プロローグ 《竜玉》 ~五~
「ばいばーい」「またねー」「あれ? 迎えは?」「遅れるってよ」「うー、腹減ったー」「コンビニで肉まんでも買って帰る?」「いや、ピザまんで」
口々に好き勝手なことを喋りながら、学生たちが建物の中から出てくる。彼ら彼女らはいずれも塾が終わったばかりの生徒たちだ。
この時間になるといつものことだが、塾周囲の道路には迎えに来た親の車が列をなして並んでいる。以前、住民からの苦情で注意が行われた直後には車の量も減り、時間と共に元の量に戻っていた。
塾からは送迎用のバスも出しているのだが、「どうして家の前に止まってくれないの」と自分勝手な要求をする親もいて、利用率はさして高くない。その内、また苦情が来ることだろう。
新堂美晴はというと、両親の迎えはなく、送迎バスも利用せず、すっかり夜の帳の降りた街中を、自転車を押して歩いていた。
夜遅くまで勉学に励んだ末、いざ帰宅の際には自転車がパンクしていたという事実は、美晴の精神を大いに落ち込ませる。「なんで!?」と頭に血が上ったのも一瞬、パンクしたものは仕方ないので、のんびり歩きながら考え事ができる、と頭を切り替えていた。
次の長期休暇の際の講習に申し込むべきかどうするかを考えながら自転車を押す。整備不良もあってライトも点滅している。パンクを修理するついでに、ライトの交換もしてもらおう。
将来の夢として獣医を希望する美晴には、学ばなければならないことが多い。理科系が苦手という弱点も克服する必要がある。なによりも四人きょうだいという家庭事情を鑑み、国公立に受からなければとの使命感も強い。
共働き家庭で、貧困層ではないものの扶養家族の人数からそこまでの余裕がないことは知っている。せめて塾代くらいは自分で出そうと、高校入学と同時にメイド喫茶でバイトも始めた。常城市は財源の豊かな自治体で、補助の類も充実しているが、美晴としては自分に回す金は弟妹に使ってほしいとの思いがあるのだ。
更に常城高校は公立校としては珍しく学生のバイトに寛容で、メイド喫茶という「いかがわしい」とされる場所での仕事も許容し、補導の対象からも彼女を外している。塾自体も、常城高校校長の知人が経営しているとあって、色々と頑張っている生徒には学費減免などの措置がある。美晴が学費半分で塾に通うことができているのも、この繋がりのおかげだ。
公私混同も甚だしいと思わなくもないが、美晴にとってはありがたい話である。バイト先のメイド喫茶も美晴の事情を斟酌してくれ、店が暇なときは勉強可になっているだけでなく、ドリンクまでOKだ。時給も高校生の仕事にしてはいいほうだ。
けれど甘え続けているわけにもいかないのも事実。考えることが多いなぁ、と美晴は近道に入る。自転車に乗っての帰宅コースだと時間がかかりすぎるので、普段は使わない道を選んだのである。
警察の犯人検挙率の低い常城市は、だが凶悪犯罪発生件数が元から低いため、治安が良いと判断されている。これまでの人生で事件などに巻き込まれたことはない。まさか自分が被害者になるわけがない。これらの考えを無意識のうちに総動員して、美晴は人通りも灯りも少ない道に入った。
尾けられている。
そう感じたのは、時間にしてわずか数分後のことだ。
最初は一つ二つだけの、こちらを伺うだけだった気配。数が増え、攻撃性すら感じられる無遠慮なものに変質するのに大して時間はかからなかった。
パンクしている自転車に跨って力の限り漕いで、ここから離れよう。決断と行動の間に時間差はほとんどなかった。惜しむらくは、それでも尚、遅かったことだ。
斜め後方から強い衝撃を受け、美晴の体は一瞬だけ宙に投げ出されていた。
「っ、ぁあ!」
三ヶ月前に補修工事が終わったばかりのアスファルトの上に背中から落ちて、美晴は肺の中から空気を失う。強く地面にぶつかった後には、美晴の全身には砂や石粒が付着し、顔や手には擦りむいた傷と出血があった。
「なん、なのよ……っ」
さすがにすぐには立ち上がれず、顔だけを上げるのが精一杯な状況で、美晴は腕を支えにどうにか上半身だけでも起こそうとする。通常なら街灯やビルの影が飛び込んでくるはずの美晴の視界に映ったのは、嗜虐心と優越感に満ちた下品な笑みを貼りつかせた男たちだった。
ただでさえ人通りも音も少ない通りからは、あらゆる雑踏が逃げ出すようにより静かになる。目立っているのは加速度的に荒くなっていく複数の呼吸音だ。
状況を確認するような真似はせず、美晴は弾けるように駆け出した。ここにいたら絶対にダメだ。脳を占める考えはこれ一つだけ。
美晴の考えは四歩分だけ成功し、五歩目で潰えた。後ろ襟を掴まれ、引きずり倒される。短い悲鳴は、空気中を五センチ進んだだけで消えた。より凶悪で下品な笑い声――それも複数により、数メートル以内の空間が埋め尽くされる。
「あっちゃー、捕まっちまったな、お姉ちゃん」
「ざーんねんでしたぁ。ま、こうなっちまったからには仕方ねえ。お互いに楽しんだほうがいいってもんだと思わねえか?」
「はーい、そう思いまーす」
「さんせーでぇす」
口々に自分勝手な、暴力的で一方的、性根同様に腐臭のする言葉を投げつけられ、美晴の顔は引きつったままで硬直してしまった。暴漢たちの中には、スマホのカメラを向けて動画を撮影しているクズまでいる。
腰が抜け、立ち上がることさえできずにいると、このことを知った暴漢たちに、下種そのものの笑みが張り付く。
自分がこれからどんな目に遭うのか。はっきりとイメージできるわけではないし、したくもないが、漠然とは分かってしまう。恐怖に見開かれた目からは涙がこぼれ出す。叫び声も鳴き声も悲痛な表情も流れる涙も、男たちの加虐性を昂進させる要素しかない。
そこに、
「――――」
真っ黒な、人影だった。夜のせいで正確な色が判別できず、黒や暗い系統の色であることしかわからなかったのだ。
他にわかったことといえば、色の濃いサングラスと大きなマスク、帽子で顔を隠していることと、季節感のまったくない分厚いコートを羽織っていることか。いや、体を隠そうとしているようにも見える。
「なんだぁ、てめえは? 正義の味方気取りかコラ」
せっかくのお楽しみを邪魔されたことに気分を害した暴漢たち、の一人が立ち上がり、粘りつくような口調で相手に近付く。眉を寄せ、敵意に満ちた目を、これでもかと黒い男の顔に接近させる。
膠着すること数秒、暴漢は右手を握り込んだ。鈍い音を立てて黒い男の左頬に暴漢の拳が突き刺さる。
「失せろ」
サングラスを飛ばすことにも失敗した一撃だが、暴漢の高圧的な声は暴力の有効性を信じ切っていた。一発殴りつけ、己の用件だけを手短に叩きつける。
気の弱い人間、いや普通の人間なら震えあがり逃げ出しただろう。暴漢もその結果を手繰り寄せることを信じて疑わず、しかし何十秒経っても黒い男は逃げ出さない。どころか、不気味な雰囲気がより増していく。
「こ、いつ……っ」
「っざけんなコラぁ!」
完全に暴漢たちのターゲットが美晴から黒い男に切り替わる。美晴を抑える男以外の暴漢たちは、怒声と暴力を振るい始めた。
殴る蹴るの鈍い音。死ぬかどうかはともかく、重傷を負うことは避けられない。またケガをしたところで一向に構わない。
ひたすら振るわれる暴力に、しかし黒い男は倒れなかった。
マスク越しでも容易に知れる気色の悪い笑みを浮かべ、一歩、暴漢たちに近付く。対して暴漢たちは五歩分以上の距離を離れた。
高揚していた暴漢たちの精神は、一瞬で得体の知れない相手への恐怖に取って代わる。
暴漢の一人が懐から携帯型の警棒を取り出すが、殴りかかることもできずに先端を黒い男に向けたまま立ち尽くすだけだ。




