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おのころ島の物語 モモの物語

作者: 黒 昭


紀元前450年ころの話である。


日本には縄文人が住んでいた。

アヅミ人やイヅモ人、それに少数の大陸由来の人もいたが、日本に住んでいるのはほとんどがのちに縄文人と呼ばれる人である。


そこに今では弥生人と呼ばれる農耕民、オノコロ人が移住してくる。


オノコロ人は、かつてはベトナム付近に住んでいたらしい。潜水して魚をとったり、稲作を行ったりしていた。

他の民族に追われて北上し中国南部に住み着いたがここも追われて紀元前450年ころは今の上海に居を構えていた。

当時の上海は余山を中心とした三角州であり大陸とは地続きではない。

オノコロ人はこの三角州で稲作をし、沖合にある舟山諸島で潜水業を営んでいた。総勢四千人程度の少数民族である。



【モモの漂着】


オノコロ島は今の上海付近である。当時は陸地と地続きではなく長江下流の三角州であった。

中央に山がありそれをオノコロ山と呼んでいた。


オノコロ人はこの三角州と沖合の島々に住んでいた。

オノコロ人は農作をし、また潜水業をしていたが生活に必要となる木材はもっぱら長江の流木を利用していた。

長江にはいろいろなものが流れてくる。

長江上流で争いがあると、丸太よりも船の残骸が多く流れてくる。

死体や傷ついた兵士も流れてきた。


ある夏の日に一艘の丸木舟がオノコロの三角州に漂着した。

舟は若い母親と乳飲み子がぐったりと横たわっていた。

横に籠があり、桃がいくつか入っていた。


母子共に衰弱していたがオノコロ人の介護によって一命をとりとめた。

この乳飲み子はモモと皆から呼ばれ、母親は自然とモモの母親と呼ばれた。


母親との会話はほとんど通じなかったが、わずかに長江上流のしんの言葉が通じた。

ただし、オノコロ人で秦語を自在に操れる人もなかったのでこの母子遭難の事情はしばらく不明であった。


オノコロ島の東にやしろがあって数名の巫女が寝起きしていた。

モモ親子はこの社で数年暮らした。

異国の血を引いているからであろうか、モモは他の子よりも体が大きく力も強かった。それもあってモモは六歳くらいの時に島の船大工の棟梁に預けられた。

棟梁の家は島の西側にある。社から歩いて三十分程度であろうか。

モモは社と棟梁の家をいったり来たりして気ままにどちらかで生活したが大きくなるにつれ社には泊まらなくなった。

社で寝起きしているのは女性ばかりであったのでモモは遠慮した、というか友達などにからかわれるのが嫌だったからである。


モモはオノコロの他の子と同じように育った。つまり農繁期には稲作を手伝い、暖かい日には丸木舟を漕いで海に潜って漁を行った。


母親はオノコロ島に漂着して三か月目くらいにはオノコロの日常会話を覚え、三年たつ頃にはかなり深い話題もオノコロ語で語れるようになった。

算木に通じ、また西方のしんの漢字の読み書きもできたので社の巫女たちに重宝がられた。

モモの母親は生い立ちなどをあまり語らなかったが、生まれは西域であり、西域の人と結婚した。夫の仕事はイランから中国に渡る交易商であった。

そのためモモの母親は中国に住むこともある。

夫とともに中国の秦のとある街に住居し郊外に買い物にでた時に戦乱に巻き込まれた。

買った果物と子供を連れて逃げに逃げて川に出て、そこにあった小舟に乗った。

そして流されて下流のオノコロ島にたどり着いたのである。


【日本へ】


南のえつと北のに挟まれたオノコロは両方に貢物をしたり、役務についたりしていたが、両属するような民族はいずれ滅ぼされる運命にある。

このころ楚と越の戦闘は激しさを増していた。つまりオノコロ人はこのままでいると滅亡するであろう。

それを避けるためにオノコロ人の指導一家であるオーオの若者、若オーオは新たなオノコロ人の逃亡先として日本を選んだ。

若オーオは九州に上陸しアスカに至ってこれらの土地がオノコロ人の居住に適していることを調査し、かなり理想的な土地であることを確認した。

モモはこの最初の調査に同じくらいの歳のウラとともに若オーオに同行した。


若オーオは心配性であった。楚から九州までは一日でたどり着く。

若オーオはその近さを恐れて、オノコロ人の居住先を九州と奈良南部のアスカに分けた。

アスカに至るには瀬戸内海を行くしかない。瀬戸内は難所で九州からアスカまではゆうに二月を要するので楚が九州に上陸してもすぐにはアスカに至れない。


オノコロ人はおよそ十年をかけてほぼ全員が日本に移住した。全員といっても四千人程度である。


若オーオの移住計画も慎重であった。

第一陣は二百名程度であったが、日本の各地に散在する原住民との争いを避けるため既婚家族でかつ犯罪歴のない者のみの移住とした。

既婚家族で犯罪歴のない者のみが移住適格者であるという決め事は遥かのちに台湾への農業移住や南米移住でもそうでる。明治後の海外移住にも二千年以上前の伝統が引き継がれたというのは思い込みであろうか。


ともかく第一陣の移住は既婚者に限られた。

若オーオはこの移住の数年前につれあいを亡くしていたのであらたに巫女のイセと結婚し、モモもまた巫女のカナと結婚した。


カナはモモと同じくらいの歳の子で、幼いころは体が弱かったので社に預けられて巫女となった。

モモと結婚するころは元気いっぱいの明るい子となっていた。

モモとの結婚は移住とは関係なしにカナ自身で数年前に勝手に決めていた。モモの身寄りは母親だけであったし、特に反対する人もいないのですんなりと一緒になった。


【瀬戸内】


若オーオの指示により第一陣の二百名はツクシノシマに移住した。

また翌年にも新たにオノコロ人が数百人オノコロ島から移住してきた。

ツクシノシマ(九州)のオノコロ人の取りまとめは、若オーオの兄である「兄オーオ」に任せ、若オーオは百名ほどを引き連れてアスカに移動した。


九州からアスカに至るには瀬戸内を航海するが潮の流れが頻繁に変わるのでよほどうまくいっても一月以上はかかる。通常は二か月以上かかる。

瀬戸内は自然の要害である。


オノコロ人を大まかに九州とアスカとに分けて住まわせたが瀬戸内の交通を確保するのが若オーオの宿題となった。

慎重な若オーオは不便極まりないアスカを捨てる気はなかった。

あくまでもアスカをオノコロの本拠地としたかった。

大陸の強国が九州を攻めようとすればわずか一日で大陸から渡ることができる。

アスカをオノコロの本拠地としたならば如何になどの強国が攻めてこようともオノコロ族が滅びることはないだろう。


ただ、瀬戸内のわけのわからない海流をしっかり把握する必要はあった。


若オーオはその任にモモを就かせた。


モモとモモの若い嫁であるカナは九州上陸の翌年から瀬戸内航路の開発に携わった。

モモは十六歳であった。カナの歳もまたそれくらいであった。


【周防灘】


オノコロ人の九州上陸拠点は佐賀県北部の呼子である。

呼子から東に向かうと博多に出る。さらに東に峠を越えると飯塚であり、また峠を越えて田川に至る。さらに東に峠を越えるととよに着く。

飯塚、田川、豊などいかにも稲作の適地の名称である。

当時は別の地名であった。


豊は今の行橋市で海から離れているがこのころ(紀元前四百五十年前)は海に面していた。


モモとカナ、モモの母親それに加えて約十人程度のオノコロ人はこの豊に入植した。

目の前には干潟があり、瀬戸内の西端の周防灘すおうなだが広がる。

稲作には適しているが潜水漁に適する海からは遠かった。


カナはこのとよやしろを作った。

社は今の総合庁舎のようなものである。集落の出来事を記録する。毎日の天気も記録する。

コメの取れ高とか、どこで子供が生まれたとかそういったことも記録する。

また薬も常備していた。

集落ごとに社は作られたが特に重要な社は備蓄庫も兼務していた。


カナは鳥居も作った。鳥居は海のうねりやそのほかを観測するための器具である。

鳥居の上桟と下桟、柱で区切られた空間を通して海を眺める。

大切なのはこの空間に見えるうねりの数と大きさであった。

台風が近づくとうねりが大きくなり波長は短くなる。これは上海あたりにあったオノコロ島では台風予想の有効な観測手段であったが日本ではあまり役に立たなかった。

台風は南からも東からも西からもやってきた。

それで、鳥居は観測器具という本来の役割よりもむしろそこに社があるという目印として機能し始める。特に、縄文人があちらこちらの鳥居を朱に塗りはじめるころには観測器具としての役割を終えていた。


モモは海が荒れていない限り毎日海に出て海流を記録していった。

周防灘の流れは大潮や小潮で北上したり南下したりする。時刻によっても異なる。

その記録をカナが丹念に木片にまとめる。


モモもカナも自分より若い人を数人いつも連れていた。

豊にいるのは一年程度で、その後モモとカナは場所を変えて航路開発をする。

豊の潮流が一年でわかるわけではないが、次々に観測場所を変えていかないとアスカまでの航路は開けない。

以後の観測はより若いものに託して次の場所に移動するのである。


【島々】


モモは豊を皮切りに五十歳で亡くなるまで瀬戸内航路を開発していった。

カナはモモから離れずについていったがモモより十年ほど早くなくなった。

それでもこの当時の寿命が三十年程度であることを考えると長生きの部類に入る。


自分の子や、オノコロ島からの移住者、日本生まれのオノコロ人、それに原日本人である縄文人の子たちを弟子としてモモとカナは航路を開いていった。


モモの母親は若オーオに乞われて日本に来て数年後にはアスカに住むようになった。

モモの母親は知識人であったので若オーオは手元に置いておきたかったのである。

オノコロ人として初めて日本に上陸したのは若オーオとモモと、モモと多分同い年のウラであった。

ウラは日本上陸後冒険家のように日本や大陸をきままに旅した。

そして日本上陸から五年後には長江上流の武漢ちかくでモモの父親と出会った。

モモの父親はモモとモモの母親が元気に日本で暮らしていることに感嘆した。

モモには三歳年上の姉がいたが、夫を混乱で亡くしていた。

モモの父親はこの娘をウラの嫁として、日本の母親のもとに連れて行くようにウラに頼んだ。

そういう出来事があってモモの姉もアスカに住むようになった。


モモは九州北部のとよからアスカまでの海路を構築した。

舟であれば豊からアスカまでおよそ五十日程度かかる。つまり五十カ所の港が必要である。

これらの港の大半を築いた。

港ごとに社があった。

社には鳥居があり、朱に彩られて、海からもよく見えた。


やがて若オーオはこの港々を管理する水先案内人に銅剣をあてがった。銅矛どうほこでもよかったが銅矛は大きすぎて舟では使い物にならいと思って若オーオは銅剣を与えたのである。

不審者が瀬戸内を航海した場合は打ち取れとの意味が込められていたが、瀬戸内はおろか九州に上陸してくる異民族の軍隊はいなかった。

銅剣は単なる飾りとなったが若オーオはそれを喜んだに違いない。


モモは若い晩年を瀬戸内のおよそ中心である岡山付近に住んだ。

岡山を拠点として死ぬまで海路開発に携わった。


以上

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