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プロローグ 《竜玉》 ~七~

「は、ふぅっ、はぁ、ぁ、っ」


 自転車のハンドルを握る九郎の息は乱れていた。


 こんな時間に小学生が外に出ていること自体が問題だが、少しコンビニに出かけるくらいは許されるだろう。そう考えて、叔父の家を出たのだ。それから十分ばかり。コンビニで立ち読みをして、鶏のから揚げを一パック購入して、真っ直ぐに家に帰らずに少し自転車を走らせた。


 昼間とは違う感じがする夜の街を走るのは、九郎の心に小さな高揚感を与えてくれる。


 そのとき。


 九郎は人通りが少なく、街灯が切れている道の奥から、短い、だが普通ではない声を聞いた。あまりにも短い声は記憶とも結びつかない。顔を見たわけではない。だが聞こえてしまった以上は、無視するなんて選択肢を九郎は持っていなかった。


 慎重に。いや、恐る恐るといった感じで暗闇の中を進み、そして見知った顔を見つける。新堂美晴が何者かに襲われていたのだ。


 痴漢や変質者の類ではない。強盗でもない。小学生の目から見ても明らかに、どぎつい殺意に塗れている。


 なんとかしないと。


 咄嗟に九郎が思ったことだ。自己の安全を図ることではなく、新堂美晴を助けることに意識が傾いたのである。


 なにかないか?


 どうやって助ける?


 今あるのは?


 わずかな時間の内に九郎の中をいくつもの考えが浮かんでは消える。いずれも決定打に欠け、本当に助けられるかどうかわからない。頭の中の考えがまとまらないでいると、九郎は自分の手が握るものに気付いた。


 自転車のハンドルだ。気付いたときには、力いっぱいペダルを漕いでいた。最高速に到達していたかはわからない。わかるのは、叫び声も上げずに突進し、新堂美晴を無造作に掴む影に衝突したことだ。ぶつかった拍子に九郎も宙に投げ出されるが、暗い空中に放り出されながらも、九郎は加害者が受け身も取れずに地面に転がったのを確認した。


 九郎も地面を転がり、あちこちに擦り傷と打ち身を負ったがすぐに立ち上がる。


「美晴姉さん!」


 加害者の手を離れた美晴は地面に倒れ込んでいる。九郎が何度も呼びかけるが反応がない。最悪の考えが九郎の頭をよぎり、


「……ぅ」


 ほんのわずか、美晴から漏れる声に心から安堵した。同時に九郎の意識のすべてが美晴に向けられてしまい、周囲への、特に美晴を襲った相手への警戒も薄くなってしまう。


 いや、仮に警戒を最大限にしていたところで、九郎にはどうしようもなかった。唸り声を投げて立ち上がった男が、乱暴な前蹴りを九郎に見舞ったのだ。蹴られた、という認識すら追いつかず、九郎は固いアスファルトの上を転がる。


「っは!」


 転がった拍子に地面に頭をぶつけ、切れた額から溢れ出た血が九郎の右側の視界を赤く染めていく。無事な左目の先では、濁った空気を纏う男の足が見えた。


「ヒーロー気取りかクソガキが」

「……ヒーローなんてものに憧れるのは、とっくにやめたよ」

「けっ」


 九郎を蹴った足先で、今度は軽くアスファルトを蹴りながら男は歪んだ笑みを浮かべる。


「せっかくの楽しみを邪魔しやがって。これからだってときに。けど、いいぜぇ。おれは優しいからな……丁寧に全身に刻み込んでやるから、せいぜいのたうち回れよ」


 男は優越感と愉悦に満ちた笑い声を上げると、異形の爪ではないほうの手を握り込んだ。一思いに殺すような真似はせず、できるだけ時間をかけて楽しもうという意思がありありと浮かんでいる。


 格闘技の経験などない素人の、だが加虐の意思ばかりが濃縮された拳が振り下ろされた。


 回避は無理だと判断した九郎は腕を交叉して防御を選ぶが、九郎の腹にめり込んだのは男の足先だった。鈍い音が響く度、九郎の口から短い呻き声がこぼれる。四発目の殴打音が夜の空間に広がり、続いたのは呻き声ではなく、なにかが地面に落ち、何度も転がる音だった。


 男は小さく舌打ちをする。間抜けなヒーロー気取りのクソガキは薄暗い路地の奥にまで転がってしまい、薄暗い闇の底に呑まれて姿が見えなくなった。


 どうするか。圧倒的強者の立場にある男の目には、思考の痕がある。深刻でもなく、重要でもなく、人のためにもならない、浮薄で独善的な思考の痕が。


 男は躊躇することなく闇の中に足を進める。一歩二歩ではなにも見えず、三歩目で闇の中に蹲る小さな体を見つけた。か細い呻き声が男の聴覚神経を撫で、口が大きく吊り上がる。五歩目になると、暗闇の中から自分を見上げてくる子供の姿が見えた。その目には恐怖があり、


 だというのに、恐怖以上に強い怒りが宿っている。


「くそが」


 男の感情は著しく傷ついた。恐怖に怯えて、涙と涎と悲鳴を垂れ流すべきなのに、こんな不愉快な目付きで睨み付けてくるとは。


 決めた。


 あの目はこの世にあってはならない。正しいものの見方ができないのなら、抉るか潰すか、いずれかをしてやるべきだろう。異形の巨大な爪が音を立てた。


 凶悪な爪が九郎の眼前にまで迫る。九郎が目を閉じなかったのは、恐怖に打ち勝ったからか、はたまた目を閉じることすらできぬ速度の攻撃だったのか。巨大な爪が九郎の眼球を襲う。目撃を許さぬという意図であり、同時に眼球の奥にある脳幹をも破壊する。その速度と殺意を前に、九郎に反応できはずもない。爪の先端は九郎の眼球――


 バチィッ。


 ――を覆う涙の膜に触れたところで凄まじい衝撃でもって弾き飛ばされた。九郎は青い光に包まれていた。


 なんだこの光は。


 咄嗟に考えた九郎は周囲を見回し、数秒の後に遂に光の発生源を突き止める。九郎だ。九郎自身から光が発せられているのである。


 胸元にある青玉が――――


「っっ!」


 青い石は、どういうわけか真紅に輝いていた。煮えたぎるマグマような赤光を発している。輝きの一部が九郎の目の前に収束し、赤く輝く玉となって漂う。まるで、九郎を誘うように。


 ――――力が欲しいか? 大事な人を守れる力が欲しいか?


 そう、囁くように、赤い輝きは微かに明滅する。


 九郎は、力は力でしかないことを理解している。両親を奪った力は圧倒的なものだった。振るい方によって、もたらされる結果がまったく逆に向くことがありうることだと、身に染みて知っている。囁きを受け入れたところで、得られるのは力だけ。


 いかなる結果、九郎が望む結果を引き寄せられるかどうかは、つまるところ九郎自身にかかっている。


 輝く赤玉。それはまるで、楽園の蛇の目めいて見えた。人の始祖を堕落させた蛇の目を思わせる真紅の輝きに、だが九郎は、


「欲しいに、決まってるだろ!」


 微塵の逡巡も見せずに応じた。同時、


「っ――――あぁ!」


 九郎の体内に強烈な熱が生まれる。内側から沸騰してしまうのではないか。それほどの熱が全身を駆け巡る。


 無意識に大きく開けられた口からは、苦痛のあまり空気が吐き出されるばかりで、吸い込むことができていない。


 鼓動が加速する。


 急激な加速は血管という血管に恐ろしいまでの負荷をかけ、視界が赤く染まっていく。


 自分が触れているはずのアスファルトの感触はとうに消え失せ、己と世界との境界が曖昧になる。


 激流のような熱量に晒されて、思考も意識も燃え溶けていく。


 ――――ぅ


「っっっ!?」


 僅かに残った人としての九郎を繋ぎとめる、細い細い糸。新堂美晴の声の微かな声が、燃え尽きた九郎の意識の燃えカスを形に変える。


 辛うじて、だが。


 助けないと。


 でも、どうやって?


 答えはわかりきっていた。


 相手を、殺す。


 殺意が熱に混じる。


 熱に溶かされた殺意が灼熱の刃となって、九郎の内側にあった鎖を断ち切った。


 地面が爆ぜる。人の形をした砲弾と化した九郎と、巨大な爪の男との距離が一瞬でゼロに。


 九郎の拳が突き出される。


 殺意の、いや衝動の塊となった一撃は、炸裂と同時にビル壁に巨大な穴をあけた。

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