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短編小説

冷たい、東京の夜

作者: 虹色 七音

『ころん・れいき・らっきー』で三題噺です。

 鳥肌の立つ感覚が人のいないことを感じさせてくれて、それだけが、今この場で好ましい。

 今日のラッキーは使い切ってしまったらしく、はりつくほど冷たい金属扉はがたがたなるばっかりで開く様子はない。今日はラッキーデーだったと思うんだけど、失くしていたお守りが見つかって、上司の機嫌が妙に好くて、ジュースの自販機では当たりが出て、ひょんなことで前から気になっていたコロンをただで手に入れられた。そんなにラッキーだったから、きっと今日のラッキーは使い切ってしまったのだ。

 バッグの中には仕事のためのあれやこれやに沈んで、貰ったコロンが入っている。

 たぶん、今日一番のラッキー。

 これを貰えなかったら、東京の夜でこんなみじめな思いをしなくて済んだのだろうか。溜息を吐くと、白くなって流れていった。東京でも、こんなにも一人なことがあるんだと思うと、こんな形では知りたくなかったと涙がこぼれそうになってくる。

 もういっそ誰も見てもいないし、いっそ、泣いてしまおうかと思う。

 一粒流れると抑えきれない悲しみが暴れ出して、あわてて、涙をぬぐった。それでもこぼれてきてしまいそうで、泣かないように、泣かないように、ぎゅっとバッグで顔を抑える。

 しばらくそうしていると、体の芯の方まで東京の冷気が沁み入る。

 冬の東京で凍死する。冗談にもならない現実味が嫌だった。早く家に帰って、ストーブでめいっぱい温まりたい。大きな犬でも抱きしめて、温められたい。

 ……犬か。ふと思う。

 セーラー服を着ていた頃だったら、猫だと言っていた。一人が嫌いで人間が好きだった私なら、そもそもこんなことにならなかったかもしれない。根拠はないけれど、確信している。

 あのエロ親父さえいなければ、今も……つい思い出してしまうと、悪寒に全身で嫌な鳥肌が立つ。ずっと思い出さないようにしていたのに。きっと、今日一番のアンラッキーだ。

 あの顔が、声が、私に立ち入る感覚が嫌で嫌でどうしようもなく、せめて気を紛らすように鉄扉をけとばす。

 がしゃんと音がなって、鉄扉は開かない。

 閉じた勢いでかかってしまう程度の鍵のくせに、まるで開くそぶりはない。その様子がどこか、またかつてのあの上司を思い起こさせて、追い詰められるようなあの感覚にまたおそわれる。

 ここにあの人はいない、もういないと思っても、速くなる息がおさまらない。嫌いでもなかった東京の冷気がすべてあの人の息に変わってしまったみたいに気持ち悪い。

 深呼吸をして頭や心臓を冷やす。でも、心に貼りついた嫌な感じが消えないままだ。「くそっ、くそ!」とぼやきながら鉄扉を何度もける。鉄扉が開く様子はない。何かに負けたような気持に責めたてられて、がたがたなる鉄扉を繰り返したたく。

 開かない鉄扉に、なんだか泣きたくなってくる。

 前の私なら、泣かない。泣かなかった。そうに決まってる。

 でも。

「私もう〝私〟じゃないから!」

 前の私はきっと、あの男に殺された。

 そう思ってしまうと、叫ぶと、もう泣きだしてしまった。心が痛い。遅れて涙をぬぐおうとしても、手の平を抜け出してこぼれてきて、止まらなくなってしまう。

 もういやだった。こんな自分も、今日も。

 今日はラッキーデーだったはずだ。こんなになったのは、コロンを貰えてしまったせいだ。コロンさえ受け取らなければ。そんなことを思わされてしまうのが、とても嫌だ。今日はラッキーデーだったはずなのに。

 コロンを貰えて、素直に嬉しかったのに。

 悔しくて、やりきれなくて、バッグを振り上げる。

 がしゃんと鉄扉がなった後、何も聞こえなくて、やるせなくて、拳すらもうにぎれない。

 心のなにかを無くしたみたいに虚無があって、涙を流すのにさえつかれた。

 鉄扉にもたれかかる体には、力が入らない。

 このまま冷たさに溶けてしまって、東京の冷気にでもなってしまいたい。

 そんな思いをふかしていると、ふいに鼻につんとくる匂いに気付く。コロンの匂いだ。あわててバッグの中に手を突っ込む。中からはもっと強くそれが匂ってくる。

 刺すような痛みが指先に走って、とっさに手を引っ込める。

 指からは血がにじんでいる。

 バッグの口を開いて中を確認すると、もう分かってはいたけれど、割れた容器がコロンでぐしょぐしょになった仕事道具の中に落ちている。

 コロンを貰えて、嬉しかったのに。

 涙はもうでない。

 初めて入った会社で上司の男からひどいセクハラを受けて、私は人が苦手になった。少しずつ、友達が減っていった。だから今日コロンを貰えた時、それそのもの以上に、独りじゃないと思えたことが嬉しかったのに。

 今は一人が好きだけど、いつまでだって独りは嫌いだ。

 ラッキーデーって何だったのだろう。コロンももうなくなってしまった。バッグの中には充電のなくなったスマートフォン。開かない鉄扉。体の下のアスファルトは、人を忘れたように冷たい。強いコロンの匂いが、鼻をつく。

 本人はミスで二つ入ったからだと、そう言っていたけれど、実際そうなのだけれど。嬉しかったのに。

 このまま寝てしまえば、冬の東京で死ぬのだろうか。東京の冷気に溶けるなら、それでも悪くないように思える。冷気は一人を教えてくれる。一人には、敵もいない。

 背後で金属音がする。

「なにしてんの、あんた」

 ぽろ、と冷たいものを落とした気がした。

 振り返ると背後には、もう分かってはいたけれど、コロンをくれた同僚がいた。

「なにしてんのってば。おーい、大丈夫かー?」

「……なんで、ここが」

「これはこっちが聞きたいけど……」

 彼女は手をさし伸ばして、冷たいアスファルトにへたりこんでいた私を助け起こしてくれる。

「なんか聞こえるから気になって来てみたらすんごい匂いするし。この匂い、私があげたのと同じやつだよね」

「……正しく、それです」

「あー、割っちゃったか。んで、どーしたん?」

 自分の渡したものを壊されたことも流して私を気遣ってくれる彼女に、少し、また泣きそうになる。

「会社から駅のところで不良にからまれて、逃げたらそれで、これ閉めたらその勢いで……」

「それで閉じ込められちゃったと。馬鹿みたいね、あんた。スマホは?」

「充電切れで……」

「モバイルバッテリー」

「家……」

 ずけずけとものをいう彼女は一人が好きな、猫のような人だ。前の私なら、少し苦手な方だった。

 前の私との違いに、今の私も生きている人だなと漠然と思う。当たり前のことが意外だ。

「駅まで同じだよね。一緒に行こうか」

「あ、はい。でも、」

「くさいとか、目が真っ赤なの、別に気にしないよ。そこまで薄情じゃないし」

 それから、私は落ちつくのに少しかかったけど、彼女は待っていてくれた。駅まで歩いて行くとき、コロンの強い匂いに通行人が嫌な視線を向けてくるけれど、彼女は気付かないふりをした。それとも、本当に気にならなかっただけかもしれない。人がいても一人でいられるのは凄いことだ。

 落ちついた私は東京の冷気にさらされた。鳥肌の立つ感覚が、心地好い。

「コロン欲しがってたのに、無くなっちゃったわね」

「嬉しかったんですけどねー」

「そう? じゃあ、あげようか」

「え、いや、そんな、悪いですよ」

「いいよ別に、気にしないで。せっかくだし、プレゼント」

 コロンの強い匂いが、冷たい風にゆれる。

「じゃあ……ありがとう」

 今日はラッキーデーだ。

 コロンが手に入った。

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