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第一章 《死天使の像》 ~十七~

「うぅ、もう朝か……」


 時刻は午前六時二十分。まったく休んだ気がしないまま、九郎は重たいだけの布団から這い出る。


 昨日は椿と別れた後の帰り道に、町内会の会長さんに捕まってしまった。九郎もよく利用する近所の肉屋が相続問題で揉めているらしく、仲裁に入るので付き合ってほしいと持ちかけられたのだ。専門家に任せるべきだと主張する九郎を、「護衛だと思って一つ頼むよ。商店街で使えるポイントをあげるからさ」と町内会長は篭絡にかかり、結果、九郎は一万円相当のポイントと引きかえに引き受けた。


 いざ振り返り、早まったことをしたと反省しきりの九郎だ。大した財産でもないのに骨肉の争いはこじれにこじれ、もつれにもつれ、罵り合いから掴み合いにまで発展。ようやく片付いたときには午前三時を回り、部屋に帰りついたときには四時近く。


 シャワーを浴びる気にも着替える気にもなれず、そのまま布団に潜り込み、およそ二時間後の今、覚醒した次第であった。


「睡眠じゃなくて単なる仮眠だな……それでも日は上るし仕事はあるし……」


 幻想同盟への文句を呟きながら伸びをする。首や肩を動かすと小気味よい音が響く。昨晩というか今晩というか、とにかく体力も雀の涙くらいは回復したようだ。


 この部屋は支部が用意したものではない。協議会の資金は潤沢なので、支部を頼ったならもっといい部屋に住むこともできるが、九郎が選んだのはこのボロアパートだった。


 この星園荘は式に関係する物件だ。正確には式の母親が相続したもので、それを式が引き継ぎ、今は九郎が住んでいる。管理人のような立場だが、管理自体は格安で引き受けてくれた管理会社が行っていた。


 叔父一家のマンションからは高校入学と同時に出た。引き止められはしたが、今後も神秘とかかわり、復讐という道を選ぶ以上、一般人とは距離をあけておきたかったのである。家を出ることを認めてくれた叔父一家だが、今でも不定期にアパートにまで様子を見に来てくれていた。


 ここ十数年の間、右肩上がりで人口が増え続けてきた常城市は不動産価格も値上がりが続いていて、低収入者の中には仕事があるにもかかわらず車の中で生活しているものも出てきているくらいだ。


 この部屋には小さなキッチンがついているが九郎は使ったことがなく、この日もコンビニで買った弁当が朝食だ。唐揚げ弁当をお茶で流し込むようにして数分で平らげる。朝食を終えると空容器をゴミ袋に詰め込み、歯磨きを済ませ、手早く着替える。九郎用の衣装ケースはないので、カーテン代わりにかけてある制服を手に取る。更衣に要する時間は長くても数分ですむ。


 学生カバンを手に取り、一応、中身を確認する。教科書と参考資料、ルーズリーフと筆記用具。多分、忘れ物はないだろう。


 九郎は部屋を出てドアに鍵をかける。シリンダー錠が一つついているだけの木製のドアは、蹴りの一発で蝶つがいが飛んでしまいそうだ。盗まれて困るほど価値のあるものはないので、構わないと考えている。鍵をズボンのポケットに入れたところで窓の鍵を確認していないことに気付いたが、比喩でもなんでもなく盗むものがないので放っておいた。


 そろそろ新しい階段設置を検討する時期に来ている、錆の目立つ階段に向かうと、ちょうど上がってきた住人と顔を合わせることになった。


「あ~ら、九郎ちゃん、オハヨ。今からお仕事かしら?」


 星園荘二〇二号室の住人、ジャクリーンだ。本名は若林で、年齢は五十歳。先月の誕生日会に呼ばれたことから脳みそに刻みつけられている。身長は一五〇そこそこの、立派な喉仏を持った、れっきとした男だ。ニューハーフバー硫黄島に勤めて七年、粘り強い交渉力とインパクトのある顔で、いまや地元商店街の幹部まで務めている。別れた妻と子供がおり、収入の大半を送金に回しているらしく、高給取りのくせに貧乏暮らしを続けている人物だ。


 時間からして、仕事を終えて戻ってきたところなのだろう。九郎は丁寧に頭を下げた。


「おはようございます、ジャクリーンさん。まだ売り上げは戻らないままなんですか?」

「そうなのよぉ。前の国会で移民規制法案ができたじゃない? おかげで移民を使ってた建設関係の会社が人件費の高い日本人を雇わなきゃならなくなって、遊興費に回せるお金が減っているのよ。アタシのとこなんかモロに影響うけてるわぁ」


 ジャクリーンの言う移民規制法案とは、少し前に可決された法案で、これにより企業や商店は規模に応じて一定数の日本人を雇わなければならなくなった。いわゆる三K職場でも同様のため、建設業界などでは給与を高くして日本人労働者を繋ぎ止める必要に追われている、とのニュースを九郎は思い出した。


「それにこの地区、最近、たちの悪い薬が流行ってるし」

「薬……」


 黒翼がばら撒いている神秘薬物のことだろうか。盛り場はその性質上、少なくとも昼間の街よりも、ドラッグをはじめとした違法な商品や商売との接点が近くなりやすい。安くて効果の高い神秘薬物が出回っていても不思議ではない。


「うちの前にある店、知ってる? そこで昨日、若い子が一人、大暴れしたのよ。すごい力でね、駆け付けた警官も三人がかりでようやく取り押さえることができたの。いやぁねぇ、ジャンキーって。九郎ちゃんもバイトだっけ? 時々帰ってくるの遅くなってるから、十分に気をつけてね」

「ありがとうございます。それじゃ、行ってきます」

「行ってらっしゃい、気をつけるのよ」


 隣人との会話を済ませ路地に出た。神秘については秘密なので、周囲に対してはバイトをしていることにしている。給金もあるので、全部が嘘でもない。


 衛士候補生として働いているとはいえ高校生という身分も持っている九郎は、これ以上の道草は勘弁と願いつつ、なぜかこういうときに限って信号に掴まってしまう。青信号になり横断歩道を渡る。業界二位のコンビニ前を通りかかると、怒声が飛んできた。


「さっさと金を出せってんだよ、おっさん!」


 鉄板装備、つまり野球帽とサングラスとマスクで顔を隠した男が、包丁を町内会長に向けていた。このコンビニは町内会長の店で、町内会長は他に三店舗のコンビニを経営しているがいずれも人件費高騰と人手不足で青息吐息となっていて、近いうちに一店舗を閉鎖しようと考えている最中らしい。


 引きつった顔からは九郎同様に疲労が目立ち、仮眠を摂っただけで仕事に入ったのだと分かる。挙句にこんなトラブルに巻き込まれるのだから神様は不公平である。


 店内の客は遠巻きに見ているだけで、石像にでもなったかのように動かない。「仕方ない」九郎は遅刻を受け入れ大きく息を吸い込み、「泥棒だ」と叫ぶ。強盗のサングラスの奥の瞳が驚きと怒りに見開かれた。


「てめえ、このガキが!」


 強盗は町内会長に向けていた包丁を九郎に向けると、一気に突進してきた。逃走と、同時に邪魔をした九郎への攻撃を兼ねた行動だ。強盗の体躯はがっしりしていて、大声を張り上げながらの突進ともなると、常人なら足が竦んで動けなくなっても不思議はない。


 生憎と、九郎は常人などではなかった。強盗の攻撃は無様に空を切る。九郎は避けると同時に強盗の右膝を蹴った。強盗の半月板は砕け、悲鳴を上げて、アスファルトに顔から突っ込んでいく。熱烈なキスはアスファルトにしてもいい迷惑に違いない。


「ぐぁっ! てめえ、ってめ」


 口の中を切ったのか前歯が折れたのか、強盗のマスクは赤く染まり、一秒毎にその範囲を広げていた。一瞬で戦闘力を奪われた強盗が腕を振り回す。包丁は離れた場所に転がっている。逃げることも戦うこともできないにもかかわらず、諦めようとしない往生際の悪さだけは評価に値する。


 するが、それだけだ。ややあって、通報で駆けつけた警官たちに強盗を引き渡し、町内会長から何度も礼をされて、足早に学校へと向かった。

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