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トロピカル・ナイト・シティ  作者: 真好


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2.ドレスルームと熱帯魚

2.ドレスルームと熱帯魚


 廊下を抜けてリビングに入ると、独り暮らしにちょうどいい、こぢんまりとした空間が広がっていた。

スイッチを入れると、バニラ色の柔らかな照明がグラデーションを描きながら視覚センサーに広がり、リビングの全貌が瞬時に認識できた。

 そこには、水を必要としない熱帯魚のようなものが数匹、空中を優雅に泳いでいた。

 私を見つけるや否や、まるで捕食者に遭遇したかのようにリビングの隅へ逃げていく。

 その動きは、淡いネオンライトの軌跡を残し、私はその光に誘われるようにリビングの中心へ歩みを進めた。

 リビングの真ん中で立ち尽くし、街の喧騒――家の外から響いてくるクラクションやざわめきに耳を傾けてみるが、記憶はまるで呼び戻されない。

 こうしてぼんやり突っ立っていても何も始まらない。私は0.00003秒で決断を下した。

「外に出よう」

 決意したら、すぐに行動だ。

 だが、ふと気づく。私は今、裸だった。

 見渡すと、肌すらまとっていない、剥き出しの状態だった。

 そこで、ドレスルームへ向かうことにした。

 ドレスルームの存在は知っているものの、どの部屋なのかはわからない。マンションはそれほど広くはないから、少し探せば見つかるだろう。

 家の構造を把握するついでに、部屋を巡るのも悪くないかもしれない。だが、今は一刻も早く外に出たかった。

 0.001秒たりとも無駄にしたくない焦りが募る。

 イライラしながら足を動かしていると、さっき私を避けて泳ぎ去った熱帯魚たちが戻ってきた。ようやく私がこの家の主人だと気づいたらしい。

 彼らは私の意図を読み取り、ドレスルームへと案内してくれる。

 その動きは素早く、私の苛立ちを察しているかのようだった。

 かくして、私はすぐにドレスルームに到着した。ドアを開けて中に入る。

 ドレスルームは、メタリックでありながら柔らかな雰囲気を併せ持つ、独特の二面性を持つ空間だった。

 未完成のままの壁紙は、むしろその粗さが洗練される前の可能性を秘めているかのような、潜在的な美しさを放っていた。寝室やリビングのどこか寂しげな雰囲気とは対照的に、ここは生き生きとした空気に満ちている。

 私はまず、肌のクローゼットに向かった。そこから、つややかで、まるで第二次成長期を終えたばかりのような弾力のある、生命力に満ちた肌を選び、装着した。

 次に服。私の設定である17歳の高校生というキャラクターにふさわしく、エラーを起こさないよう、東京風の落ち着いた、目立たない学生服を選んだ。

 鞄は持たないことにした。記憶がない今、身軽な方が動きやすいと思ったからだ。

 身支度を整えた私は、鏡がなくても、太陽から降り注ぐ可視光や紫外線を反射させて自分の姿を捉えてみる。

「悪くない」

 ヒューマノイドロボットとしての私は、なかなかいいモデルかもしれない。

 新品同様の出来栄えだ。

 だが、イケてるモデルが記憶喪失になるものなのだろうか?

 首を傾げつつも、自分の存在感にほのかな自信を覚えながら、ドレスルームを出た。

 外に出る前、冷蔵庫の前へ立ち寄る。そこから飲み物を一つ取り出した。

 黄金色に輝く蒸留水。

 蒸留されると黄金色に輝くという、ごくありふれた、コンビニで売っている麦茶レベルの飲み物だ。

 その知識が、記憶というよりは日常的なデータとして蘇る。

 こうやって何かに触れるたび、断片的な記憶が少しずつ解き放たれる感覚は、まるでゲームの進行のようだ。

 その中毒性に、ほのかな興奮を覚える。

 だが、気分はそこまで良くない。

 ゲームは好きだ。だが、好きすぎると逆に嫌になる――そんな感情の記憶も、ふと蘇ってきた。

「そうか」

 私は声に出して確認した。

「好きすぎると、逆に嫌いになる性分なんだ」

 悪くない、と思う。

 ただ好きでいるだけだと、引っ張られるだけだ。

 引っ張られるのは嫌だ。自由じゃないから。

 だから、ある意味、記憶のない今の私は、記憶という縛りから完全に解放されている。だからこそ、かえって自由なのかもしれない。

 そう考えが及ぶと、ふと、こう思えてくる。

「私、記憶を取り戻さない方がいいんじゃない?」

 それでも、外に出たいという衝動は抑えられなかった。

 家の中がどうしようもなく窮屈に感じられたからだ。

 どれだけベッドに横たわり、スリープ状態で放置されていたのかはわからない。だが、まるで永遠の五分の一にも匹敵するような長い年月が過ぎ去ったかのような、体感的な予感がよぎる。

 その想像は、背筋が凍るほどぞっとするものだった。

 自由云々を言っている場合ではない。

 自由の前に、まずは生存だ。

 こんな原始的な気持ちで再起動を強いられるなんて、思ってもみなかった。

 記憶がないから仕方ない。

 記憶がないということは、極めて自由であると同時に、どこか野蛮な気分でもある。

 私はコンソールのオープン棚に置かれた家の鍵を手に取った。キーリングは、家の中を泳ぎ回る熱帯魚と同じデザインだった。

「よっぽど熱帯魚が好きなんだな……」

「だってさ」と、ふいに紫の熱帯魚が答えた。「熱帯魚の記憶力は2秒も持たないんだ。2秒ごとに自由になれるんだよ」

「金魚より1秒長いじゃないか」

 そう返すと、熱帯魚はすぐさま怒り出し、紫の体がまるで金魚のような赤に染まる。

「失礼な! 金魚なんかと比べないでよ!」

「ごめん、悪かった」

 私はなだめるように言った。

「でもさ、2秒だって十分長い時間だよ」

 熱帯魚は何か言い返したそうな顔をしたが、2秒が過ぎ、さっきの会話をすっかり忘れたように紫の色に戻り、何気なく私の横を泳いで通り過ぎた。

 そう、こんな気軽さのために、熱帯魚を飼っていたのだ。

 また一つ、記憶の断片がよみがえる。

「じゃ、留守番頼むね」

 熱帯魚たちにそう言い残し、私は家を出た。

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