0-00『化け物』
「はぁッ、はぁッ!」
あと数十分で日が暮れようとしている中、一人の男が必死に走り回っている。
その男の顔に浮かぶのは、焦りか、怒りか。
彼が走り回っているのは、家で誰かが待っているから、日が暮れそうだからなどという理由ではない。
では彼は何のためにこんなにも必死に走り回っているのか。それは――、
「がァアア!!!!!」
――後ろから、この森に棲む魔獣、グルガが迫ってきているからだ。
「ちィッ!!」
躓いたせいで距離が詰まり、護身用にと服の内側に入れておいた魔石を後方へと投擲することになった男。
結構な値段の魔石のため、投げた直後に若干の後悔が脳内を過ぎるも、その数瞬後に起きた爆発を確認し、その後悔を完全に思考の外に追い出す。
「――――!!」
後方から、グルガの耳を劈くような断末魔の叫びが轟いた。
前に友人から話は聞いていたが、実際に聞いてみると本当に気色悪い叫びだ。と、男はこの状況に似合わぬ冷静な感想を抱く。
そして男は、近くの丁度よい高さの石に腰掛け、「ふぅ⋯⋯」と一息ついた。
この周辺に縄張りを持つ大型犬の魔獣、グルガ。
それの危険度自体はさほどないが、問題なのはその死ぬ間際に出す声だ。
命を落とす際に、十数名の男女を同時に絞め殺したような声が出る。
それだけならただ不快感を覚えるだけで済むのだが、グルガのそれには、もう一つ、男が忘れている、人間にとってとても嫌な点がある。
それは――、
「「ぐるァァアアアアア!!!」」
――その断末魔の叫びによって、他のグルガが呼び寄せられてしまうという点だ。
「嘘……」
二十メートルほど先に出現した二体のグルガに、男はただただそう呟くことしかできない。
先程の一体は魔石でどうにか対処することに成功したが、焦りから手持ちの魔石全てを投げてしまったため、彼の手元にはもう魔石は一つも存在しないのだ。
――あの時もう少し冷静に判断できていれば……いや、魔獣が出てきても逃げればいいなんて思わずに魔導具を持ってきていれば……
思考の外に追い出した後悔が、何倍にも膨れ上がって男のもとにやってくる。
あと数秒もしたらただの肉片と化すことは分かっているが、だからと言って思考を放棄して己の体を差し出すほど男はお人好しではない。
何かこの状況を打開できるものはないかと思考を巡らせるが、グルガはこの森に数十匹は確認されている上に、同族の叫びによって呼び寄せられる為、そもそも縄張りに入ってしまった時点で男はグルガの餌となることは確定していた。
「「――――!!」」
男の諦観した表情に気付いたのか、二匹のグルガが彼を食い千切らんと走ってくる。
これ以上足掻くのも無駄だろうと、さすがの男も思考を放棄し、ただ死を受け入れるだけの存在と化した。
十九メートル、十八メートル、十七メートル、十六メートル……
凶悪な面を更に凶悪に染めながら、段々と近づいてくるグルガ。
「――――ッ!?」
その威圧感に恐怖し、目を瞑ろうとしたその瞬間、男の視界に十歳前後の少年が映り込んだ。
それに警戒したのか、グルガが歩みを止める。
「そっちに行っちゃダメだ!!」
先程までの恐怖を忘れ、男は全力でその少年に向かって叫んだ。
見知らぬ少年だ。見捨てても男には何の関係もないし、彼がグルガの餌食となっても数日で忘れるだろう。
だが、彼を見捨てて逃げたとしても、ここが森のどの位置か把握できてない以上、男が生還する確率は低い。
そして何より、このままでは死ぬことが確定している子供を見殺しにすることは、この男にはできなかった。
だが――、
「咄嗟に叫んだと思うけど、俺が今逃げてもその数秒後にはこいつらの餌になってると思うぞ?」
「――――は」
――男の必死の叫びは、血も、心までもが凍りそうな、呆れや侮蔑の念が込められているであろうひどく冷たい声によって、あっさりと切り捨てられた。
男の心中が困惑一色に埋め尽くされる。
何故この少年は急に現れたのか。何故こんなにも冷静なのか。そして、彼から微かに感じるこの悍ましい雰囲気は何なのか。
その疑問は、男がそう思考を巡らせた直後、少年によって、解答が示されることになる。
「ヴァラム」
少年が片腕を突き出してそう呟くと、二体のグルガの体が宙に浮き、断末魔の叫びをあげる間もなく、一瞬にして切り刻まれた。
そして、大量の血を流しながら落下するグルガの死骸は、地面に着地すると同時に、ただの肉塊と化した。
「――――」
目の前で行われた所業に、男は何一つ言葉を発することができないでいる。
――化け物。
この少年を表すならば、その単語が最も適当だろう。
と、その化け物が、男の方を向き、困惑したような表情で、
「助けた相手にお礼を言うって文化がない世界なのか……?」
そう呟いた。