第一章 《死天使の像》 ~十一~
「正直、あまり大丈夫じゃないわね。蒼子にはいくつも美点があるけど、少なくとも運転のせいで三つは帳消しにできる」
椿の顔色は九郎よりも悪い。元から車が好きではなかった彼女は、蒼子の運転に付き合わされて以降、車という文明の利器に隔意を抱くようにまでなってしまった。代わりに最近ではバイクのカタログをよく見ている。九郎は完全に自転車派だ。
「説明を聞いてる間に足元も回復すると思う。続けてくれ」
九郎はそこまでではないというだけで、顔色がいいとは言えない。長谷川は中途半端に頷いた。胸ポケットからボールペンを出し、プリントを指し示す。
「この数値はあることをすると検出される項目なんだけど、そのあることっていうのは、神秘による加工、だ。つまり神秘により作り出されたものではなく、既にあった薬物に神秘の力を加えたというわけだ」
モノに神秘の力を加えることはそこまで難しいわけではない。磁石の近くに金属を置いておくと磁気を帯びるように、強い神秘の傍にあるだけで、神秘化することもある。大半は神秘の力を帯びただけ一過性のものに過ぎず、しばらくすると基準値内に収まっていくのだが、中には神秘化させることを能力とする神秘すら存在する。
「加工元の神秘の情報はあるのですか?」
当然の九郎の問いに、長谷川は肩をすくめてみせた。この動作は、ある国民的RPGゲームの主人公が作中でよく見せた仕草で、熱狂的なファンである長谷川はいつの間にか癖にしてしまっていた。リメイク版の発売延期が決まったときには露骨に落胆していた。
「加工した神秘はわかった。現在、協議会が保有している」
「それって」椿の困惑に、長谷川は頷いてみせる。つまり、協議会の誰かが関わっているか、情報が偽装されている場合だ。
「協議会は関わっていないわよ。信用してるもの」
蒼子がパソコンの前でキーボードを叩きながら言う。
「信用って……汀さん、これは信用とかそういう問題じゃ」
「メールが返ってきたわ。協議会の保管庫にあるって。念のために保管に出入りした人間のIDとカメラのチェック、保管庫にあると言った職員のこともきっちりと調べてもらう」
「あの、汀さん、信用……?」
「そ。信用」
長谷川は追及の無意味さを悟り、冷蔵庫からステンレス製の試験管立てを持ってきた。試験管立ての半分ほどに小さな容器が立てられ、容器内には液体が確認できる。中身がなんなのか、九郎にはわからなかったので質問をする。
「長谷川さん、それは?」
「オレンジジュース」
長谷川は短く答えた。九郎は困惑する他ない。長谷川は更に続けた。
「木之元春人が購入したものだけど、君たちへの説明用に出してきたんだ。汀さんが調べている間の、まあ、ちょっとした暇潰しみたいなもんだな。分析を直接、見てもらおうかなって」
九郎の記憶では、木之元春人は薬物服用の痕跡があるだけで致死量には遠かったはずだ。
「成分を調べてもなにもでないんじゃないか?」
「そうなんだけどね。とりあえず見ててくれるかな」
長谷川は手慣れた動きでオレンジジュースを調べていく。容器を手に取り、軽く振り、中身を見る。一部を容器内から採取し、専用の器材に乗せる。
この器材は一般的な分析には使えず、神秘を専門に調べる器械だ。使用頻度はそこまででもないくせに、維持管理費用は高いという、組織泣かせの代物である。分析結果が画面上に表示されると、長谷川は画面を九郎に向けた。わかるか? という意味だ。
「やたらと数値が大きい項目があるけど、これがなにかわかるかい?」
「む。δ-MD(デルタ神秘酵素)は神秘のかかわる酵素、だったか」
「それだけわかっていれば十分かな。δ-MDは科学的に分類すると逸脱酵素と呼ばれるものだ」
本来なら存在しない筈のものなのだが、何らかの理由で神秘と接触すると、正常な物質が変質することで、検出されるようになる。つまり四六時中、神秘と接触している九郎のようなケースでは常に高値を示すものであり、どのような神秘なのかどうかを測ることはできない。
最初にこの酵素が発見された際、あまりにも微笑で研究者が見落としてしまったという逸話もあるが、現在では技術の進歩により、神秘との接触があったかどうかをするための基本的な指標となっている。
他に代表的なものはTMR(トータル神秘反応)で、こちらも神秘との接触の程度を測るものだ。触れた神秘の強弱によって数値が変動する指標で、片方のデータが出て、他方が出ないということもある。
例えばδ-MDが高値を示しているのに、TMRが未検出もしくは低値の場合は、「神秘と接触はあったが、それは弱い神秘との接触だった」と考えられるわけだ。もう一つの基準数値があって、大抵の場合、三種の指標でもって、神秘に対しどの程度の資源を投入するかが決められる。
この三つの検出値がいずれも基準を大きく超えたことからも、今回の神秘薬物は相当に危険なものだということだ。だがこれは既にわかっている情報に過ぎない。
「数値はわかったけど、蒼子さんはなにを調べてるんだ?」
「もう少し深く、ね。TMRとかは神秘を示す数値が出たというだけ。もう少し詳しく調べているの。霊絡をね」
経絡という言葉があり、これは「気」の通り道だと言われている。全身に張り巡らされており、衛士のような使い手の中には卓越した気の使い手も存在する。
静脈認証のように、この経絡も個々人に固有のもので、固有の経絡から検出される「気」についても、その特徴が他人と一致することはない。同様に神秘や幻想にも固有の特徴が存在し、この特徴が霊絡だ。
神秘にとっての指紋や線状痕のようなもので、一つとして同じものは存在しない、とされている。断定できないのは、神秘は常に常識や科学を嘲笑うからだ。
協議会のデータバンクには無数の霊絡が登録されており、これと神秘薬物の霊絡を比較するのである。最大の問題は、コンピューターが識別して一瞬で答えが出る代物ではない点だ。
指紋は十二か所の特徴点が一致すれば同一人物だとされるが、これは最近では機械化がされていて、時間は短縮されている。霊絡に関してはまだそこまで技術が追いついておらず、最終的には人の目による確認が必要になるのだ。
神秘薬物と似た霊絡を持つ神秘のデータ、似た事件で採取された霊絡、更に他の霊絡も机の上に並べられている。それらを神秘や幻想を見るための霊子顕微鏡で一つ一つ覗き込んで地道に検証する他なく、一致したとしても、結果が覆されることもあるのだ。
「けれど霊絡を偽装や誤魔化せるような神秘となると、確認されているものは二例のみ。協議会と同盟が一つずつ持っているだけ。他にもある可能性は否定できないけど、薬物のように大量流通するようなものに、霊絡を偽装するような手間をかけても費用対効果が薄い」
蒼子は口を動かしながらも手を止めない。画面上に霊絡情報が複数、拡大表示され、神秘薬物の霊絡と、参考霊絡とを交互に確認し続け、ときにチェックを入れている。何個目のチェックを入れたのか、蒼子が大きく息を吐き出して顔を上げた。
「先輩、お願いできますか」
「お~う」
研究室の先輩にして、研究員でもある歌川が返事をする。年齢は三十代後半。結婚して二児を儲けるも、現在は離婚調停中。年収は四百五十万。結婚前にあった五百万の貯蓄は、家や車の頭金、子供の教育費などであっという間に消え、残りは僅か。
専業主婦でソーシャルゲームにハマっている妻にパートを提案したところ、それは約束が違う、と酷く怒られ、ケンカに発展してしまった。怒りが収まらず、近所の居酒屋に出かけ、三時間後に帰宅したところ妻も二人の子供も消えていたという。
誘拐だ、と騒いだが後の祭り。警察は民事には介入せず、妻とは連絡が取れず、義理の両親からも拒否されてしまう。
精神的にかなり追い詰められた歌川は、かえって仕事に打ち込むようになり、最近では研究室に泊まり込むようになっていた。研究棟のシャワー室で汚れを落とし、研究室の床に寝袋を敷いている。身だしなみへの意識は急激に低下していて、三、四日は髭が伸びっ放しなんてのはざらだ。
さすがに眠りが浅いので、デスクの下に仮眠スペースを作ろうと考えているらしい。既にネット通販で、「最高の睡眠を貴方に」との煽り文句の枕を購入してもいた。ポイントだけで買えた、と騒いだ挙句にお気に入りのコーヒーカップを割ってショックを受けるという、どこか間抜けなエピソードもある。
歌川は後頭部をボリボリと掻きながら、蒼子同様に交互に確認を行う。
「しかし、蒼子、これは一体なにを見ているんだ? この一件には神秘薬物がかかわっていることはもうわかっている。この神秘薬物は過去にどこの国でも確認されていないことも、霊絡からもわかっているだろう?」
腕組みをしながら椿が質問をする。椿は戦闘要員であり、体を積極的に動かすことを好む。顕微鏡を覗いたり、検出されたデータを比較したりといった、屋内での地道な作業を苦手にしていた。椿の性質をよくわかっている九郎と蒼子は苦笑を浮かべる。
「調べているのは別のことよ」
「というと?」
重ねての椿の問いに、蒼子は指を動かして応じた。




