキスを終えた。
迅璃は甘い声で、私の耳たぶを軽く噛んでから囁いた。
「美味しかったよ」




