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謎姫、世界を救うっ!  作者: 吉岡果音
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第23話 クロスバイク

 街並みが、後ろへ流れていく。

 風を切り軽快なスピードで進んでいたが――、津路亜希螺(つじあきら)は、小学校の角を曲がったところで突然クロスバイクのペダルを漕ぐ足を止めた。


「おにい、ちゃん」


 まさか、と思った。

 記憶から消したはずの、妹の顔が目の前にあった。


 どうして。


 永遠に会うはずはないと思っていた。


「……友だちに、会いに来ただけだから」


 なにも聞いていないのに、妹のほうから言葉を投げてきた。別に、知りたいとも思わなかったのに。


 こいつ、こんな声だったっけ。


 亜希螺は、そんなことをぼんやり思いつつ、改めてペダルを踏む足に力をかけようとした。

 会話を交わす理由も、時間を費やす理由もなかった。目線を合わせる理由さえも。

 黙ったまま、妹の脇を通り過ぎようとした。


「ちゃんと、食べてるの?」


 通り過ぎざま、妹が大声を上げた。


「私、知ってるよ。おとうさんとおかあさん、泣いてるの。今も、時々――」


 風が通り過ぎていく。小学校が遠ざかる。妹の姿はとうに見えない。

 何年かぶりに見た妹。あれから十年近く、経っているかもしれない。顔の輪郭しか、見なかった。今視界に飛び込んできた髪形も、服さえも、もう覚えていない。

 クロスバイクを漕ぐ。足に伝わる、確かな感触だけを頼りに。

 

 クロスバイク――。今も、昔も、僕の相棒――。


 海外製の洗練されたフォルムのクロスバイク。それは亜希螺が、高校入学の祝いに両親からプレゼントされたものだった。


 どうして。どうして、今更……!


 風が、過去の記憶をすべて飛ばして消し去ってくれればいいと願った。


『学校まで、遠いから。せっかくなら、いいものをと思ってね』


『気を付けて乗るんだぞ。危ないからな』


『おにいちゃん、いいなあ。それ、かっこいいね!』


 忘れていた声が、心の中に蘇る。


 いらない……! どうして、今更……! 僕は、もう……!


 息が苦しい。震える唇を、噛みしめる。

 いくつもの交差する道。曲がり、交わり、あっという間に景色が変わる。


 いつの間に、道が変わってしまったのだろう。


 にじんだ景色が、後ろへ、後ろへと通り過ぎてく。

 堪えきれない嗚咽。しかし、漕ぎ続けた。

 前に進むしか、なかった。進む先は破滅しかないとわかっていても。




「急がなくては……!」


 ミショアが叫んでいた。

 なりふり構わず、白昼堂々襲ってきた魔族。


「きっと、飛蟲姫(ひちゅうき)の復活を急いでいるのでしょう」


 伊崎邸に、ミショアと賢哉、時雨(しぐれ)とバーレッドも戻ってきていた。ミショアは、離れた場所から時雨とバーレッドが魔族と戦っている気配を察し、賢哉と共に急いで伊崎邸に戻ったのだ。


「急ぐって、場所の見当はついているのか?」


 腕を組んで座っていた伊崎祖父が、尋ねていた。

 

「じーちゃん……」


 賢哉だけが、ちょっと呆然としているようだった。まさか、自分の祖父に特殊な力があり、異世界の面々との話し合いにちゃっかり参加しているとは思わなかったのだ。そのうえ、堂々と話の真ん中にいる。

 伊崎祖父は、「孫」伊崎に向かって、制するように手のひらを上げていた。


「賢哉。気になるだろうが、気にするな」


「じーちゃん……」


 めちゃくちゃ気になる様子の、「孫」伊崎。


「言っておくが、俺は強いから。心配ご無用」


 逞しい胸を張る、伊崎祖父。


「しかしながら、じーちゃん……」


 突然のカミングアウト過ぎて受け入れがたく、さらに年寄りの冷や水を案ずる様子の孫伊崎。


「年の功。賢哉、俺はお前より数枚上手なのだ」


 陽菜を筆頭に、異世界からの面々も、伊崎祖父、伊崎孫、伊崎祖父、伊崎孫、と親族会話のラリーを目で追う。

 伊崎賢哉はまだなにか言いたげだったが、ミショアが先ほどの伊崎祖父の質問の答えを述べていた。


「おおよその見当はすでについています。しかし、私の考えでは――」


 ミショアは、テーブルの上に広げられた津路亜希螺の手紙を手に取っていた。


「この人物の行き先を追跡すれば、辿り着けるのでは、と。おそらく、彼が私の魔法で見た飛蟲姫の卵のそばにいた人物と思われます」


 バーレッドが、ミショアを見つめ尋ねる。


「ミショア。その手紙から、現在の男の動きが追えるか?」


「ええ。ガードや妨害がなければ、たぶん」


 ミショアは、うなずいた。


「ついさっき、魔族の動きがあったということは、この津路亜希螺という男にも動きがあるのかもしれない」


 気を取り直した伊崎賢哉が声を上げた。


「地図、地図があるよ」


 陽菜は、カバンの中から地図を取り出した。昨晩、ミショアが赤い印をつけた地図だ。

 ミショアはうなずき、それから伊崎祖父のほうへ向き直った。


「伊崎さんのおじいさま。ちょっと、手をお借りしてもいいですか?」


「おう」


 伊崎祖父は、ミショアのほうに手のひらを差し出す。ミショアは、伊崎祖父の手を取った。


「特殊なお力をお持ちの伊崎さんのおじいさま。つい先ほど、津路亜希螺の家に行ったばかり。そのときお感じになられたその場のエネルギーの記憶。そして、この肉筆の手紙に色濃く残る念。それらの情報から、今、実際に彼がどの辺りにいるのか、探ります」


 ミショアは右手で伊崎祖父の手を握り、左手で手紙の上に手をかざしてから、瞳を閉じた。

 

「風の精霊、光の精霊。津路亜希螺という人物に触れ、恵みを与え通り過ぎし聖なるかたがた。お教えください。彼の今いる場所を、通りゆく道を」


 呪文を唱え、そしてゆっくりと瞳を開け、今度は左手を地図の上にかざす。

 陽菜は、かたずをのみミショアの様子を見守り続けた。

 陽菜の傍らには、カバン。カバンには、明照(めいしょう)――。


 もしかしたら、明照を使うときは、もうすぐなのかも――。


 陽菜は、きゅっと唇を結んだ。

 ミショアのしなやかな指が、地図の上を滑る。


「移動してる――。なにか、乗り物に乗って。その方角は――」


 指の差し示す先を見た陽菜は、思わず叫ぶ。


「やっぱり、飛蟲姫のほうへ向かってるんだ!」


 ミショアの記した赤い円の中心へ、まっすぐ向かっていた。




「亜希螺さん。早かったですね」


 静月(せいげつ)が、微笑み出迎える。

 津路亜希螺はうなずいて、砂利の上にクロスバイクを停めると、無造作にカバンに突っ込んであったタオルで顔をごしごしと拭いた。

 

 涙とか、汗と一緒になってるから、きっとバレやしない。


 亜希螺は、静月の目を見なかった。不自然に顔を拭き続ける姿を見てなにか尋ねられるかと思ったが、静月のほうもすぐ亜希螺に背を向け歩き始めたので、言い訳を考える必要はなかった。

 昼間でも車の行き来のほとんどない、林道だった。さらに林の奥へ進む。


「おかげさまで、だいぶ大きくなりました。しかし、状況が変わりました。急いでさらなる力が必要となってきたのです」


 前を歩きながら、静月が話す。藪の中を進む。じっとりとまとわりつくような空気、蛙の声が、大きくなってきた。

 不意に、静月が振り返る。


「少し、留守にします」


「え」


 藪の奥深く、静月の向こうの暗がりに、光る目。おそらく、魔族だろうと思った。


「魔族の護りも置きますが、亜希螺さん。あなたには、飛蟲姫の護りをお願いしたいのです」


「護りって――。僕には、なんの力もない――」


 留守って、どうしてだろう。静月は、どこかに行くつもりなのだろうか。


「この世界のことをよく知っているあなたに、いてもらったほうがいいかと思いまして」


 そうか。静月の留守に、こっちの世界にいるという運命の姫とかなんとかが来たら困るからか。


 運命の姫は、ええと、と亜希螺はその名を思い出す。


 確か。陽菜。ごく普通の会社員の女らしいな。


 別に強そうでもなんでもない若い女と聞いていた。それなら――特に若い女は苦手ではあるが――、なんとか自分でもうまくあしらえるかもしれない、と考えた。

 亜希螺のカバンには、常に護身用のナイフがあった。使ったことはないが、脅しにはなるかもしれない。それに、魔族が一体いるなら、楽勝だろうと考えた。


「では、お願いします。亜希螺さん――」


 静月は、亜希螺の瞳を見つめ、そこまで言いかけると、ふと首をかしげた。


「あれ? 亜希螺さん……?」


 静月は、亜希螺の眼鏡の奥を見つめている。

 どきり、とした。


 まさか。気付かない。タオルで、拭いたし。時間だって、経ってるし――。


「泣いていらした……?」


 静月は、気付いていた。亜希螺の頬が、さっと赤くなる。頭に血が昇り唇が、わなわなと動く。


「なにか、あったのですか……?」


 とび色の澄んだ瞳。なんでも見通してしまうような――。


「なんでもないっ! 妹が……! 妹のやつが……! いつも、いつだって僕の邪魔を……!」


 つい、叫んでいた。話す必要も話すつもりもなかったのに、荒々しい怒りと苛立ち、激しい動揺で、つい叫んでしまっていた。

 

「妹さんは――、確か……」


「あいつら、僕を、捨てたくせに……!」


 亜希螺は静月にすべてを話していたわけではなかったが、一度だけ憎しみの感情で自らの家族について語ったことがある。この世界が滅び、やつらがいなくなっても構わないのだ、と。

 静月は、なにも訊かなかった。恥ずかしさと悔しさ、そして自分でもよくわからない、手の付けられない強い感情が襲ってきて――、亜希螺は子どものように暴れ、泣いた。

 静月は、黙って見つめ続けた。

 感情が、堰を切ったように止まらない。亜希螺は、泣きながら同じことを叫び続けた。


「なんで、来たんだよお、僕の、僕の世界から消えたんじゃなかったのかあ……!」


 うずくまり、草を引きちぎり、拳で地面を何度も叩いた。

 どのくらい、そうしていたかわからない。いくつもの風が、通り過ぎ草を揺らす。

 やがて、丸まった背に柔らかな感触。静月の、手のひらだった。


「……大丈夫。大丈夫ですよ。もうすぐきっと、すべてが夢になります」


 亜希螺は、ゆっくりと顔を上げる。


「ゆめ……」


「ええ。わずらわしい現実は、遠ざかります。新しい世界が、始まるのです」


「あたらしい。せかい……」


「新しい規律のもと、亜希螺さん、あなたはもっと自由に自分を生きられるのです――」


 静月は、優しく微笑んだ。


「それでは。私は、行ってきますね。新しい世界の誕生のときを、早めるために」

 

 立ち上がる、静月。ぼんやりと、亜希螺は静月を見上げた。

 とび色の髪が揺れる。亜希螺の見つめる中、静月の姿は、あっという間に――。


「うわっ……!」


 うずくまったような格好の亜希螺だったが、驚き尻もちをついていた。

 静月が、人の大きさをゆうに超える、大きな蝶の姿に変身していたのだ。


「これが、私のもうひとつの姿――。では、留守番を――」


 静月は、羽を羽ばたかせ、飛び立とうとした。

 亜希螺は、目を大きく見開き見つめる。美しい、アゲハ蝶のような複雑な模様の羽――。


 ざくっ。


 奇妙な音がした。

 

 え。


 亜希螺は、戸惑う。

 今、自分が感じている激しい感覚に。

 今にも飛び立とうとした静月は、なぜか――、人の姿に戻っていた。

 美しい、青年の姿。


 どうしてだろう。


 静月は、目を大きくしてる。驚いている表情。たぶん、自分も同じ表情を浮かべているのでは、と思った。整った相貌の静月と、冴えない自分では、見た目的には雲泥の差があるかもしれないが、浮かべている表情は、一致している。


 変だな。


 素材は全然違うのに、共通のちょっと間の抜けた表情。そう考えると、笑えてきた。


 変だな。


 この激しい感覚。


 これは、痛みなのではないか。


 ふと下を見たら、自分の体を突き抜ける尖った物体。そして、この吹き出し続ける赤い色。


 これ、血……?


「亜希螺さんっ!」


 静月が叫び、抱き起そうとする。なにか返事をしようかと思ったが、意識がぼんやりしてきた。

 背後から、声。


「こんな使い物にならないような人間。命のエネルギーのひとつとして一刻も早くお届けしたほうが、有意義でしょう」


 あ。これ、さっきのやつの声か。静月の後ろにいた魔族。


 そいつにやられたのだ、はっきりとわかった。

 なにか、叫び声が耳に届く。どうして、と叫んでいるようだ。激しい声。たぶん、静月。


「どうしてっ! どうして、こんな勝手なことを……!」


 激痛、激痛、激痛。苦しい。なにこれ、苦しいよ。すっごく。


 どんどん、遠のく意識。痛みも薄れてきた気がしていた。

 風に揺れる草。空が、少し見える。今の亜希螺の目には灰色の、暗い色の空に見えていた。


 灰色のように見えるけど、ほんとうは青空かもしれない。


『ちゃんと、食べてるの?』


 妹の、声だった気がする。聞こえた気がする。


『おとうさんとおかあさん、泣いてるの。今も、時々――』


 泣いてるの……? ほんとうに……?


 叫び声。叫んでいるのは、自分なのだろうか。違う、と思った。やはり、静月の声だ。


 静月。あれ。泣いてる……。


 ぼくのためにないてるんだ。そうわかった。


 へえ。そうかあ。これが、あたらしいせかいってやつかもしれない――。


 言葉を投げつけてきた妹は、泣きそうだった。とうさんと、かあさんも、泣いていたという。そして、静月さえも。


 せんせいは、ないてくれるかな……。


 自分のために、泣いてくれるひとたちがいる。

 同時に、思い出す。


 どうして忘れていたんだろう。


 今、はっきりと妹の顔を思い出していた。そして、両親の顔。

 笑顔もあった。自分にだって、いくつもの笑顔が向けられていたことを。


『おにい、ちゃん』


 どうして、言葉を返してあげなかったのだろう。会いに来て、くれたのに――。


 涙が、あふれてきた。


 もういちど、もういちど、あえたら、そしたら――。


 亜希螺は、頑張って息を深く吸い込もうとした。

 しかし、静月の声も、空気さえも、もう亜希螺に届くことはなかった。


『気を付けて乗るんだぞ。危ないからな』


 砂利に停められたクロスバイクが、ただ静かに主の帰りを待っていた。

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