3
もう何度目になるのか分からない溜息が右隣から聞こえた。
原因なんか分かりきっていて、でも流石に無視できなくなってきたから、舞依は声をかけた。
「どうしたの」
「お母さんがね」
「うん」
「しつこくて」
平坦な声で告げられたのは、予想通りの内容だった。そう、と答えて、文庫本から顔を上げる。向かいの車窓越しに、鉛色に沈む海と白いだけの空が流れていく。
「鈴はさ、どの季節の海が一番好き?」
「何それ」
「夏の特権みたいなとこあるじゃん、海のイメージって。でも春にも秋にも冬にも海ってそこにあり続ける訳で。みんなが夏の海にばっか魅かれてるって前提を一回疑ってみようと思った」
「ほーん」
電車の振動に合わせて、吊り革が揺れる。車両はがら空きで、がたことという物音の他に、二人の声だけが音を立てていた。
「冬、かな」
しばらくの間の後、鈴が呟く。
「夏の海は眩しすぎるし、春も秋も上手く海と結びつかない」
だから舞依の考え方は結構ビンゴ、と間延びした声で続けた。
「良かった」
「舞依はどーなの」
「私も冬かな」
「仲間だ。その心は?」
少し考えながら、口の中でゆっくり言葉を転がす。
「色んなことが許される気がするから」
海は相変わらず、重い色のまま横たわっている。
「青い色をしていなくても。隣にあるのが真っ白い砂浜じゃなくても。波が強くても弱くても。空が晴れていなくても」
転がしていくうちに、言葉は自分に馴染んでいった。
「一人でいても。全てを放り出しても。自分の日常に帰らなくても」
許される気がする。
なるほどね、と鈴が言った。うん、と返して、舞依は再び文庫本に目を落とした。