第一章 《死天使の像》 ~十九~
瞬間、椿の纏う雰囲気が変わる。どこか浮かれた様子もあった学生のものから、世界を神秘の脅威から守る衛士のものへと。
「予想はついているだろう? 今回の任務は九郎にとって初めての実戦だ。融合型の神秘は、特に成長途上では精神状態に大きく左右されるリスクがある。お前には暴走の前科もあるしな。どうだ? 異常はないか? 気分が異様に昂っているとか、逆に沈み込んでいるとかは」
「特にない。大丈夫だ」
九郎は掌を開け閉めしながら答える。
「《竜玉》の様子は? 過活性の兆候はないか?」
「そっちも」
胸元を覗き込む九郎。《竜玉》は澄んだ青色の保ったままだ。
「異常はないな」
「……いいことではあるんだが、動揺がなさすぎる気がするな」
協議会の資料では、神秘に触れたばかりの人間や、神秘を交えた初めての実戦を経たものは、大なり小なり精神的に揺れる。神秘や実戦への恐怖、非日常だったことが続くことへの悲嘆、平穏を乱されたことへの怒り。実戦を潜り抜けることができたなら、己の力への過度な期待を抱くこともある。
なんにせよ、浮足立ち、動揺し、平常でいられる例は少ない。九郎はその少数派だ。
「荒事の経験値は多いんだ」
「緋桜、だったか」
「ああ」
緋桜式との付き合いの中で学んだことがある。暴力が蔓延る世界でもっとも重要なのは、平常心だ。平常心を保つ。平常心を失わない。たとえ、目の前で銃撃戦が起きても。すぐ隣の殴り合いに巻き込まれても。どんな大金や他の何物を目のあたりにしても。
感情を爆発させて突っ走ることが奏功することも否定しないが、冷静で非常心を保ったままで行動したほうがいいことが圧倒的に多い。日本国内で平穏に暮らしているなら、絶対に必要のない知識と経験と教訓だ。
「経験豊富なのはいいことだろ」
「衛士になるには頼もしい経験だが、素直に喜べないな」
椿は直接、緋桜を知っているわけではない。常城支部に正式に赴任することが決まってから、協議会の資料で知っただけだ。
当時の市内最大の暴力組織。最盛期には市内で流通する薬物の八割以上を握り、残りの二割からも何らかの金を得るように算段していたという。凶悪な組織だが、いつの頃からか、凶悪さの質が変わっていった。
暴力的な面だけが前景に出ていたのに、ある種のスマートさが、いや、悪辣さが目立つようになっていたのだ。資料から読み取れる範囲での緋桜和真にはできそうになく、誰か優秀な参謀でもついていたのだろうと推測されていた。結局、その参謀が誰なのか、遂にわからず仕舞いであったが。
椿はスカートのポケットから、小さな方位磁石のような道具を取り出す。協議会の全員に支給されている神秘で、同様のものは幻想同盟も持っていた。これには人を遠ざける効果がある。
協議会は神秘を秘することを目的とする。しかし幻想同盟のような敵対組織と正面きって戦わざるを得ない場合には、協議会側も神秘を用いざるを得ない。衝突の規模によっては、神秘を最大限に活用する必要もでてくる。
それは神秘の秘匿という目的を損ないかねない。目撃者を減らすため、興味本位で近付いてくる一般人を遠ざけ、無用な巻き添えを出さないために用いるのだ。学校内で使うような事態が起きないことを、九郎と椿も願う。
チリン。
急に、鈴の音が響く。
「鈴? おい椿、これはっ」
「驚いたな。こんなところで仕掛けてくるか!」
涼やかな、なのに屋上全体に音が広がる。ここは高校の屋上だ。自転車の鍵につけられている鈴の音だというのなら、聞こえても不思議はない。だが音はもっと小さく、音自体も安っぽい金属音のはずだ。加えて、風が吹き抜ける屋上にこれほど広がるような音など、存在するはずがない。
常識では。
神秘ではどうか。
ある。つい昨日、聞いたばかりだ。黒翼が持つ《死天使の像》の鈴の音だ。
「九郎!」
「ああ!」
校舎内部と屋上を遮るのは、真新しい塗装の施された鉄製の扉だ。九郎も椿も屋内突入の訓練は受けている。突入のタイミング、相互支援の方法、索敵や排除の実技は体に叩き込まれている。海外ドラマの突入シーンなら、ドア横の壁に何人かがつき、ドアを吹き飛ばす別の人間に合図を送るところだろう。
だが九郎と椿の二人しかいないのであれば、他の人間に合図を送るなんてことができるはずもない。突入支援班なんてものはなく、待っている時間もなく、フラッシュグレネードのような武器もない。二人とも射撃の訓練を受けてはいるが、銃を携行していないから正確な射撃能力も不必要。
屋上の索敵は、感知できる範囲では一人だけ。協議会が持っている情報では、いかな幻想同盟といえど、次期十二神将の衛士がいる現場に投入できるような追加戦力はすぐには手配できないと推測される。
犯人を特定する作業は必要ない。神秘を扱う単独犯行、とだけわかっていれば十分だ。人質でも抱えていたなら、犯人を落ち着かせて交渉したり、要求を聞き出して解決に繋げたりといった手順も必要になるだろうが、このプロセスも必要ない。
人避けをしていることから、人質を取る意図はないと推測できるし、黒翼の戦闘力は校舎そのものを崩すことができるから、人質解放に伴う時間を相手に与えるのは愚策そのものだ。下手に時間をかければ神秘の漏えいリスクが高まり、最終的には強行突入を選ぶ羽目になる。
次に求められるのは判断の早さだ。現状で神秘が発動している以上、悠長に情報収集をしている時間はない。犯人が単独の場合、突入は疲労が蓄積して注意力が低下する夜明け前に突入を行うのがセオリーである。このセオリーも今回は関係ない。
椿がジェスチャーだけで九郎に行動を指示し、九郎は瞬時に動いた。
ドアを破る場合は普通、上下二か所にある蝶番を吹き飛ばして行うのだが、九郎は鉄製の扉を蹴り飛ばす。常人には不可能な芸当を、《竜玉》を活性化させるだけの、獣化なしでやってのける。市民の血税で新しく塗装されたばかりの扉は、非音楽的な悲鳴を上げて吹き飛んだ。
二人は滑り込むようにして屋上に突入した。「FBIだ! 武器を捨てろ! 両手を見えるようにしろ!」などと大声で威嚇することもない。
感知できる限りでは人質がいないから、もしかすると神秘どうしの遠距離攻撃という激しい撃ち合いが起きたかもしれない屋上は、九郎の懸念に反して静かなものだった。屋上の真ん中には真っ黒いコートに身を包んだ男、黒翼が笑みを浮かべている。椿が声を出す。
「黒翼! なにをしに現れた!?」
九郎は竜化せず、椿の隣で黒翼を睨む。
「いえいえ、本当は別の場所で仕掛けても良かったのですがね、ここなら、君たちは確実に戦闘を選ぶ。違いますか?」
黒翼の指摘は当たっている。学校という場所に神秘を介入させることは、大量の犠牲者を出す事態になりかねない。防ぐためには実力行使が必要となる場面が多い。協議会が応援を送り込もうにも、大げさになるのを防ぐため、隠密裏に動くことが求められることから到着にも時間を要する。なにより、こんな場所では、二人とも全力を出せない。
黒翼とは違って。
神秘薬物をばら撒き、依存症者を増やし続けている黒翼が、高校生の安全だけは担保するはずがない。黒翼は、にぃ、と優位にあることを確信した笑みを浮かべ、黒いコートの内側から、黒い封筒を取り出した。
「この能力を知っているもののは少なくてね。協議会で目撃したのは、君たちぐらいじゃないかな?」
黒翼は封筒を破るのではなく、丁寧に広げていく。封筒ではなく、黒い布のようだ。なにを取り出すのか。九郎は目を細め、次の瞬間には大きく見開いた。開かれた黒い布から出てきたのは、人間だった。
「人間を、折りたたんで移動できるのか!?」
九郎の叫びに、黒翼は笑って答える。
「人間だけではなく物資も折りたためるがね。コンパクトさの追求は、収容術の基本だろ?」
協議会の支部が置かれている場所にも資材や人員を持ち込めるのは、この手段があるからなのか。九郎と椿も納得せざるを得ない。だが驚いている暇はなかった。黒翼が開いた封筒は全部で三枚。三人の男――いずれも重度の薬物依存者であることがうかがい知れる――が屋上に現れる。九郎たちが動くよりも早く、更に黒翼が動く。《死天使の像》を取り出したのだ。九郎の竜鱗で破損したはずなのに、完全に元に戻っている。
「修復したのか。この短期間で?」
「ふふ、世の中には自己修復する神秘も存在するのですよ」
九郎の疑問に肯否定せずに返す黒翼の物言いは、実に腹立たしい。
黒翼は《死天使の像》の鳴らす。
『『『アアアァッァアァァアアァァッァア!』』』
三人の男たちは大きく痙攣し、その筋肉が蠕動し肥大する。倉庫で戦った男と同じ。黒翼は相変わらずの笑顔を張り付けたまま言った。
「ご心配なく。君たちを排除することが目的ではありませんし、できるとも思っていませんので」
薬物活性者唸り声を伴って飛び掛かってきた。
九郎は拳を突き出す。竜化はせずとも《竜玉》を活性化した拳だ。一撃で人間の意識を奪い取ることはできる。肉体が精神の枷を引き千切っている薬物活性者でも、昏倒ぐらいにまでは追い込める。
九郎の拳が男の一人にあたる直前、横合いからの一撃で弾かれた。別の男が襲いかかってきたのだ。
九郎は無理に体勢を立て直そうとはせず、弾かれた衝撃を利用して体を回転させた。遠心力を乗せた後ろ回し蹴りが薬物活性者の腹に突き刺させる。薬物活性者が噴水のように蹴り上げられ、受け身も取らずに屋上のコンクリートの上に落下した。常識外の力を得たはずの肉体は、血と吐瀉物に塗れて痙攣するだけだ。
もう一人の薬物活性者が涎と殺意の多い口を大きく開けて襲いかかってくる。九郎の目は冷静だ。動揺は欠片もない。荒事の真っただ中にありながら、平然としている。握り込んだ右拳が空気をぶち抜いて打ち上げられ、薬物活性者の顎を完膚なきまでに粉砕した。男は血と涎と歯を撒き散らして宙を舞い、ゴシャア、と音を立てて屋上に落ちた。
最後の一人は、音もなく椿が仕留めている。
パチパチパチ。いかにもわざとらしく、小馬鹿にした感じの――事実として敬意はまったく払われていない――拍手が屋上に響く。九郎と椿の厳しい視線を受けた黒翼は、タブレットに得られたであろう情報を打ち込んでいた手を止めた。




