第一章 《死天使の像》 ~十~
まずは箱田という名の売人を探す。本名である可能性は低い。人相もマスクとサングラスと帽子で隠していたとのことで、こちらも難しい。
性別は男、年齢は二十代から三十代、中肉中背ということくらいしかわからない有様だ。
相手の記憶を無理矢理引き摺り出す方法もあるにはあるが、記憶回収を専門とするスタッフを呼んでくる必要がある。それも海外からだ。到着までの時間と、それまでの被害拡大を考えると、とても現実的ではない。
九郎は自分の持つコネクションの中から、どれが使えそうかを考えるが、さすがに今回は難しそうだ。絞り込もうにも、わかっている範囲の情報では役に立たない。
さてどうするか、と考えていた九郎の背中に、蒼子の声がかかった。
「椿、九郎、少し付き合ってちょうだい。研究室に行く」
蒼子の提案は突破口になりうるものであると同時に、椿と九郎の二人の顔から血の気を奪うという、かなり難しいことをいとも容易くやってのけた。
「わかった、後から追いかけるわ、蒼子」
「それだと時間がかかるでしょ。乗っていきなさい」
「いや、蒼子さん、俺も自転車で……」
「なぁに九郎? あたしの運転技能に不安でもあるわけ?」
「技能に不満はないんだが……なあ、師匠?」
「ああ。技能には」
蒼子は現在二十歳。高校卒業と同時に車の免許を取得した身でありながら、走行距離は既に十万キロを超えているという。運転が好きで、長距離の車移動がまったく苦にならない種類の人間で、入職間もない頃は支部の運転手としてハンドルを握ることもあった。
現在は蒼子が運転する車に乗りたがる人間はいない。常城支部内外での共通見解だ。
蒼子の運転を喜ぶのは、絶叫系アトラクションの好きな、なにも知らない子供くらいのものだろう。大人にも絶叫系が好きな人間は存在するが、ああいったアトラクションは基準や審査を通過した、いわば「絶対安全なスリル」である。
蒼子の運転には安全は保障されておらず、そのため協議会の大人たちは蒼子がハンドルを握った車には乗りたがらないのだ。危険は神秘に関わるときだけで十分。平時の移動手段にまで危険は必要ない。
この認識は椿と九郎も持っている。
しかしこの世というものはままならず、危機意識を抱いていたとしても、危機から逃れられるとは限らない。九郎たちにとって今日という日がそれに当たり、腹立たしいことに、部下を監督する責任を持つ上司は、関わり合いになりたくない、とばかりにそっと視線を外した。
常城市立大学は学生数で見ると、そこまで大きな大学ではない。開設者が小規模校を念頭に置いていたためで、その分、学生への支援は手厚い。
大学自体が市に寄贈されて市立になって以降、常城市の財源が豊富なこともあって、研究に投じられる資金はアジア圏でもトップクラスという側面もある。ただし最近では、文系に対する予算が削られているとの不満がチラホラと出ているらしい。
逆に予算が毎年のように増額されている部署もあり、谷町研究室もその一つだ。市大最古参の谷町教授の研究室で、蒼子は大学院生でも大学四年生でもないがこの研究室に所属している。
理由ははっきりしている。谷町教授が協議会の協力者であり、研究室に対しては協議会も資金を出しているからだ。
研究室の入っている建物は駐車場に面していて、蒼子の運転する国産軽はアスファルトを派手に鳴らしながら駐車した。たかだか最高時速一四〇キロ、法定速度を二〇キロばかりオーバーした程度なのに、国内最高落差のジェットコースターに乗ったときよりも体力の消耗が激しかったのはどんな理屈なのか。
これで未だに警察の厄介になったことがないというのだから、蒼子は神様に愛されている。あるいは悪魔に贔屓されているだけなのか。
どちらにせよ蒼子の免許証には一点の減点もない。運転手の蒼子はご機嫌な足取りで降車し、助手席の椿と後部座席にいた九郎は青い顔をしてヨタヨタと降車した。
蒼子が右手でキーを弄びながら颯爽と歩いていく様は、実に楽しそうだ。美人で背も高いモデル体型の蒼子が歩くと、それだけで周囲の視線を集める。男は好色そうな視線、女は嫉妬の視線が多い。向けられる蒼子はとうに慣れてしまっているようで、気に留めていない。
後ろを振り返って、九郎たちを早く来るように手を振る。蒼子は一直線に研究棟に入り、エレベーターの待ち時間の間に缶コーヒーを自販機で買う。エレベーターは地下二階で停まり、突き当りにある研究棟の扉を開く。
「さて」
蒼子が振り返ったとき、九郎と椿はまだ研究室に入っていなかった。車酔いがまだ治っていなかったようだ。
軽くため息をついて、入り口扉に張り付けられている小さなマグネットボードに目をやる。在室と不在の二つの枠があり、研究室所属者の名前が書かれた丸マグネットが複数、貼られている。マグネットの移動忘れがない限り、在室者は二人だ。
蒼子は自分のマグネットを「在室」の枠に移動させ、入り口ドアを押し開ける。同時に「谷町研究室にようこそ」と合成音声が迎え入れた。
谷町教授は市大で教鞭をとる傍ら、三十代の頃から警察に協力していた人物で、協議会との関係は四十を過ぎてからのことだ。表で発表した論文の数はさして多くはない反面、神秘に関わる世界では一線級の研究者として知られている。
いつだったか、《竜玉》に覚醒した直後の九郎を丹藤たちが調べに来たときに用いた検知器、あれの開発にもかかわっていた。現在はチューリヒに出張中とのことだ。
蒼子はさっさと自分の席に向かい、椅子に掛けっ放しにしていた白衣に袖を通す。白衣の効果というものは素晴らしく、着ただけで一般人とは一線を画しているように見えてしまう。通路を挟んで向かいに座る男が画面から目を離した。
「よお、お疲れさん、汀さん」
挨拶をしながら右手を上げてきた。屋内作業中心で日に焼けることの少ない白い右手には、ビールジョッキ(大)が握られている。中身はコーヒーだ。
「こんにちは、長谷川さん。進捗は?」
「まあまあかな……あれ? 一人?」
「椿と九郎はもう少し後で来る。車に酔ったらしい」
貧弱で困る、と呟く蒼子に対し、長谷川は二人の若者に心から同情した。
三〇代半ばの長谷川は秘蹟協議会所属の研究員で、現在は応援を兼ねて谷町研究室に所属している。プロポーズを考えている彼女がいるが、蒼子に見とれてしまった場面に彼女が居合わせていたことで、今はかなりギクシャクしているらしい。下手な言い訳を並べたことも大きく影響している。疑いようもなく長谷川自身の責任なので、どうヨリを戻そうかと必死に頭を抱えていて、少し仕事の精度が下がっていた。
「それで? 進捗は?」
「彼女との仲についてならノーコメントで」
「聞いてない」
少しは聞いてほしい、と長谷川は思うが、どう繕っても言い訳にしかならないことはわかっているので、さっさと仕事に逃げることにした。
一枚のA4用紙を取り出し、少なくとも常城支部のものよりも高価な机の上に置く。検査数値が羅列しているもので、数値の隣には基準となる数値が下限から上限まで書かれている。
「これは前に見たわよ。神秘反応は既に出てるでしょう」
「え? すまん、間違えた。こっちだ。もう一つ別のデータが出た」
「別のデータってのは何なんだよ……ふぅ」
到着したばかりの九郎の息はまだ整いきっていなかった。後ろの椿も似たようなものだ。ノックもせずに研究室に入ってきたことは褒められたことではないが、何度も出入りして顔なじみになっているので礼儀違反というほどではないだろう。
「お、万城目君に綾瀬君、久しぶりだ……大丈夫だったか?」
長谷川の関心は、衛士と衛士候補の顔色の悪さにこそ向けられた。




