第一章 《死天使の像》 ~二十四~
咆哮は九郎の肉体を作り替える。四肢だけではない。頭部も体幹も含む全身を変異させる。
「これはっっ!?」
全身変化は人を変異させる融合型の神秘の中でも、限られた数しか確認されていない。
全身変化を可能とする神秘を用いていることと、全身変化に至れるかどうかは別の問題だ。全身変化に耐えうるだけの体力や気力や素養がなければ、全身変化はできない。獣化に伴う強烈な破壊や殺戮といった獣性衝動に引きずられることなく、人の意識を保ったままとなるとさらに数は減る。
九郎はその極めて限られた少数派だ。燃え上がる炎のような赤い鬣と強靭な鱗と筋肉に包まれたその姿は、二足歩行のドラゴン――最強の幻想種が一瞬で出現する。
「一瞬で全身獣化とは!」
九郎の灼熱の眼光が黒翼を貫いた。その鋭さと強さたるや、百戦錬磨の黒翼の動きを僅かばかりだが抑え込むほどのものだ。
「この目で見てもにわかには信じられんな! 竜化した力が凄まじいとしか思っていなかったが、装備者自身もこれほどとはな!」
右腕を戻した黒翼が、腰を落とす。それこそ突撃槍で突撃をしようと試みる騎士のようだ。黒翼の左腕を覆うコートが巨大な盾状になる。本当に騎士を思わせる。竜退治は騎士の仕事だ、とでも言いたいのだろうか。
九郎と黒翼が同時に走る。九郎は戦闘訓練を積んでいる。本人の意思もあって、戦闘技能は着実に向上している。
ただし生身での話だ。
竜化状態での戦闘訓練は遅々として進んでいない。竜化時の力に振り回されるのだ。市庁舎屋上で見せたような大跳躍は可能でも、フェイントを織り交ぜるような戦い方はできない。故に、九郎は咆哮を上げて一直線に走る。
対する黒翼は黒い大盾の奥に身を隠したまま突進する。盾は平面ではなく、丸みを帯びていて、受け止めるよりも受け流すことができるように作られている。九郎の攻撃を凌ぎ、突撃槍の一撃を見舞うつもりなのは明白だ。
九郎は速度と体重、膂力の乗った渾身の右ストレートを放つ。掻い潜るなど考えもせず、只々正面からこれを叩き潰す。
拳は大盾とぶつかり、受け流すことなど許さぬとばかりに、一瞬で大盾を粉砕した。右拳で盾を奪った九郎は、体の捩りを利用して左拳を構えた。
砕けた盾の奥で黒翼は驚きに目を見開いている。だがさすがに黒翼は見開いているだけではない。意識を奪われたのは一瞬だけ。咆哮と共に突撃槍を繰り出す。
九郎の拳にはほとんど技術がない。熟練者なら打撃の軌道すら容易く読み取れる。だが速度と威力が尋常ではない。軌道を読めても、回避を許さぬだけの速度。かするだけでも肉を抉り命にまで届き得る。
攻性神秘どうしの激突。突撃槍とぶつかった竜の拳は、真正面から突撃槍を破壊する。突撃槍を破壊し、黒翼の右腕をも破壊した。
「ぐ、っっぁぁぁあああ!」
黒翼が肺の中にある空気をすべて吐き出す。次の瞬間、《黒翼》が更に伸びて黒翼の腕を覆う。応急的な止血処置であると同時に、新たな突撃槍となって戦闘力をも補う。
「なんて攻撃力だ」
ダメージは深刻であることを黒翼は悟っていた。補ったとはいえ黒翼は腕一本を失っている。戦闘継続は可能だが、そんなことよりも、肉体を失ったことによる身体バランスの喪失が大きい。
いくら代わりで埋めようと、慣れ親しんだ肉体の代わりにはなりえない。なったとしても時間がかかる。少なくとも、ここから逃走するまでに感覚を取り戻すことは不可能だ。戦闘形態を採って尚、九郎一人にこの様だ。戦闘力の差から考えても、勝利できる可能性は限りなく低い。
しかも、この場所には執行の槍もいる。次期十二神将とも目される万城目椿は確実に九郎よりも強い。となると、いかに離脱するかを考えなければならない。四肢を失っても《黒翼》の効果があるなら移動はできる。四肢を切り捨てるくらいは覚悟したとき、
「っ!」
黒翼は視界のどこにも椿がいないことに気付く。どこだ。黒翼のコートが脈打ち、バラバラと数十本の枝にわかれる。《黒翼》の感知型、周囲の空気の流れや体温を察知するための形態だ。
黒い触手が広がるのを見た九郎は両前腕から刃を生やす。九郎は二メートル近くにまで伸長した鱗刃を振るう。《黒翼》の防御がどれだけのものかはともかく、九郎の振るう鱗刃は黒い触手をわけなく薙いでいく。
装備型の神秘の中でも、椿の持つ銀槍やこの《黒翼》は、強い自己修復力を持つ。多少の破壊程度では瞬く間に元の姿を取り戻し、また自己修復の際には装備者の力を必要としないことが多い。もちろん装備者の気力や精神力を糧にすれば修復速度が増すが、基本的には必要としない。
翻って融合型の修復は装備者の精神力も体力もゴリゴリと削るので、この点について、装備型は融合型よりもはっきりと優れている。
だが破損の状況が酷ければ、元の姿を取り戻すのには時間がかかる。また修復が終わるまでは能力を発揮することも叶わない。
既にして九郎の攻撃は《黒翼》の三割を破壊している。展開した触手を片っ端から斬り飛ばすことは、黒翼から感知能力を奪うと同時に、《黒翼》の機能を奪うことに繋がる。
「く!」
バラバラに広がっていた黒い触手が急速に寄り集まっていく。
九郎の狙い通りだ。こっちの鱗刃に対抗するために黒翼が採り得る手段はそれしかない。いや、この場を切り抜けて離脱を図るためにもこれ以上の破損は避けなければならない以上、《黒翼》が破壊されることはどうしても避けなければならないことだ。
黒翼の顔に明らかな焦りがあることを、九郎は見てとった。
九郎の視線の更に先。遥か上空に銀色の輝きがある。アジア圏のハブ港の上空から、万城目椿は眼下を鋭く射貫く。吹く風に黒髪が流れる。
「展開」
短い言葉と共に銀の輝きが増す。投擲にも近接戦にも使えそうだった銀槍は、持ち主の言葉に応じて形状を変える。黒翼が作ったものと同じ、突撃槍だ。だが存在感が決定的に違う。放つ輝きは鮮烈で、繰り出される威力が黒翼のそれとは桁違いであることが容易に見てとれる。
椿の眼下では小さくなった黒翼の、明らかに狼狽している姿がある。
九郎は強くなった。椿は素直にそう思う。手配書一桁ページに載っている黒翼を、衛士候補の身分でありながら押している。
頼もしい弟子だ、思わず自慢したくなる。椿の師匠が椿を自慢したとき、むず痒くなってやめてほしいと思ったが、なるほど、出来のいい弟子というのは自慢したくなるものだ。
弟子の心の内に昏い炎があることはわかっている。九郎自身が隠そうともしていない。炎の熱に負け、あるいは受け入れ、復讐心のままに暴虐を振るうようにならずに良かった、と心底から思う。
動機がなんであろうと構わない、と椿は考える。大事なのは、心の内の炎を制御できるかどうかだ。我が弟子はいつか、あの炎を思う様、燃え上がらせ、復讐の刃を振るうだろう。
椿は復讐を支持してはしない。
復讐はなにも生まない。許すことが大事だ。一面では真理であるこられの言葉を、しかし椿は口にしない。
仕事柄、復讐に囚われた人間を何人も見てきた。凄まじいまでの決意と執念の果て、遂に復讐を完遂した人間を見たことも一度や二度ではない。
復讐を成すことで、人生や過去に区切りをつけ、新しい一歩を踏み出した人間の姿を知っている。
復讐は虚しいだけ。どんな理由があっても人が人を殺していい理由にはならない。
そんな言葉を、当事者でもない第三者が口にするのは吐き気がする。似たような経験があるからと割り込んでくる人間には虫唾が走る。
その人の痛みや苦しみは、その人だけのものだと椿は思っている。だから椿は、あなたの痛みがわかる、とか、苦しみを分かち合いたい、などとは口が裂けても言わない。
九郎の人生であり、九郎の物語。どうするかは九郎が決める。決めるそのときまでに、炎以外のなにかを見つけるのか、炎を己の内側でどのように昇華させるのか、炎で焼き焦がした向こう側で歩くのか。
九郎が見つけることを支え、手助けは惜しまない。復讐を望むなら、本懐を遂げることに協力もするだろう。復讐の果てに狂ったのなら、そのときは容赦なく叩き潰してやる。
だが今は。
銀の突撃槍を構える。常城市に広がる薬害を食い止めることがなにより優先だ。広める黒翼を確保若しくは撃破し、《死天使の像》の影響を排除する。
いや、椿は確保の選択肢を捨てている。戦力差はあれど、相手は百戦錬磨の黒翼。離脱に適した能力を持っている。手加減をしていては逃がす恐れが強い。
「終わりだ、黒翼」
瞬間、椿は銀の落雷と化す。
黒翼は頭上からの脅威に気付いただろうか。気付きの有無にかかわらず、結末は既にして定まっている。
天空から地上まで、銀の閃光が一直線に結び、轟音と閃光が港に満ちた。




