第一章 《死天使の像》 ~十二~
被害者の一人、木之元春人がオレンジジュースを購入したときの映像データが表示される。木之元春人が日常的に使っているスーパーだ。特に不審な点はない。どのタイミングで薬物混入が行われたのかを確かめるため、数時間を遡っていく。これも既に警察が行った作業だ。
「警察だと気付けないこともある。わたしも二度見直してようやくおかしいと思ったくらいだしね」
映像を三時間二十分ばかり遡ったところで、蒼子が「ここよ」と示した。映像には身長はやや低め、横幅は平均を一回り上回っている男が映る。この男になにかあるのか、と九郎も椿も怪訝そうに眼を細め、二秒後には「!」小さな違和感に目を見張った。
「蒼子さん、これは」
「正解よ、九郎。認識阻害の神秘ね」
蒼子の手がキーボードをリズミカルに叩く。映像データに修正が入る。太った男が注射器をオレンジジュースのパックに突き刺していた。お世辞にも手際のよくない、雑な犯行。だが認識阻害の神秘の効果により、当日その場にいた他の客たちも警察も気付くことができなかった。神秘に関わっているからこそ気付くことができたのだ。
「蒼子、この男が犯人なの? 見たことのない顔だけど」
「そこはまだわからない。男が神秘薬物を混入したことは間違いないだろうけど、認識阻害についてはこの男が持ち主なのか、あるいは認識阻害の効果をかけられているだけなのか」
神秘薬物の効果で操られているだけの被害者の可能性もある、ということだ。歌川が顔を上げた。
「どうでしたか、歌川さん」
「いや、ほんと腕を上げたね。これだけの時間でよくここまでできるもんだ。支部じゃなくてこっちに来ない?」
「籍は置いておきますよ。それで?」
「一致を確認した。この霊絡はダニエル・ワトキンソンのものだ」
「ワトキンソンだと!?」
もっとも大きな反応を示したのは椿だった。九郎はよくわからないといった風。蒼子は警戒を表情に表しこそすれ、それ以上にはならない。歌川も似たようなものだ。
「椿、ワトキンソンってのは誰だ? 腕利きか?」
「師匠と呼べ。複数の神秘を使いこなす強力な使い手だ。同盟に所属するあの男が今回の事件に関わっているのか」
神秘で金もうけを企む単純な話ではなく、協議会の宿敵である同盟との衝突になるということだ。支部だけで対処できる案件なのか、九郎は気になる。
「応援がいるレベルなのか?」
「厄介だな。ワトキンソンは以前、わたしの師匠の石塚が単独で撃退している。近距離・中距離の戦闘を得意とする奴だが、石塚さんが撃退に成功している以上、追加戦力は期待できないだろう。お前たちだけで何とか対処しろと言われるに決まっている」
椿は数十匹の苦虫を噛み潰した表情のまま、スマホを操作する。画面には石塚の名前が表示されていた。
『かー、またワトキンソンの奴が湧いて出てきたのかよ』
ビデオ通話の先で、石塚は大げさな仕草で額に手を当てた。九郎には石塚とワトキンソンの間にどんな因縁があるのか知りようもないが、湧いて出た、は聞いていて少し気の毒になった。まるでボウフラ扱いだ。
石塚は現在、北海道にいる。実力と経験を両立している貴重な存在として、世界各地に引っ張り出される立場だ。本人はこの立場をかなり嫌がっていて、じゃあ代わりに経験を伝えるための教導官をするか、と脅されて――あくまで石塚個人の受け止め――仕方なく続けているとぼやいている。
神秘薬物流通前、「久しぶりに日本に帰れるぞ」との連絡を受けた椿は本当に嬉しそうで、常城市を素通りすることがわかったときには酷く落胆していたものだ。
支部長の丹藤によるとだそれは石塚も同じだったようで、話が違う、と上層部に噛みついたという。当初の予定では四十時間程度は常城市に滞在できる予定だったのを、危険な神秘の兆候があったとかで、急遽、北海道に飛ばされたのである。
「どんな奴なのですか、石塚さん」
石塚と話すのは弟子でもある椿の役目だ。九郎にとっては師匠の椿の師匠なので、何となく苦手意識を持っている。加えて過去、九郎が初めて竜化したときに世話をかけてしまった相手でもあるので、二重に頭が上がらない。
『幻想同盟でも投入することが絞られるレベルのエージェントだ。こいつがいると任務の危険度が二つは上昇する。戦闘を要する任務の場合だがな』
「? 戦闘以外の要素があるのですか?」
『ワトキンソンの奴が情報収集をメインにしている場合はもっと厄介だぞ。直接、接触できる可能性が低くなる上に、奴自身が逃走を選択するからな。俺が叩いたときは、奴が同盟の人員救助の任務中だった。救助するまでは離脱を選ばないから、こちらも戦いやすかったが、今回はどうなんだろうな』
「確かに……被害が大きくなる可能性はありますが、言ってしまえば薬をばら撒くだけのこと。石塚さんと戦って生き延びるような腕利きを投入するとは考え難いですね。やはり情報収集がメインでしょうか」
スマホの小さな画面の中で、石塚は首を横に振った。椿の出した結論に異論を挟んでくる。
『護衛という線も考えられる。薬を撒くのは別の奴で、ワトキンソンがそいつの護衛って可能性だ』
「ワトキンソンが護衛、ですか? それもあまり考えられないのでは」
『そうとは限らんぞ。なにしろお前がいるからな』
石塚の指摘は、椿にはあまりピンとこないようだ。九郎には得心のいく内容である。
椿は協議会全体でも指折りの実力者だ。才能を持ち、努力を怠らず、危険な任務にも臆さない。蛮勇ではなく、神秘を恐れる感覚を持ち、必要なら恐怖を超える勇気を持ち、利益と損失を秤にかけて冷静に選べる判断力を持っている。ときに人命を協議会の命令より優先してしまうことはあるが、概ね上層部からは高い評価を得ていた。
別の視点、つまり協議会と敵対する同盟からすると、万城目椿は警戒に値する敵手であることを示している。師匠が過去に何度となく同盟を苦しめてきた石塚であることも無視できない点だ。
『それに、綾瀬九郎もいるんだろ?』
画面の中の石塚が頭を動かす。日本にいることの少ない石塚は、しかし九郎のことは気にかけている。竜化を目の当たりにした数少ない証人だ。自分の弟子である椿が世話をしているとあって、なにかと連絡をしているのである。ただし九郎本人とやり取りをすることはなく、すべて椿か丹藤を通してであるが。
『全身獣化のできる神秘は数が少ない。俺が知る限りだと《戮爵》だけだ』
「石塚さん、あんな化物とうちの九郎を一緒にしないでください」
うちの呼ばわりは些か心外な九郎である。反論すると論破の有無にかかわらず、訓練時間が伸びてしまうので、なにも言わないようにした。特に座学を増やされるのは勘弁願いたかった。
石塚は微妙な表情のまま、わざとらしく咳払いをする。
『ワトキンソンの戦闘方法は単純だ。高速移動を利用したとんでもない連続攻撃だ。協議会のデータベースには暴風とかなんとか格好いいことを書いていたな。椿なら十分に対処できるだろうが』
「なにか不安要素でも?」
『あいつは優れた神秘の使い手だ。同盟の支援があることを考えると、俺とやったときとは別の神秘を持っている可能性もあり得る。逃走を補助するタイプの神秘はともかく、戦闘型の神秘ならどれだけ危険になっているかわからん。俺はしばらくこっちの任務で動けん。十分に警戒しろよ』
「わかりました」
椿は小さい頷きで返し、通話を終える。石塚との通話が終わるや否や、蒼子がタブレットを椿の前に置く。九郎も気になって覗き込むと、そこにはワトキンソンの情報があった。ワトキンソンの成り形、やり取りからわかった性格や癖、使用していた神秘の情報まである。
「九郎、荒事になればお前の力も必要だ。心構えはしておけ」
「わかってる、師匠」
九郎は胸元の《竜玉》に、椿は銀色の指輪に、それぞれ触れた。薬物流入事件だと思っていたら、どんどん規模が大きくなってくる。協議会と同盟が衝突することになるのか。間違いなく衝突する、と九郎は考えていた。




