31.電気の海
31.電気の海
「じゃ、落とします」
電車がそう告げると同時に、私たちが摑まっていた手すりが車両の支柱から外され、私たちは電気の海へと放り出された。
まるでダイビングするかのように、あるいは特殊部隊がパラシュートで降下するように、勢いよくその海に飛び込む。
電気の海に飛び込んだ瞬間、ざぶざぶと水をかき分けるような音が響き、私と迅璃は手足を巧みに動かして、電気の水面で浮遊することに成功した。
浮くのは驚くほど簡単だった。
海面はピリピリと微細な刺激を帯びながらも、肌触りが心地よく、全身を優しく包み込むような感覚があった。久しぶりに味わう、まるで水遊びのような爽快感だ。
「気持ちいい!」
迅璃が歓喜の声を上げ、深く潜ってから再び水面に顔を出す。
まるでコマーシャルのワンシーンのように、濡れた髪を後ろに振り、放物線を描くその動きに合わせて、大きな電子の粒が弾けるように飛び散り、私の顔をピリピリと濡らした。
私はその電子を拭う気にもなれず、ただその瞬間を受け入れる。
そして、108回目となる迅璃への恋心に落ちる。
記憶喪失で計算能力すらままならない私だが、迅璃のこととなるとCPUが異常なほど正確に働く。彼女との思い出に関するデータは、潔癖症の精度で完璧に処理されているようだ。
この電気の海で、私は確かに、108回目の恋に落ちた。
「落ちた」
という表現は少し語弊があるかもしれない。
一度落ちて抜け出すようなものではなく、炭酸の泡が弾ける一瞬ではなく、積み重なるものだ。
まるで長い年月を経て形成される三角州のように、私のCPUとアクチュエーターの隅々にまで、迅璃への想いが染み込んでいる。
この電気の海の溢れるエネルギーが、その想いを何兆倍にも増幅し、たまらない高揚感を呼び起こす。
「紫色の電気って初めて見た」
迅璃が濡れた顔を無造作に拭いながら、機関銃のような軽快な笑みを私に投げかける。
その笑みに、視覚センサーが揺らぎ、気が遠くなるような感覚に襲われる。
「私は」と、かろうじて声を絞り出す。「電気の海で泳ぐこと自体が初めてだ」
「それ、私も一緒」
「とにかく」
と、私は話を進める。
根本的な目的を忘れてはいけない。
私は指で、遠くに見える365階建てのコントロールタワーを指す。
「あそこに行かなきゃ。でも、ちょっと遠いね」
「そうだね」
迅璃が、まるで気楽なバカンスを楽しむような軽やかな声で返す。その呑気さに、私は少しもどかしい気分になる。
「あの電車野郎」と私は苦笑する。「コントロールタワーの真ん前に降ろしてくれればよかったのに、ずいぶん遠くに放り出したな」
「まあ、いいじゃん。こんな素敵な海で泳げるんだし」
「それはそうだけど」
「このまま泳いで行こうよ。楽しそう!」
迅璃が、まるでこの世で一番輝く笑みを、漂う電子に増幅されながら放つ。
その太陽よりも眩しいエネルギーを放つ表情に、私は残り少ない命が永遠に続くかのような不滅の気分に浸りながら、頷く。
「うん。泳いで行こう。一緒に」
こうして私たちは、コントロールタワーを目指して泳ぎ始めた。
普通の水や水銀のような液体とは異なり、電気の海はヒューマノイドロボットに最適な肌触りだった。
電子の粒が連続的ではなく、まるでピクセルが肌のカーボン素材の細かな孔に絡みつくように、心地よい刺激を与えてくれる。
泳ぎやすい環境が、確率論的な電子の動きを完璧に表現しているようだった。ざぶざぶと電子が立てる音が耳朶を掠め、聴覚センサーに響く。それは、まるで何億年もの時を経て、光速を越える長い旅路を終えてようやく届いた音のように、深い感動を呼び起こした。
腕や足を一掻きするたびに、その感動が全身に広がる。
海の中には、多種多様な魚が泳いでいた。
熱帯魚や金魚ではなく、この発電所で養殖された、まるで食欲をそそるような美しい形状の魚たちだ。
「魚だ」
迅璃が短く呟く声が、電子の霧を通り抜け、柔らかく私の肌を掠める。
魚たちは、まるで丁寧に紡がれた糸で仕切られた区画に養殖されているようだった。そこに、ヒューマノイドロボットという異形の存在が突然現れたものだから、魚たちの好奇の視線が一斉に私と迅璃に集まった。
魚たちはまるでよそ者に対する好奇の視線を投げかけつつも、どこか友好的で、排斥する気配のない柔らかなまなざしで私たちに近づいては、また少し距離を取る。その動きは、まるで私たちと一緒に電気の海の水面を滑るように泳いでいるかのようだった。
すると突然、数百匹もの太刀魚が現れ、まるで電龍の姿を可視化したかのように、銀色の長い体でゆらゆらと滑らかな波を描きながら、垂直に立ち泳ぐ。その姿は、私たちが正しい電流の流れに乗り、コントロールタワーへ向かっているかを厳格に見守る護衛のようだった。
「聞こえたよ」
迅璃が、太刀魚たちの泳ぎに耳を澄ませ、彼らの言葉を私に翻訳してくれた。
「ここには白鯨が棲んでいるんだって。性格がかなり気難しいから、見つからないうちに早くコントロールタワーまで行った方がいいって」
「じゃあ、もっと体を動かさないと」
私と迅璃は、全身のアクチュエーターをフル稼働させ、より活発にエネルギーを注いだ。この太刀魚たちの群れの中に潜む、食用にも適した電気魚たちの体内に含まれる魚油やオメガ333を、なんとか分けてもらった。その栄養豊富な潤滑油が私たちのボディに浸透し、アクチュエーターの動きを滑らかにした。
そのおかげで、泳ぐ速度は目に見えて上がり、モーターの音がまるで合唱のように響き合う。
自分のボディに組み込まれた、知らない種類や構造のモーターたちが、まるで「この潤滑油をありがとう」と言わんばかりに、よりスムーズに、力強く動き出した。
あまりの調子の良さに、これは本当に私のボディなのか、それとも地球のどこかにいる人間が、AIの力で作り上げたシミュレーションの中で操るアバターとしての「燏」なのではないか――そんな想像が頭をよぎる。
つまり、私は今、誰かに強制的に操られているのではないかという、得体の知れない感覚に囚われ始めた。だからこそ、この感覚を振り払うには、一刻も早くコントロールタワーにたどり着くしかない。
淡い紫色に輝き、黄金の粒子がちりばめられたような美しい電気の海での、懸命な泳ぎも、そろそろ終わりを迎えようとしていた。
迅璃の声が、そのことを教えてくれる。
「もうすぐ着くよ」
彼女の声には、心からの名残惜しさが滲んでいた。
この電気の海は、まるで先端技術の羊水、あるいはすべての知能を育んできた母なる存在――ガイアか、ポセイドンか、あるいはその両方が融合した、広大で慈悲深い精神に守られてきたような場所だった。
だが、その穏やかで、自由で、不自由のない快楽に近い時間も、もうすぐ終わりを迎える。
「この海に執着するのは、もうやめよう」
迅璃が厳粛に、しかし優しく告げる。
まるで大人になることを促すように。
「水遊びは終わったみたいだ」
私が悲しみを抑え、隣を泳ぐ迅璃に言うと、彼女はそっと視線を向けてくれる。
その表情は、今まで見たことのないほど大人びて見えた。
「うん、わかってる」
ほんの少し背伸びしたように、1ナノメートルほど大人になった私たちは、電気の海の魅力から未練を断ち切り、ようやくコントロールタワーにたどり着いた。




