第一章 《死天使の像》 ~十六~
「まさかワトキンソン、それも黒翼とは……」
報告を受けた丹藤は薄くなった頭を抱えた。
「これで《死天使の像》回収任務の難易度が二つほど上昇したな」
「それほどなんですか、丹藤さん?」
「ああ」
協議会のデータバンクによると、ワトキンソンは現場に出ての戦闘任務も行う。だが最大の強みは、脱出能力の高さだ。逃走能力の高さと言ってもよい。とにかく、戦域からの離脱を得意といていて、内戦中で治安や交通が破壊されているような地域からでも、チームを脱出させることができる。
協議会が専用の追跡チームを組織して長年に亘って追いかけているが、今尚、身柄の確保も討伐もできていないのだった。
ワトキンソンは研究者ではないので、実験のトライアンドエラーから新たなアプローチを考えるような仕事はできない。できるのは、与えられた実験器具を用いて実験を行い、得られたデータを持ち帰ること、だ。
自分だけならどんな場所からでも脱出できると豪語するほどのワトキンソンが任されるのは、往々にして危険度の高い神秘ばかりだ。「現地での荒事を伴う実験」に投入されることも多く、実験に際しては依頼主や上司のオーダーを忠実に守り、小規模な町が消え去るほどの事態を引き起こしたこともある。
用意周到で冷酷無情、手段を選ばない。加えてより厄介なのは、実験に必要な資材や人員を、協議会の支部が置かれている都市にもわけなく持ち込む手段も持っていることだ。この情報は近年、黒翼の名が手配書に再掲されるようになってからのことなので、ワトキンソンが神秘《黒翼》を手に入れて得た能力が関係しているということだろうか。
これまでも同盟の中で数多くの神秘の実験に携わってきて、その実験データを基にして同盟は数多くの事件を起こしてきた。
「そんな危険人物をむざむざ逃したのか。なにをしてるんだ、お前は! それでも衛士候補か!」
矢野の叱責もわからなくはない。それだけ逃走に長けているのなら、最初の接触で捕らえられなかったのは、痛い失点だ。
「すみません」
「謝罪だけで済むと思っているのか! 次の被害者が出たら、それはお前が殺したということだぞ!」
凄みを利かせた声も、九郎にはさほど響かなかった。穏やかな笑みを浮かべ、和やかな雰囲気を纏い、柔らかに接しながら、それらを一切崩すことなく相手の首を掻き切るような人間――式に比べれば、矢野からは脅威を感じない。
椿に至っては呆れを感じていた。現場での責任者は衛士候補の九郎ではなく、衛士である椿だ。理解していない筈はないのに、九郎にばかり苛立ちを向ける矢野の姿には呆れる他なかった。
「では、今の犠牲者たちは協議会の先達たちが殺したのと同じというわけですね、矢野先輩」
蒼子がボールペンの先端で机を突きながら言った。口調も刺々しい。
「小学生じゃあるまいし、責任追及をしたいのなら、後輩にではなく上層部や作戦司令部に向けてして下さい」
蒼子からの不意打ちに二の句を失う矢野に代わり、丹藤が言った。
「黒翼は今までずっと協議会が追ってきた相手だ。決着を付けようとか言っていたのなら、まだ接触できるチャンスがある。チャンスがあると祈ろう。そのときには確実に仕留めるんだ」
言われるまでもない。九郎と椿は頷いた。
「黒翼は用意周到だ。実験の目的は、まあ、神秘薬物の効果を確かめることなのか、《死天使の像》の効果向上能力を確かめることなのかはわからんが、実験を行うこと自体が目的なのは間違いない。その周到な黒翼なら、当然、この常城市に我々が支部を構えている事実も知っているはずだ」
「障害となりうる協議会が支部を構えていることを知らないはずはない。つまり協議会との衝突も実験の内に入っている、ということですね、支部長?」
蒼子の指摘に丹藤は頷きで返す。椿が眉根を寄せて腕を組んで口を開く。
「衝突を織り込んでいるということは、被害も大きくなる危険性が高い。むぅ、やはり、あのとき無理をしてでも黒翼を追うべきだったか」
「椿君、悔やんでいても仕方ないよ」
「ええ。追い続けます」
常城支部の方針は一ミリも変わらない。常城市に起きている神秘に関する事件を解決する。神秘同盟が出てきたことで難易度が上がったが、それだけだ。事件解決のために動き続けることは、何ら変わらない。
九郎たちは支部を出た。支部に残るのは、支部に住み込んでいる丹藤だけだ。以前は支部の近くにマンションを借りていたのだが、家賃扶助の分をアルコール購入に回すため、支部に住み込むようになったのは、比較的最近のことである。
伝票整理のある蒼子がまだ残っているが、遅くとも半時間もすれば帰るだろう。送ることを提案してけんもほろろに断られた矢野が一際、激しい視線を九郎に向け、九郎は冷ややかに無視した。
レストランのドアを開け、三段だけの小さな階段を下りる。経年劣化の進んだアスファルトの上に立ち、大きく伸びをする。
「疲れたか、九郎?」
階段の上にいる椿が話しかけてきた。
「さすがに緊張した。血行が悪くなった気がする」
「年寄りかお前は」
椿は階段から飛び降りた。少なくとも九郎ほどには疲れていないように見える。
「矢野の言葉は気にするな。蒼子が言った通り、黒翼を確保できなかったのは、これまでの協議会の責任だ」
「最初から気にしていないから問題ない」
「ならいい。では、また明日」
明日、と言いながら椿は帰り道とは別の方向に足を向けた。九郎が問う。
「どこかへ行くのか?」
「つまらん野暮用だ。気にするな」
「わかった。なら明日もお願いするよ、先輩」
「そこは師匠と呼べ」
「明日もよろしく、我が師」
「よろしい」
笑顔で去って行く椿の背中を見送り、街灯の光の奥に姿を消したところで、九郎も踵を返す。自分一人でも調査をしたい気持ちはある。だが椿からは単独で動くことの危険性については何度となく説明されていたし、椿の言葉を無視して行動した結果、失敗したこともある。
逸る気持ちを抑えるために、九郎は大きな息を吐き出した。
常城市は日本では珍しく人口増が続いている都市だ。流入数が多いだけでなく、出生率もフランスに匹敵するレベルにある。労働目的で市内にいる外国人も多く、昼も夜も変わりなく活気のある都市だ。
だが如何に栄える都であろうと、日の当たる部分もあれば日陰になる部分もある。朝日が降り注ぐ中でも薄暗いここは、そんな都市の一角だ。かつては多くの日雇い労働者が寝起きし、周辺にはラブホテルや風俗関係者や薬物の売人が跋扈していた、健全からは無縁の街だった。
この周辺は建物の老朽化と地価下落が同時に底を打った時期に様々な人種の手が入り、少しだけ様変わりをして見せた。元々、治安の悪い地域だったことから低所得層や犯罪者が住んでいたのだが、更に移民の流入が加わる。
多国籍の明るい街に変わった、と表現すれば聞こえもよいだろう。もっとも、雰囲気が明るいわけではなく、単に夜になるとけばけばしい極彩色のライトが目に痛いぐらいに眩しいというだけのことでしかない。
ピンクや緑など賑やかな光も届かない細い路地を覗くと、時代に取り残されたのか、時代から零れ落ちたのか、はたまた頑として古い時代に居座り続けたのか、やけに年季の入った建物も残っている。
そのうちの一つが星園荘。
名前だけはロマンティックな、木造モルタルの二階建て物件である。昭和中期の連れ込み旅館を改装した――単に看板を架け替えただけの――日当たりの悪い安アパートだ。
全室トイレ・シャワー付き、最寄り駅から徒歩二分、相場より三割以上も安い家賃が売りで、日当たりの悪さと風通しの悪さと住人の質の悪さ、加えて電車による騒音と震動に我慢できるなら、まずはお得と言えよう。事実、星園荘は常に満室状態だ。主に外国人と貧乏人とによって。
星園荘二階右端にある二〇一号室は、奇跡的に太陽の恵みを受けられる部屋だ。ビル群の隙間を縫ってきた細い光が、遠慮がちに薄い窓ガラスを叩く。
二〇一号室にはカーテンがない。カーテンレールにかかっているのはいくつかの衣類とタオル類だ。かけられた衣類の隙間から、変色した畳の上に申し訳程度の日光が落ちる。これはまだ五月の日差しだから部屋まで届いているのだ。冬ともなると光も息切れを起こすのか、二〇一号室のかなり手前で途切れてしまう。
部屋は決して狭くはない。六畳と四畳半の二間があり、大きな穴の空いた襖が仕切る。六畳間の押入れは中途半端に開いていて、下段部分はダンボールや毛布が詰め込まれている様子がうかがえた。
では、部屋自体はどうか。部屋の中央には綿の乏しい、いわゆる煎餅布団が存在感を主張し、布団の周囲には昨夜にでも生み出しただろうゴミが散乱している。コンビニの野菜サラダや青汁のパックジュースの空であることから、健康への留意がうかがい知れる。
目覚まし時計、なんて利器があるはずもなく、携帯電話が鳴り響いた。布団の中から右手が伸び、やかましい携帯電話を捜し求めて動き回る。五秒をかけても目的を達しない不甲斐なさに業を煮やしたのか、次いで左手も布団から出てくる。ややあってアラームを止めると、朝に相応しい緩慢な動作で少年が顔を覗かせた。




