第一章 《死天使の像》 ~二十二~
市庁舎は常城港を望む位置に建っており、高さ二七八メートル、地上五七階、地下三階の超高層ビルで、一千五百億円以上の予算と三年の時間をかけて建設された。五〇階部分には展望レストランがあり、常城港を一望できると国外からも観光客が訪れる。
計画段階から見積もりの甘さを指摘されていて、予算も最初に組まれた際は一千億円の予算だったのに、材料費や人件費の高騰や、設計ミスなどから結果的に五割以上も積み増すことになった。
入居店舗や観光客数も当初の見通しからは程遠く、このことに怒った市民が調査をしたところ、利用者数などの見積もりを出した団体が市職員の天下り組織だったことがする。しかも、市にとって都合のいい数字を出していたこともわかり、この団体は解散に追い込まれた。
現在の常城市では、新たな道路や建築物を建てる際の利用者などの見通しは、複数の民間団体を含めて行われることになっていた。加えて公務員の数自体も抑制傾向にあることから使っていないスペースも最初の頃から増えていたので、アメリカ資本のホテルグループと手を組んで空きスペースをホテルとして二次開業したのは昨年度からだ。
幸いにも外国人観光客を取り込むことに成功し、常城市の国際的な知名度アップにも貢献していて、議会の反対派を押し切ってホテル切り替えを決めた現在の市長は鼻高々という。
九郎たちは市庁舎の高速エレベーターでヘリポートに向かっている。二百メートルを超える高層建築物は、いかに神秘で肉体を強化したとしても、走り上がるよりもエレベーターのほうが早い。早く着け、間に合え、と焦燥に狩られていると、人避けの神秘が使われた気配を感知する。
「椿!」
「ああ。ここで正解だな」
一拍遅れてエレベーターのドアが開く。九郎と椿が飛び出してヘリポートに走るが、一足遅かった。市が所有しているものとは別の、航続距離が長く、飛行速度も速いヘリは既に上昇した後だ。
九郎の目はヘリの中で驚いた顔を見せる黒翼の姿を捉えるが、次の瞬間には、黒翼は笑顔で九郎たちに手を振ってきた。
高速ヘリは無機質なコンクリートの建造物を後にして、どんどん上昇していく。行き先は海だ。沖合にヘリが着艦できる同盟の船が配置されている。
機長の顔と名を黒翼は知らなかった。いつもは技術と経験とにおいて信頼を寄せるパイロットを使うのだが、彼は今、別の任務に従事している。十二使徒からの仕事であるらしく、多くの実績を残している黒翼でも引っ張ってくることはできなかった。代理の機長も腕が悪いわけではなく、高速ヘリは剣呑さを増しつつある常城市の大気を切り裂いていく。
このヘリにはチャフが準備されているが、今日は出番がなさそうだった。ミサイル襲来に備えて旋回飛行をする必要もない。ただ一直線に海へ向かえばいいだけだ。
ヘリの中で黒翼がノートブックパソコンを開いている。黒翼にはワーカホリックの側面もあった。
結婚もしているのだが、結婚生活を楽しいと感じたことはほとんどない。おしゃべり好きな夫人が隔週で開く近所の婦人たちとの食事会にも、まったく興味を抱けなかった。だが夫人がパーティを大好きなので、不幸にも仕事がないときは、黒翼は黙って会場の端っこに立ち尽くすのだ。愛想笑いと知ったかぶりをしながら、アルコールを胃に流し込んで時間が過ぎるのを待つのである。
パーティ中に仕事の連絡が来たときなど、喜びのあまり小躍りしそうになったほどだ。この仕事が終わって帰宅することは、少しだけ気が重い。
そんな考えを頭の片隅に追いやって、黒翼は手早くデータを打ち込んでいく。船についてからゆっくりと入力してもいいのだが、移動中の時間を無駄にすることが許せなかった。「それにしても」と黒翼の指の動きが止まる。
「どうやって俺の脱出ルート知った? 尾行されている気配もなかったが」
周囲への警戒を怠ったことはない。追ってきた協議会の情報屋らしき人間を何人か片付けて、居所や目的地を知られるリスクは排除したはずだ。勘がいいのか、単なる偶然なのか。
「……まあいい、今は離脱が優先だ」
ノートブックパソコンを閉じ、代わって鈴を取り出す。神秘薬物依存者を暴走させるための道具。《死天使の像》とはまた別の神秘であり、《死天使の像》を研究した結果、できたものである。製作者のこだわりなのか、新しくデザインを起こす気がなかったのか、オリジナルの《死天使の像》と同じデザインをしているのだから、実験で使用した黒翼自身も、ときにどっちがどっちだったかで迷うことがある。
黒翼が依頼された研究の本題は、実はこのコピー品にこそあった。《死天使の像》の効果は広くはないにしろ、知られていることだ。今更、実験を繰り返したところで、新しい発見をできるとは思えない。
幻想同盟は何年も前に《死天使の像》を手に入れてから、そのコピーを作ることに注力してきた。完全なコピーでなくとも構わない。最初からできるとも思っていない。必要なのは不完全なコピー。不完全ながらも神秘を暴走させる効果を得ることだ。
他者の神秘に干渉し、活性化ではなく暴走させることだ。現状、神秘薬物のような低レベル、ごく少量、使用者が訓練をしていない、以上のようないくつもの条件を満たさないと暴走を引き起こすことのできないものに過ぎないが、完成すればどうなるか。相手が十二神将でも恐るるに足らないものとなる。
「さすがにそこまでは望み過ぎか」
苦笑を浮かべて自重する。十二神将は抜きんでた力を持つ神秘や幻想の使い手だ。使い手、つまりは神秘に対する影響力や支配力が強いことを意味している。外部からの干渉で暴走させられるなど、たとえ妄想でも無理がある。
今からが最後の実験。音が広がるには多少の時間を要するが、上空で起動させたなら、市内全域の依存者をほぼ一斉に暴走させることが可能だ。ヘリポートまで追いかけてきた彼らは、果たしてどう動いてくれることやら。願わくば、貴重な実験結果をもたらしてほしいものだ。
常城市は間違いなく混乱に陥る。神秘の脅威から人々を守ること、神秘を世界から秘匿すること。協議会の掲げる二つの大目的をも、同時に破壊できるかもしれない。薄く笑いながら鈴を持つ右手を掲げる。
ドォン!
「!?」
鈴を振るより一瞬、いや半瞬早く、空中ではあまり考えられない衝撃に襲われた。右手の中にあった鈴が平衡を失ったヘリの床に落ち、座席の下に隠れてしまう。
「ちぃっ! なにが起きた!?」
機長が首を六十度だけ後ろに向けて怒鳴った。
「攻撃を受けました!」
「バカな! 執行の槍は近接戦闘要員だ。あの融合種も見たところ近接戦タイプ、丹藤の奴はこんな直接的な攻撃力は持っていないし、他の支部員は論外だぞ。誰が攻撃を仕掛けてくる!」
「わかりません! いや、待って。外に誰かいる!?」
「なに!」
黒翼が衝撃と混乱のヘリの窓から外を確認する。黒翼の目が捉えたものは、ヘリの装甲に強靭な爪を突き立てて姿勢を保持する、執行の槍を抱えた九郎だ。四肢を竜化させ、抱きかかえられている執行の槍も目を丸くしている。
離脱の、少なくとも第一プロセスが失敗したことは確かだった。




