第一章 《死天使の像》 ~十四~
それきり、黒ずくめの男は取引相手のことを忘れる。
安価で、効果が高く、リピーター率も高い商品を扱って大きな富を得ていながら、更に欲をかくような人間のことなど覚えていたくもない。利潤追求の単純な姿勢が計画のために有効であるから付き合っているのであって、でなければあの脂肪分の多い顔を吹き飛ばしているところだ。
黒ずくめの男の手には紙媒体の資料がある。これまでに流通させた神秘性薬物の効果、売り上げ、持続成長性、改善点などを雑多に書き留めたものだ。先日、一つの資料としてまとめ上げた今となっては、不要となっていた。
黒ずくめの男は一斗缶の中に資料をまとめて放り込み、わざわざ近所のガソリンスタンドで購入してきた灯油をかけ、今では見かける機会の減ったマッチに火を点け、一斗缶に向けて投げ込む。独特の臭気を伴ってオレンジ色の炎が立ち昇る。
最近の技術力だと、燃え残った灰からも書かれた文字を解析することができるが、黒ずくめの男は、それでもかまわない、と考えていた。解析されたところで薬物の出どころはわからず、他に書かれていることも妄想として処理されるしかない。
秘蹟協議会が出てきても、根本的な解決に繋げることは不可能だ。
黒ずくめの男は燃え上がる炎を視界の二割に収めながら、残りの八割でタブレット端末の画面を見ていた。倉庫周辺に、所有者に無断で取り付けた監視カメラの画像だ。神秘薬物により正常な判断力を失った所有者には、既に許可の判断を下すこともできない。黒ずくめの男の言いなりになるだけなので、わざわざ許可を取るなんて無駄なプロセスを踏む必要がなかった。
画面は六つに分割されていて、その内の一つに映っている男がいた。五分前からいる男で、作業着姿でタバコを吸っている。常城港は敷地内全面禁煙になっているだけでなく、専用の喫煙スペースすら設けられていないという愛煙家泣かせの場所だ。
だからニコチンから逃れられない中毒患者たちは、なんとか自分だけの秘密のスペースを探すのだ。この作業着姿の男は監視カメラが仕掛けられていることに気付いておらず、五分の間に三本のタバコを吸っていた。
黒ずくめの男からは、単なる仕事をさぼっている一般人に見える。万が一にもこちらを探っているとは思わないが、注意を向けておく必要はあった。
画面の中で作業着の男が慌てて携帯電話を取り、何度も頭を下げている。上司から呼び出しでも受けたのだろう。通話が終わると携帯電話に向かって口を動かしたのは、通話相手への罵りの言葉だと思われた。
内容などは黒ずくめの男にとってはどうでもいいことだが、作業着男が煙草を投げ捨てて行ったことだけは許せなかった。この仕事を片付けて離脱する際には、ついでに殺しておこう。ごく簡単に黒ずくめの男は決める。
黒ずくめの男は神秘薬物をばら撒くことに専念していた。一部の、売人であると同時に常用者でもある、なんてことは絶対にない。供給すること、薬物の効果の確認、依存に陥ったものたちの効率的な運用と操作方法の確立、これらを行うにあたって《死天使の像》が本当に有効かどうか。
最大の作戦目的はこの《死天使の像》の有効性の確認だ。社会を間違いなく混乱させる薬物の蔓延でも、低コストで使い捨ての兵士を量産することでもない。《死天使の像》が黒ずくめの男も所属する組織、幻想同盟にとって真に有益なものかどうか、だ。
そのためだけに、黒ずくめの男は常城市に危険な薬物を蔓延らせ、人々に犠牲を強いている。いや、強いているとの認識など持ってすらないままに、人々を踏み躙っていた。
パソコン画面の一つに注意を向ける。物陰に隠れながら、こちらを伺っている二人の人間がいた。
男女一人ずつ、いずれも年は若く、売人や薬物常用者に特有の雰囲気も纏っていない。人避けの神秘を使用していても、好奇心の強い種類の人間を完全に排除することは難しい。こいつらは興味本位で近付いてきた子供か。放っておいてもボロは出ないが、まとわりつかれるのも迷惑だ。暴力的手法で追い散らすとしよう。
「うん?」
意図せず、黒ずくめの男の警戒心が刺激された。理由がわからないままに、もう一度、画面を見る。相変わらず、年端も行かない男女がいるだけ。警戒する必要などない。
いや待て。
黒ずくめの男は考え直す。暴力が蔓延る世界においては、一瞬の油断は正しく命取りだ。数多の死線を潜り抜けてこられたのは、警戒のセンサーと実力の成せる業だ。僅かでも引っかかったのならば、思考から外すにはそれなりの根拠が必要になる。
男のほうにサングラス越しの視線を向けても、警戒心は刺激されない。となると女のほうか。画素数の少ないカメラではあまり鮮明ではない。
幻想同盟のデータベースに年齢、性別、体格、現在の活動地域が常城市であることなどの情報を打ち込み、検索にかける。九十二パーセントの確率で一致する人物がはじき出された。
秘蹟協議会の衛士、万城目椿。コードネーム執行の槍。偶然で現れるような相手ではなかった。
綾瀬九郎と万城目椿は薄闇の中に立っていた。九郎は鼻から空気を吸い込む。空気に湿り気が混ざってきていることから、もう少しすれば雨が降ってくるものと推測する。小雨程度でも時間が長くなると服は濡れてしまう。秘蹟協議会の衛士には制服はないので、濡れるとしたら少ない金を遣り繰りして購入した私服になる。さして高級品ではないとはいえ、お気に入りのシャツが濡れるのはショックではあった。
九郎たちは倉庫に近付く人間たちを観察している。倉庫には監視カメラこそ設置されているが、見張りは立っていない。カメラの力を信じているのか、この密売所が知られることはないと考えているのか、あるいは知られたところで問題ではないと考えているのか。
椿が倉庫に注意を向け、九郎は人に注意を向ける。薬物を受け取ったパーカー男が視界から消えるまで観察し、完全に見えなくなると倉庫に注意を戻す。
「あのパーカー男が箱田、か。見るからに末端の売人だな。いや、直接、仕入れているだけ、流通を担う役割も持っているのか」
椿に叩きのめされ、丹藤のプレッシャーに負けた男が吐き出した情報、仕入れ先の箱田という人物に、九郎たちはすぐに辿り着いていた。
やや離れたこの位置からでも、監視カメラが二台確認できる。鉄製の扉は頑丈そうに見えるが、実際はどうだろうか。車の衝突に耐えられるのかもしれないし、もしかすると塗装を施しただけのボロ扉かもしれない。これで番犬でも飼っていたら、映画に出てくるような悪党の隠れ家だ。
丹藤支部長の力強くない号令の下、九郎は椿と共に、例の情報提供者の店を訪れた。九郎には情報源を協議会という組織そのものに教えるつもりはない。だが自分が動けなくなった場合に、情報を入手する手段が途絶えるのは望ましくないので、椿にだけは共有することにしたのだった。
箱田という人物は、情報提供者の店を利用したことが何度もあり、「俺は直接、これを扱ってるんだ」と豪語していたという。店側から箱田のことを聞いた九郎たちは、速やかに箱田を発見し、尾行した。辿り着いたのがここ、常城港にある神秘麻薬の密売所だった。
それなりに噂は広まっているのに、なぜか見つけることができないという奇妙な、いや、薄気味悪い場所。
早々に常城港に入った彼らは、不自然に人気のない場所を見つける。一般人にはてきめんな効果を発揮する人を遠ざける神秘も、同じく神秘や幻想を住処とするものたちには効果が乏しい。人の動きから目当ての場所だと判断し、中を伺う。
この試みはまったく成功しなかった。倉庫の中にいる人間は、外部との接触を最小限にしている。金銭と品物のやり取りも最小限で、中に何人がいるのか、武装はなにか、重要なことは何一つわからない。一台、港にも倉庫にも似つかわしくない高級車が入ってきて、なんとか中を見ようとしたが、結局はできなかった。
中の様子を知るには、中に入るのが一番手っ取り早い。取引を装って倉庫内に入ることができれば最高だ。だが見る限り、この密売所はよほどの相手でない限りは、倉庫内へ入れることはしない。エブリデイロープライスを掲げるスーパーのように、もっと気軽に出入りできればいいのに。
「九郎、なにかわかるか?」
「すまんが、なにもわからない。椿はわかるのか」
「さすがに武道の達人のような気配感知はできんが、神秘の気配を探ることはできる。衛士の基本技能だぞ? お前にもわかるはずだ。やってみろ」
「簡単に言ってくれる」
文句を口にしながらも、九郎は閉眼した。椿は衛士としての先輩であるだけでなく、戦闘をはじめとする技能や知識を教えてくれる師でもある。師匠の命令は絶対だ。
胸元の《竜玉》に意識を集中させ、僅かに活性化させる。九郎の神秘感知は、お世辞にも優れているとは言えない。師匠に似たのか、どうにも戦闘特化型に傾きつつあった。
《竜玉》に生まれた青光が直径十五センチにまで膨らみ、散る。青光は細かな粒子となって、宙に溶けた。溶けて見えなくなった青光は更に広がっていく。これが九郎の感知方法だ。粒子を撒き、粒子に触れたものを把握する。九郎が感知できる範囲は、自分を中心に十メートル程度。調子が良くても十二、三メートルだ。倉庫内の神秘の有無を知るには十分。
「……感じ取れる神秘の数は、三つ、だな」
「正解だ。前よりも精度が上がったようでなにより」
「どうも。一つは人払い用、一つは《天使像》だとして、もう一つはなんだ?」
「決まってる」
短く、語気鋭く、椿は断言した。右手人差し指の銀のリングが輝く。戦闘態勢だ。
「《天使像》を使っているクソ野郎のものだ。九郎、警戒しろ! 気付かれてるぞ!」
「!?」
九郎にもはっきりわかるほど、倉庫内から殺気が膨れ上がる。




