プロローグ 《竜玉》 ~九~
会議室というものはそれが大企業であれ役所であれ、内装に大きな違いはない。
もちろん国際的な大企業ともなれば、ドラマに出てくるような豪華な部屋もあるようだが、臨時的に設置されたばかりの秘蹟協議会の常城支部の会議室は、倒産して手入れが行き届かなくなった中小企業のそれと比較しても遜色ないくらいに、こじんまりとして小汚いものだ。
元はOA化もしていない物置に机やボードを持ち込んで体裁を整えただけなので、仕方がない一面もある。
いい加減LDEに換えろと言いたくなる蛍光灯の光を一枚の写真が反射する。学生服姿の新堂美晴の写真が年季の入ったホワイトボードに貼られ、支部長の丹藤が手に持った死体検案書に何度も視線を落としていた。
秘蹟協議会は神秘や幻想がかかわる事件事故を扱う機関であり、荒事も多い。地域の治安機関との繋がりは太く、特に原因不明――現行の科学や常識では判断できないような案件は頻繁に持ち込まれるのである。
元々、秘蹟協議会が積極的に活動するときは、明るい雰囲気とはお近付きになれなくなるものだ。しかし今日ばかりは、常よりも空気の重さは増していた。
腕を組む芝耕助の両目には沈痛の色も濃い。
「被害者の新堂美晴は、なにか、巨大な獣に襲われたかのように鋭い爪で殺されていたとのことですが、動物園や研究機関を確認したが逃走しているケースはありません。一般家庭についても確認は済んでいます。無許可で飼育されている大型肉食獣が逃走した可能性を警察は考えていますが……どうでしょうね、これは」
「支部長の考えは違うのかい?」
コーヒーを片手に質問した石塚は現場一筋のベテランで、支部長の丹藤よりもキャリアは長い。
神秘がもたらした事件にまきこまれたことで、十五歳で秘蹟協議会に入り、十六歳で衛士として現場に出る許可を得、以後は現場一筋で生きてきた人物だ。細かい作業は苦手だと公言し、書類一つ作るのにも四苦八苦する反面、高い戦闘力と実戦経験を持っていることから、これまでにもあちこちの支部に応援要員として出張っている。
国内各支部を統括する日本支局からも、戦技教導官として呼び出されることもあるほどだ。支部長就任の打診を何度も受け、その度に、現場で犯人と戦っている方が気楽だ、と言って断っている武闘派で、今回も応援で常城市に入っている。
「市警察内部でも異論を持っている人はいますよ。新堂美晴の死体には爪で裂かれた傷はあっても、噛まれた痕がない。単純に獣とは考えられんでしょう。警察とは別にこっちも調査を開始します。最悪、衝突になることも覚悟しておく必要が」
「衝突? そいつは久しぶりだな」
不謹慎とわかっていながらも、石塚は好戦的な笑みが浮かぶのを抑えられない。犯人を撃つ機会を求めて警察官になるケースはあるらしいが、石塚もそれと似たタイプであることは周知の事実だ。
「戦闘力の行使は最低限にしていただきたいですね」
後頭部を掻きながらパイプ椅子から立ち上がる芝は二十代半ば。日本国内の支部を事務職としてあちこち渡り歩いてきた人物で、半年前に衛士の資格を得たばかりだ。
秘蹟協議会において芝のようなケースは決して珍しいものではない。神秘や幻想に最前線でかかわることは、大きな危険を伴う。大怪我はもとより、死ぬことさえもよくあることだ。銃犯罪の多いアメリカの警察よりも殉職率は高い。
同僚が危険な任務に、まさに命がけで従事しているのを毎日、目の当たりにし、見送るだけの立場に、無力感を抱く事務方は多くいる。それが友情であるにせよ恋愛感情であるにせよ、一方が現場に、他方が事務であると、事務の側がどうにかして同僚の力になろうと、衛士へ移ることを訴え出るものが後を絶たない。
ただし希望したからといって、誰もが移ることなどできるはずもないのだ。神秘や幻想が巻き起こす事件は、一般社会の犯罪よりも遥かに危険度が高く、覚悟や心構えだけでは足手まとい以外のものにはなりえない。
最低でも二年に亘る厳しい訓練を経なければならず、落伍者も少なくない数が出る。芝は三度の落第を乗り越えて衛士になった稀なケースなのだ。
「バックアップは任せてください」
支部の事務方トップに任命されている内田が力強く口にした。三十代の彼女もかつては前線で活躍していたが、ある任務で右足と左目を失い、以後は事務に回って前線を支えている。前線に戻れないことを知った直後はかなり荒れ、同僚や友人の接触も断ったほどだった。
突き付けられた現実を前に内田は強く怒り、嘆き、数か月の時間をかけて受け入れた。失ってしまったものを嘆いてばかりいるわけにはいかない、と。
内田が非生産的な感情に振り回されている間にも、事件は起きる。事実として、サポートする側の力量が足りずに、現場が混乱する事態が起きていた。このときは死者こそ出なかったものの、内田と長らく組んでいた衛士が全治二か月の傷を負っている。これは豊富な経験を持つ内田なら、違和感を受ける事例だった。違和感を言語化し、助言を出すことができていれば、避けることのできるケガだったのだ。
幸いにして怪我を負った職員は復帰することができたが、内田は自分が部屋に籠って腐っている間に起きた事実に衝撃を受け、その場で事務方に入ることを決めた。数か月単位を要する研修の数々をごく短時間で修めた彼女は、常城支部になくてはならない存在である。賄いとして職員の食事を作ってくれるという意味でも。
「市警上層部には話を通してあるから、石塚さんは何人か見繕って現場に向かうように。芝君は市警に行って詳しい話を聞いて来てくれるかい。内田さんは情報の整理と分析をお願い。全員、今すぐかかってくれ」
丹藤支部長の命令のもと、支部が一斉に動き出す。彼らは事件解決に向けて動き出し、支部長の丹藤だけは別のことのために動く。市警に向かう必要があった。
常城市警察部は、市内にある十二の警察署を統括する。部長は山城警視正は無能ではないが凡庸な男として知られ、彼が部長であるうちは常城興産を追い詰めることはできない、との確信が市警内部では共有されていた。もちろん、山城警視正本人だけは知らない事実だが。
常城市役所近くにある市警中央署の正面入り口には、スーツ姿の青年が柱にもたれかかって、イライラした表情を見せていた。
「待たせたね、柳本君」
「別に、命令ですからね。それよりも……本当にこの事件がそんなに重要なんですか?」
柳本の目付きにも声にも態度にも、不審と不満が満ちている。柳本は市警期待の警察官だ。大学を優秀な成績で卒業し、柔道ではオリンピック代表候補にまでなったことがある。
今、常城市警が全力を挙げて取り組んでいるのが、市内全域に黒い影響力を持つのみならず、県境を越えて勢力を拡大しつつある暗黒街の実力者、緋桜和真の逮捕である。
緋桜和真が実質的なオーナーを務める第一常城興産をはじめ、緋桜和真とその一党を叩き潰すために、常城市警は全力を投じている――凡庸と名高い山城警視正は掛け声だけだが――真っ最中だ。
当然、柳本もこの捜査に先頭切って取り組んでいた。緋桜和真のせいでどれだけの人間が苦しんだことか。必ず叩き潰してやると決めて捜査に没頭し、麻薬に脅迫、傷害、殺人に至るまでいくつもの状況証拠を積み重ねてきた。つい先日、決定打になりそうな証人を見つけることができ、「これで奴の息の根を止めてやる」と鼻息を荒くしたまさにそのタイミングで、丹藤に協力するよう命令を下されたのである。
幼稚園に上がったばかりの息子の世話もロクにしない、家にも寄り付かない、などと嫁に実父母に義父母から多くの苦言を呈されながらも、ようやく、もうあと一息、といったところに辿り着くや否や、別の場所に回されたとあっては腹も立とうというものだ。
丹藤としても、形式上は部下の柳本の気持ちはわかる。わかるからといって「じゃあ帰っていいよ」とは言えない。ボリボリと後頭部を掻く。
「重要だよ。殺人と、それに、きっとこれは密輸だ」
「緋桜和真がかかわっているのですか?」
「そいつはわからんがね」
「ちっ」
柳本の態度は上司に対するものではなかったが、特に丹藤は咎めなかった。
「そう不貞腐れるんじゃないよ。こっちをさっさと片付けてしまえば、君も元の捜査に戻れるだろう。決まったことに文句言ってる暇があるんなら、足を動かしなよ」
「わかってますよ!」
丹藤と柳本は連れ立って警察署を後にする。建物の外、太陽の光に思わず目をしかめる丹藤。完成から数十年を経て老朽化の目立つ建物を振り返ると、警察官募集の垂れ幕が目に入った。