第一章 《死天使の像》 ~二十一~
椿は九郎の肩に手を置いたまま丹藤に話しかけた。
「支部長、暴走体を止めることを最優先にする方針で構わないか?」
「ああ。どれだけの神秘薬物依存者がいて、どこにいるかもわからない状況だと、被害もそうだが、神秘の隠蔽という協議会のもう一つの大目的まで破壊される。黒翼を逃がすことは残念だが、人命には代えられん」
丹藤支部長の決断に、矢野以外の全員が頷く。九郎が竜化していた手を撫でながら、手掛かりについて問いかけると、丹藤は黙ってしまった。
「何とかなるかもしれない」
「椿?」
「師匠と呼べ。蒼子さん」
「これのことね」
蒼子が紙媒体の資料を差し出してくる。黒翼と取引をしていた麻薬組織のデータだ。
いつの間に手に入れたのだろう。九郎が訝しんでいると、椿は得意げに鼻を鳴らす。昨夜、野望用と言って九郎と別れた後、麻薬組織を強襲したのだ。支部には無断で。
死者はいないが数十人単位の重傷者を出して、組織は叩き潰され、パソコンや金庫などから手当たり次第に資料を集めてきた。それを蒼子が夜通しで分析して打ち出したのである。ほぼ徹夜である蒼子は、若さなのか体力なのか、徹夜の披露は一ミリも表に出ていなかった。
「必要なことだとは思うんだけどね? できたら事前に相談してほしいなあ」
「これが始末書です」
「ああ、うん、ご苦労さま」
悟りきってしまった丹藤の声だった。対照的に椿は、事件解決のためには必要なことだ、と気にした風もなく、むしろ堂々と始末書を丹藤の前に置いた。警察のような組織なら、椿の横紙破りな行動は決して看過されないだろう。
蒼子が用意してくれた資料には、組織が利用している売人と、大口顧客の情報がすべて入っている。一晩でまとめ上げたとは思えない精度と量だ。このあたりの事務処理能力は蒼子が支部内でもっとも優れていて、支部長の丹藤も全幅の信頼を寄せている。だが如何せん、量が多い。
「この情報から顧客を絞り込んで暴走しそうな奴をピックアップするのか。さすがに無理があるんじゃないか」
薬物関係に絞っているとはいえ、A四用紙で百枚以上。上からしらみつぶしに当たるにしても、いつ当たりに辿り着けるか。
紙の束に閉口する九郎たちに、蒼子から追加の情報が示される。協議会と協力関係にある常城市警からの情報で、市内のどの地区から緊急通報が多いかを示すものだ。特に「ヤク中が暴れている」といった類の多い情報が集中する地区を割り出したものだ。もっとも多いのは、歓楽街を抱える九区だ。
「これを見ると偏りがあるにはあるが、それにしてもまだ広いな」
「広域感知を展開するのはどうだ」
尚も愚痴る矢野に、椿が提案する。協議会には神秘を感知する機械がある。ただし有効射程距離は数メートル程度でしかなく、都市全体をカバーすることはできない。高いレベルで神秘を扱うことができる一部の衛士にのみ可能な技術が、広域感知だ。
精度でこそ機械での感知には劣る。だが相手が神秘の素人の暴走という特性上、気配を隠蔽することが考え難く、暴走体は即座に発見できるだろう。丹藤は頷いた。
「確かに有効な手はそれしかないよねえ。それでも広範囲に亘って暴走体が出現すると後手に回らざるを得なくなる。人々を守ることは協議会の理念の一つだけど、神秘の隠蔽も同様だ。異形化を果たした暴走体への対処を優先せざるを得ないが」
蒼子が言葉を引き継いだ。
「暴走体もすべてが異形を果たすほどのものとは思えません」
「そうなんだよねえ。仕方ないから異形体以外の暴走体への対応は常城市警に任せることにして、椿君たちにより脅威度の高い個体への対応に集中してもらうことになるから。蒼」
ギロリ。
「……汀さん」
「はい。常城空港、常城港、各鉄道、高速道路には警察を通じて監視の目を配置することはできますが、完璧ではありません。それに、日本支局からの情報ですが、神秘同盟のアジアセクションが黒翼逃走の準備を始めているとのことです。既に脱出チームが常城市内に入っていると言ってきました」
「動きが早いね、ほんと。こうなると、結果として高い確率で黒翼を逃がしてしまうことになる」
忸怩たる思いを禁じ得ない九郎たちだが、神秘から人々を守ることのほうが優先だ。
常城市第九地区は市内の歓楽街である。元々は老朽化した集合住宅が多い地区であったのだが、区画整理を伴う大規模都市計画により、外国人観光客を主なターゲットにしたナイトエコノミーを重視する地区として再開発されたのだ。
緋桜が全盛期のときには、いくつもの違法店舗が存在しているにもかかわらず、警察も手を出すのを控えていた地域だ。
緋桜和真亡き後は、未成年者に性的な接遇をさせたり無許可で深夜営業をしたりしていた違法店舗は次々に摘発され、最近ではぼったくりだとかしつこい客引きだとかは見えなくなっていた。九郎のアパートがあるのもこの地区で、少なくとも椿たちよりも土地勘がある。
通りに面した、洒落た感じのブティックの従業員スペースから鈍い音が響く。九郎が店長の男を殴り倒した音だ。ブティック自体は椿が既にシャッターが下ろしていて、外から様子をうかがうことはできない。九郎は椿の手際の良さに、協議会の衛士はいつでも強盗になれることを確信していた。
「ふむ」
「どうだ?」
顔の下半分を赤く染めた男に、椿が神秘感知端末を向ける。検出された数値は「異形体にはならずとも暴走の危険性が高い」を示していた。
「確保してもらったほうがいいな。九郎、蒼子さんに連絡を。蒼子さんから警察に連絡してもらおう」
警察との繋がりがあるのは協議会の強みの一つだ。近隣住民を装って「シャッターの閉じられた店の中から暴れているような大きな音がする」などと通報する手間が省ける。
「これでようやく八件目か。先は長いな」
リストを確認しながら九郎がぼやく。
スマホに入っている情報量は多く、神秘薬物使用者は三桁の半ば近くに上り、異形化のリスクがある重度使用者に限っても百人に迫る。たった今打倒した男も重度使用者の一人だ。異形体になりうるほどではなくとも、重度の神秘薬物使用者は多い。市警の手を借りても尚、とても手が足りず、一斉暴走でもされたらどうなるか。
「絶望的な気分は追い払っておけ。我々はやれることをやるだけだ。迅速に、徹底的に」
「了解、師匠」
九郎が頬を叩いて気合を入れ、気合を入れた弟子を見て頬を緩めた椿の携帯が鳴った。
「蒼子さん? なにかありましたか?」
『ええ。黒翼の居場所について情報提供があったわ』
「黒翼の!? 誰からです?」
『協議会で使っている情報屋の一人からよ。情報の精度は確かな人だから、信用していいと思うわ』
このタイミングで椿はスマホをスピーカーモードにする。
「どこにいるんですか?」
『市内中心部に移動しているらしいわね』
「中心部? 九郎、なにかわかるか?」
「今の状況だと陸路は難易度が高いだろう。港なら船だと見当もつくが……いや、たしか市庁舎には離着陸可能なヘリポートがあったな」
市民との距離を近付けるとの理由で、市内上空を回るヘリツアーが企画されているのだ。中々、好評のようで、テレビでも何度となく紹介されている。
「空路の可能性はないか、調べてくれないか、蒼子さん?」
『ちょっと待って』
スマホの向こうからキーボードを叩く音が聞こえる。
『そうね。市内上空をヘリで飛ぶツアー計画は、いつもなら事前に飛行計画が提出されているものなんだけど、ついさっき、急にヘリの飛行計画が提出されているわ。多分これね』
椿が嘆息の声を出した。
「市庁舎から脱出する気か」
『黒翼のことだから同時に人避けの神秘も使用する可能性が高いわ。常城警察が近付くことはできない。協議会がヘリを手配しても時間がかかる。椿、九郎、市庁舎に急行して。多分これが、黒翼を確保できる最後のチャンスだから』
「逃したら無駄足だった上に、暴走体への対処でも後れを取るってわけか」
「常城市に破滅的な被害が出かねないな。急ぐぞ、我が弟子」




