第一章 《死天使の像》 ~九~
笑顔を見せた椿は、そのまま淀みない動作で喫茶店のカウンターに入り、引き出しを開ける。中から一枚の書類を取り出して、サインをし、丹藤の前に差し出した。始末書だ。
協議会で採用されている始末書は、赤い罫線で書かれているため、通称「赤罫」と呼ばれている。紙だけでなく、ネットワーク上で処理できるタイプの二種類が採用されているのに、なぜか現場では未だに紙媒体のものが幅を利かせていた。
「あのね、椿君。事前にサインをするだけで済むように書いておくっていうのは、ちょっと違うんじゃないかなあ」
「蒼子さんに習いました」
「なんてことを教えるんだ、汀君」
「椿も九郎も事務関係の仕事が苦手みたいだから、ちょっと手助けをしただけですよ。それより矢野先輩、まだこの話題を続けるの?」
「蒼子くん、俺はだな」
「名前で呼ばないで」
ぴしゃりと言われ、矢野は口をモゴモゴさせた。これが、矢野が九郎を攻撃した理由の一つでもある。
矢野が蒼子に好意を抱いていることは明らかで、蒼子にその気がないことも同じくらいに明らかだった。矢野は蒼子にしつこいくらいに言い寄ってもいて、蒼子と気安く話す九郎への意趣返しの考えもあったのだろう。矢野が口を閉じたタイミングを見計らうようにして、木山が手を叩いた。
「それじゃあこの話は一旦、ここまでだ。規則違反の処分は、まあ、椿君は先んじて処理してしまったが、九郎君への処分は後にして、まずは事件解決を優先する。それでいいですね、支部長?」
「九郎の分も出しているんだが?」
椿の左手にはピラピラと未記名の始末書が揺れていた。木山はこめかみを抑え、改めて丹藤を見る。
「それでいいですね、支部長?」
「ああ、うん、まあ」
どうにも丹藤の歯切れは悪い。
「丹藤さん?」
「うん? ちょっと待ってくれるか」
九郎の声掛けにも、手を顎に当てて何事かを考えこんでいる。顎に手を当てるのは、丹藤がなにかを思い出そうとするときの癖だ。そしてこういうときの丹藤は、思い出す作業が一段落しない限り、他のことは手付かずになる。
九郎たちは顔を見合わせて頷き合う。木山の言葉通り、まずは箱田という売人を追うことだ。椿は右手を握りしめた。
「九郎、お前の情報源は頼れそうか? 箱田じゃなくても、別に流している奴のことがわかるかもしれないし」
「わからない、が聞いてみる」
「今回はわたしも一緒に行くからな」
「了解だ、先輩」
「師匠と呼べと言ってるだろう」
九郎の情報源、に矢野が露骨に眉をしかめ、冷ややかな目線の蒼子に気付いて更に露骨な咳払いをした。
九郎にしてみても、独自の情報網を他人と共有することにはリスクはあるが、これ以上、単独行動を続けると評価が著しく低下する。まだ衛士候補生の身分で、規則違反を繰り返すことは避けるべきだと判断した。
情報源は他にあるし、あの店の店主は必要時にはそうすることに事前に同意している。矢野に言われて教えるのが癪だというだけの話だ。
「《死天使の像》!」
丹藤が急に大声を上げた。酒に酔っぱらって大声を上げたことはあっても、仕事中に声を張り上げることは滅多にないのに、このときは椅子から立ち上がってもいたのだ。
二十年ほど前、丹藤がまだまだひよっ子で、酒の美味さを知ってはいても深みに嵌ることのなかった頃、中米のある国でかかわった事件だ。当時、主に中南米で猛威を振るっていた神秘に対応したが、そのときの神秘の名が《死天使の像》と呼ばれるものだった。
元は単に天使像と呼ばれていた、成り立ちもさして物騒ではない神秘、いや、むしろどこか心温まる要素すら認めた神秘である。
戦争に赴く兵士が無事に戻れることを祈って所持していたもので、そのうちのいくつかが持ち主の願いを受けて徐々に変質する。確実に戦争から戻ってこれるように持ち主の身体能力を底上げし始めたのだ。
少なくとも最初は、身体能力が《天使像》の能力だと思われていた。
違うことがわかったのは、戦争中、兵士たちの間で麻薬の使用が広がり始めてからだ。現場の兵士が手にすることのできるような、粗製乱造の質の悪い薬物。量も大して出回らない。であるのに、強烈な多幸感を経て中毒になる兵士が続出したのだ。《天使像》の能力は身体能力の強化などではなく、効果効能を向上させることだった。
このことに気付いたある麻薬組織は、《天使像》の力を麻薬の効果を高めることを実行、非常に強力な薬物生成に成功してしまったのである。
たった一度の、極めて少量の使用で重度の依存症に陥れることのできる、大量生産の可能な合成麻薬。しかも使用中は相手の意識は前後不覚になるほどの酩酊状態にし、酩酊中は誘導の方法によってはこちらの指示に従う人形のようになってしまう。
驚くべきことに、使用中は強烈な多幸感だけを覚えていて他のことは忘れているのだ。
人を思い通りに操れるようになることで暗殺の手段として効率的に使用できる。前後の状況は覚えていないことで、捕まっても組織にまで追及の手が迫るリスクも小さい。しかも使用された薬物から神秘の痕跡を見つけるのは、協議会のような専門機関は専用の道具がないと不可能だ。
この麻薬を生み出した組織の規模は、泡沫と呼ぶに値する程度でしかなかったが、《天使像》の麻薬のおかげで急速に成長した。競争相手を潰し、製造方法を独占し、依存者を容易且つ大量に作り、莫大な利益を生み出す。
その危険性の高さから、協議会では《天使像》のことを《死天使の像》と呼称していた。神秘薬物の暗殺者は、麻薬組織間での抗争や治安機関の戦いにも多く投入される。
そんな中、別の麻薬組織の人間が暗殺された。
殺されたのは神秘薬物を作っていた組織の、上部組織のボスだ。神秘薬物の値下げと供給増を要求してきただけでなく、製造方法の譲渡まで迫ってきた上部組織のボスに対して、生産組織側が拒絶したことで深刻な対立に発展。お互いに死者を出したことで引くに引けなくなり、更に他組織が入り乱れ、抗争は激化の一途を辿る。
状況の変化は、協議会が介入するまで待たなければならなかった。血塗れの混沌の現況に神秘がかかわっているとわかり、丹藤たち秘蹟協議会が現地に入ったのだ。
派手な銃撃戦やカーチェイス、買収されている現地警察を出し抜いての迅速な行動など、映画顔負けのアクションの末、丹藤たちは確認されていた三つの《死天使の像》すべてを押収、処分することに成功する。
処分の過程で生産していた組織を含めいくつもの麻薬組織を壊滅させた協議会だったが、生産業者の資料から推測して、四体目が存在することが確認された。丹藤たちは必死になって最後の一体を探し続け、遂には見つけられなかったのだ。
押収を免れた《死天使の像》はその後、きな臭い地域を中心に何度か存在を確認されるも、尻尾を掴むことができずにいたのだが、今回、遂に日本国内に入ってきたのである。
「丹藤さん、そんな危険な代物、こんなに時間をかけないと思い出せなかったのか」
「うっさいよ、九郎君。とにかくだ、この《死天使の像》は希少性こそ低いが危険性が非常に高い代物だ。加えて、今回の神秘の扱い方から見て、使用者はある程度の神秘に関する知識を持っていることが考えられる。素人の麻薬組織なんかじゃない分、より厄介になる可能性を考慮して、迅速に回収するように」
刑事ドラマなら「一刻も早くホシを上げろ!」とでも発破をかけられる場面、丹藤の声はどこまでも事務的だ。
九郎たちは微妙に気合が入らない状況で店の外に出た。気合が入らなくとも己の役割を果たさなければならず、どこから手を付ければいいのか俄かに判断がつかない。
丹藤も、椿も、支部の誰も口にしていないが、今回の事件に関しては懸念事項がある。
依存性が高く、肉体をも変容させる危険な神秘薬物の蔓延ではなく、《死天使の像》という神秘を用いての大規模テロ、あるいはその実験か準備を行っているのではないかとの懸念だ。
果たして薬物の売人程度に、これほどまでに大それたことができるだろうか。事件の裏面に踏み込むためにも、今は足を動かさなければならない。




