第一章 《死天使の像》 ~六~
足音が歩いていたものから走り出す。口元を抑えるのか、前に回り込むのか。どちらにせよ、椿が付き合ってやる必要はない。こんなところでたむろしているような連中、余罪が出てくるだけだろうから警察を頼りなどするまい。
決めた。さっさと片付けよう。
決断と行動の間に、無駄な時間差はない。後方からの気配が大きくなる。まず暴力を振るって恐怖を与えてから脅し文句を並べるつもりだ。
見え透いた行動に対処することは簡単なことだ。椿は後ろを見ることなくステップだけで男のタックルを躱す。唐突に目標を失った男は闇の中にあってもわかる間抜けな顔を晒しながらバランスを崩し、転ぶ。
「バカ野郎! なにしてやがる、さっさと立て!」
ボスの言葉に立ち上がった男は、もう一人と一緒になって椿を取り囲むように動く。椿は豊富な戦闘経験は、敵の力量を正確に見定める。
子分の男二人は取るに足らない。視線は揺らいでいるし、取り出したナイフは小さく、構えも未熟。振り回すか、体ごと突っ込んでくるか。いずれにしろ脅威ではない。
ボスの目も口調も態度も興奮しているのは、戦意からではなく、暴力で屈服させた女を辱めることを想像してのことだ。ナイフを取り出していないのは必要ないと判断したからだろうが、これ見よがしにナイフの柄をちらつかせているのは、威嚇目的だとわかる。
子分を怒鳴りつけたのも同様だ。子分に対する優位性を確認すると同時に、大声で椿を震え上がらせる。これで相手が椿ではなく、普通の女の子なら十分に効果があったろう。しかし男たちに囲まれた椿の視線も感情も平静そのもので、水面のように揺らぐことすらない。
「こんばんは、いい夜だな」
「は?」
落ち着いた声での挨拶に、ボスは間抜けな声を出すことしかできなかった。
「な、なに余裕見せてやがる! 自分がどうなるかわかってんのか!」
「君たちは薬の売人なんだろう? 質問したいことがあるんだ」
男たちは戸惑っていた。複数の男に取り囲まれていながら、恐怖やパニックに飲み込まれることなく、落ち着き払っている。どころか、女から醸し出される雰囲気は逆に男たちを飲み込んでしまいそうだ。少なくとも子分の二人は既に飲み込まれている。苛立ちの募ったボスが喚くようにがなる。
「ふざけんな、てめえはこっちの言うことを聞いてるだけでいいんだ。泣き叫んでるだけでいいんだよ!」
どこかもたつきながら取り出したナイフを椿に突きつける。刃渡り三十センチのナイフを目にした椿の感想は、なにもなかった。脅威度が上昇したとも感じず、むしろ手入れされていない刃物を可哀そうだと感じたほどだ。
ボスの男は中学生時代からナイフを持っていた。小学生の頃から素行は悪かったが、中学進学後はより拍車がかかり、最終的な学歴はお情けで得た中卒だ。
ほとんど家に帰ることもなく出歩き、気に食わない相手や得物を見つけると、力の象徴であるナイフを向けてきた。相手の目と意識はナイフにくぎ付けになり、あるいは素直に金を出し、あるいは血を流しながら地面に伏せることになる。
年下の、まだ学生の女など、震えあがってなにもできなくなるのが常なのに、今、目の前にいるこの女はまるで違った。つまらなさそうに落ち着き払っていて、自分や子分、建物などを静かな目で眺めやっている。
こちらを測っている? 逃走を考えている?
わかるのは、この女はナイフを突きつけられ、男たちに囲まれているこの状況を微塵も心配していないことだ。落ち着いていて、冷静で、平然としている。
ボスの頭に流れる血流量が爆発的に増加した。複数で、武器を見せて思い通りに動かす。獲物に対する作戦はこれともう一つだけしか持っていないから、通用しなかった時点でボスが採るべき手段は限られていた。
椿は別に落胆はしていない。これから起こることにはややうんざりしているが、売人を引っ張り出すのは狙い通りだ。彼らの狙いがなんであれ、椿は彼らに金も快楽も与えない。代わりに与えられるのは、恐らくは彼らの人生で味わったことのない災害のような苦痛だけだ。
突き付けられたままのナイフには敵意はあっても殺意に欠ける。暴力は想定しても戦闘を想定していない見せかけの武器。
椿の動きは果たして男たちに見えただろうか。見えたとしても認識できただろうか。椿は左足から踏み込み、一瞬でナイフの軌道の外に出る。ボスが反応すらできないでいると、蹴り上げられた右足がボスの右手首を砕く。
持ち主の手から離れたナイフは重力に掴まるが、アスファルトに掴まる前に椿の手に掬い上げられて軌道を変えた。
子分の一人に右上腕にナイフが突き刺さる。子分は自分の武器を落として、空いた手で必死に傷口を押さえるが、大量の出血を押し留めることはできていない。
もう一人の子分は、麗しい仲間意識を最大限に発揮して泣き叫ぶ仲間を見捨てて逃げ出した。傷を負った子分も敗北と血に塗れながら走り出す。
ボスはかつてない激痛に叫び声を上げた。同時に相手の女はバカだと確信する。女は自分から目を逸らしているのだ。二人いる子分に意識を奪われていると思ったのだ。腹が立ち、勝機を見つけたと思った。
ボスにはまだ手がある。小さいがもう一本のナイフを隠していた。海外の軍人もののドラマや映画に影響されて、足首に括り付けてある。蹲る振りをして足首に手を伸ばす。まず足を刺してやる。自分を蹴った不愉快な足を刺し、逃げる手段も奪う。
その後は、どんな目に遭わせてやろうか。血を撒き散らす女に、思いつく限りの欲望を叩きつけてやる。泣こうが喚こうが叫ぼうが構わない。死んだとしても知ったことか。警察からは逃げおおせてやるし、捕まったとしても拍がつくだけだ。
そんな先のことよりも、今はまずこの女だ。後のことは、後で考える。逃げ出した子分の始末も含めて。
椿が子分二人に注意を向けたのは、この場から役立たずを外すことが目的だ。どう考えても子分たちがなにか知っているとは思えない。薬物の売人ですらなく、力のある相手に尻尾を振ってついて行っているだけの、事件解決において一片の価値もないのだから。
ボスが蹲ったことは当然、把握していた。本人は上手く誤魔化せていると思っているかもしれないが、第三者の目からは、武器を取りにしゃがんだことが見え見えの挙動だ。ナイフの使い方も、戦闘時の体の動かし方もまったくわかっていない。
ボスがナイフを突き上げてくる。椿の目からすると、ナイフを取り出す動きも、ナイフを突き上げてくる動きも、かなりもたもたしたもので、うんざりするのが無理というレベルだ。
ナイフをついてくるという単純極まりない、且つ鈍重な動き。椿は易々と攻撃を避け、左手首を掴み、一気に捩った。
ボスの手からナイフが滑り落ちる。だが椿にはまだボスを絶望させるつもりはなかった。捕えたボスの左腕をボスの背中に捩りつける。ブチブチ、と腱が千切れる音が闇の中に響き、ボスは大量の空気を口から吐き出し、だが椿の予想に反して両目にはまだ敵意が燃えていた。
「これについて知っているな?」
椿はボスの鼻先に半透明の薬包を突き付ける。袋の中には白い粉。売人には見慣れたもののはずなのに、ボスは大きく目を見開いた。明らかに動揺している。
動揺が走ったのは椿も同じだった。ボスの瞳孔が変形したのだ。丸い瞳孔が長方形に変わる。同時に椿は得心も行く。椿がちらつかせた薬は九郎が入手したもので、見た目だけでは他の薬と見分けがつくものではない。なのにボスは一目で、一瞬見ただけで反応を示した。
それも身体的な変化が生じるという、常識ではありえない反応を。
「貴様も神秘にかかわりがあるのか」
「神秘だぁ? なに訳わかんねえこと言ってやがる。このクソ女が、こんなことして無事で済むと思ってんのか!」
ボスの言葉を椿は半分だけ信じることにした。この男は神秘にかかわっている。ただし、それが神秘だとは知らないのだ。神秘の影響がある薬物を、そうとは知らずに売りさばいている。売りさばいているだけではなく、自分でも使用しているのだ。体内に取り込んだ神秘の影響で、瞳孔が変形したのだろう。
椿は念のため、九郎も使っていた神秘検知器をボスに近付けた。
ボス自身は自分の身に起きた変化に気が付いていなかった。ほんの少し、気が遠くなった感覚を覚えただけだ。年下で華奢な女に腕を捩り上げられて――腱が千切れていることは自覚していない――いるのは反吐が出るほど不愉快だし、必ず殺してやると誓っている。己の内から性的な欲望が消え失せていたことにも、ボスは気付いていなかった。
ポキ。
軽妙な音がした。どこから? 強烈な殺意が渦巻く頭が急激に冷やされ、ボスはこの音の正体を突き止めなければ、という気持ちになった。
ボキ、ベキ、ゴキ。
また音が響く。昔、自転車で転んで骨折したときの音に似ている。自転車は怒りに任せて壊してしまったが、今日はなぜか、もっと別のものが壊れてしまうような気がした。
唐突にボスの全身を痛みが襲った。強く、痺れを伴う鋭痛。あまりの痛みに、ボスは凍り付いたかのように捩り上げられたままの姿勢で固まった。
燃え盛る痛みが襲いかかってくる。背中側、つまり生意気な女が与えてくる痛みじゃない。ボスは、この痛みが己の内側から広がっていくものであることを自覚した。
ボキ。
内側の痛み、胃部周囲に生まれた痛みが背骨を這い上がって頭や顔の骨に筋肉にまで伝わってくる。
ベキ。
灼熱の痛みは喉をも襲い、空気を吸うこともできなかった。
ゴキ。
あまりの熱さに晒されたせいか、強烈な喝きを覚える。抗おうなどと思いもよらないほどの。学生時代から炭酸飲料が好きで、一日に四から五リットルという中毒レベルで飲んでいたが、これほどの口喝はかつてない。
手元には炭酸飲料はない。近くには自販機やコンビニも見当たらない。今すぐにでも走り出したい気分だが、自分の動きは抑えられている。
誰に?
そこに思い至った瞬間、強烈な渇きは激烈な衝動へと姿を変えた。姿を変えたのは本能だけではない。肉体をもが変化したのだ。
大丈夫、もうすぐとても気分が良くなる。根拠もなく、ボスは確信した。
広背筋が急激に発達し、ボスの衣類が破け散る様は、さすがの椿も驚く。左腕は椿が抑えているが、右腕は手首を砕いただけなので振り回すことはできる。
椿のウェストよりも太くなった、金属バットやゴルフクラブよりも殺傷力の高い右腕が振るわれた。直撃なら首から上が吹き飛ぶ。掠っただけでも頭蓋骨内部の脳に致命的なダメージが加えられる。
振るわれる側に凶悪な凶器は、同時に振るう側にも無視できないリスクがある。鍛え抜かれていないボスの肉体は、急激に肥大化した筋力と、可動域を無視して強引に動かしたことで悲鳴を上げた。
悲鳴と唸りを上げて振るわれた腕。威力はある。速度もある。だが見え見えの攻撃など椿の脅威にはならない。
だから椿が驚いたのはまったく別のことだ。計測の上では確かに神秘の反応が検知された。だがその数値は微々たるもので、肉体の変容をもたらすほどではない。辛うじて神秘の痕跡がある、程度でしかないのだ。
振るわれたボスの腕を潜り抜け、膝でもってボスの顎を蹴り抜く。血と歯が飛び散る。間違いなく顎も砕けた。ボスは今後の人生において流動食が手放せなくなったが、これまでにしてきたことを考えると同情の余地はないように思えた。
如何に肥大化して強力な力を得た肉体でも、意識と切り離されては動きようがない。小刻みに痙攣しながらアスファルトに沈むボスに、椿はもう一度検知器を近付ける。検知器が示した数値は高値を示したが、一時的なもので、ボスの肉体の変容が収縮していくに合わせて数値も低下していった。
しゃがみこんでボスの頸動脈を触知する。力強さはないが脈打っていた。




