2.名前のない境界線
青空の下、グラウンドには笛の音と声が飛び交っている。
今週末にある体育大会の本番に向けて、各クラスがリレーの練習を行っていた。
「和樹!次、走るぞ!」
「分かってるってー!」
バトンを受け取ると同時に、和樹は全力で走り出した。クラス対抗のリレー練習。順位がどうこうという話ではないけれど、手を抜くことは性に合わない。
汗が頬を伝い、シャツにじわりと染み込んでいく。
しかし、走っている間はどうでも良かった。ただゴールを目指して走るだけだ。
「ナイスー!」
ゴールを駆け抜けた瞬間、誰かからの視線を感じた。
汗で濡れたTシャツの裾を引っ張りながら、ふと横を向く。
その視線の主──貴斗がいた。
水も飲まず、ベンチに腰掛けていた。ただじっと、和樹を見ていた。何かを狙う、獣のような目つきであった。
(なんだ、あれ……)
目が合いかけた瞬間、貴斗は視線を逸らしてしまった。
「和樹!ナイスラン!」
「……あ、うん」
クラスメイトから声を掛けられ、和樹は振り返る。
笑って応えたが、胸の奥はざわついていた。
◇
「……暑っ」
練習を終え、和樹は体育館裏の自販機へと歩いていた。
今日は特に蒸し暑い。そのせいか、水筒はとっくに空っぽになってしまったのだった。
Tシャツをめくって腹の下に風を通す。タオルで拭っても、肌に張り付いた汗は乾きそうになかった。
「水でいいか……」
ペットボトルを取り出したそのとき、近づいて来る足音に気づいた。ゆっくりと顔を上げると、少し離れたところから貴斗が歩いてきていた。
「貴斗……お前はクラスが違うだろ。なんでまた俺のところにいるんだよ」
「俺のクラスは、もうとっくに練習終わってるんだ。……和樹の走り、いつ見てもいいな。フォームが綺麗だし」
「……そりゃどうも」
「今週の体育大会、応援してるから」
「……自分のクラスを応援しろよ」
「それもそうかと」と笑う貴斗だったが、こちらに向けてくる視線に違和感を感じた。
和樹はタオルで汗を拭いながら、軽く問いかけた。
「……なに?なんかついてる?」
すると、貴斗はハッとしたように目を見開いて、ようやく視線を外した。
「……ああ。いや、なんでもない」
その目はいつもと違った。
まるで、何かを──欲しがるかのような。
(気のせいだよな……)
和樹は、そう自分に言い聞かせてた。
◇
着替えるために和樹が更衣室に入ると、先に着替えを終えた貴斗がベンチに座っていた。
こちらに気づいていないのか、貴斗はうつむいたままだった。
「貴斗……?」
声を掛けても、返事はない。
見れば、貴斗の手の中にはさっきまで自分が使っていたタオルがあった。
「あ、それ俺の……落としてた?」
和樹が手を伸ばそうとした時、貴斗の指がぴくりと動いた。
「……これ、持って帰ってもいいか?」
「は?」
思わず声が上ずる。
貴斗の表情は真剣で、冗談を言っているようには見えなかった。汗に濡れた前髪の間からのぞく瞳は、どこか焦点が合っていない。
「頼む。……もう、限界なんだ」
その言葉に背筋が冷えた。
「……なにが限界だよ」
「分かってる。ベータのお前に、こんなこと言うのは間違っているって……でも」
貴斗は、和樹のタオルを握りしめながらゆっくりと立ち上がる。
貴斗が周囲にアルファのフェロモンを漂わせる。ベータである和樹が分かってしまうほどに。
「俺は……本当は、項を噛んでつなぎとめてしまいたい。……誰にもお前を取られたくないんだ」
「は……?」
思わず一歩、後ろへ下がった。
貴斗は一瞬悲しそうに眉を寄せたが、それでも前に出た。
「番になれないことは、わかってる。でも、和樹を番にしたいって毎日考えてる。どうすれば和樹が俺から離れないのか──いっそどこかに閉じ込めて、一生誰かに触らせたくないようにしたい。……でも、それをしたら、和樹は俺のこと一生嫌いになるになるんだろうなって……」
「貴斗……お前、さっきから何言ってんの」
和樹は、途中から貴斗の言葉が耳に届かなくなった。何を言っているのか分からなかった。
それでも、貴斗は止まらない。
まるで、押し殺していた何かが溢れ出ているようだった。
「……それでも、俺は和樹を──」
「やめろ。……気持ち悪い」
吐き捨てるように言った言葉に、貴斗の動きが止まった。
重い沈黙が、二人の間に落ちる。
「……ごめん。忘れて」
貴斗は絞り出すような声で言い残すと、タオルをベンチの上にそっと置いた。そして、そのまま黙って更衣室から出ていった。
アルファとベータ。
どうしたって埋まらないものが、そこにあった。