プロローグ 《竜玉》 ~二十三~
目を開けた九郎の前には、どこか見慣れた天井が広がっていた。教室の天井と似た材料が使われているからだろうが、周囲を見回すと教室とは違うことがわかる。プレハブというほどではない。しかし、清潔感はあれど高級感のない殺風景な作りは、教室によく似た雰囲気だ。
どうしてこんなところにいるのか。混乱、するよりも先に九郎は頭を巡らせる。
思い出せ。なにがあったのか。なにが起きたのか。
順番に、少しずつでいいから思い出す。
古びた工場、血に汚れた巨大な爪、不愉快なニヤついた男の顔、内に渦巻いた怒り。そして、視界を埋め尽くした巨大な炎。
「そういう、ことか……」
九郎の右手が胸元の石に伸びる。ヒンヤリとして硬質な感触。石の色は鮮やかで透き通る青だ。
九郎の視線が二本の腕に落ちる。まだまだ男らしさというものからは縁遠い、細い腕だ。
だが九郎は朧気ながらも記憶していた。この細く、頼りない腕が、鉄をも引き裂けそうなほどに力強く、強大な力を持った腕へと変化したことを。
夢、というにはあまりにもリアルだ。なにより九郎自身、あれを夢だとは思っていなかった。起きたことはすべて、厳然たる事実だ。
秒針が回る音が聞こえてきた。九郎の寝ているベッドは、安売りのパイプベッドに、布団を乗せたものだ。アスリート御用達の高反発マットなど使われていない、寝心地を追求したものではない。とりあえず横になって体を休めることができる程度のものだ。
それでも休めたことはありがたい。体力は回復していると判断できる。残りの問題は、ここがどこか。ここからどう脱出するか、だ。
途切れ途切れの九郎の記憶でも、ここまで自力で来た映像はない。廃工場で竜化して暴れたのだから、ここまで来たとしても、竜化したままだったかもしれない。その場合、普通ではない騒ぎになっているはずだし、式が積極的に動いているはずだ。
竜化が解けた後に意識がないままにここに歩いてきた可能性はどうだろうか。バカバカしい。九郎が身に着けているのは浴衣――この場合は病衣というべきだろうが――だが、九郎は浴衣自体を持っていない。見覚えのない部屋に来て、浴衣を見つけ出して、きっちりと着た上で意識を失ったとでも? あり得ない話だ。
何者かが九郎をここまで連れてきた。わざわざ着替えさせて、ベッドに寝かせてくれたことから敵意は低いと考えるが、油断できる材料にはならない。
ガチャ。
ドアが開けられる寸前、ドアノブが回転する音を聞いて、九郎は警戒と共に視線を送る。
「!」
入ってきたのは少女だった。九郎と同じ年頃の、凛とした雰囲気を纏った、それでいて曇りのない笑顔を浮かべている。抱えているA4サイズのファイルだけは、年齢には似つかわしくない。年齢からすると大人びた印象のスポーティな装いで、動きやすさを優先しているとうかがい知れる。肩まで伸びる栗色の髪を、右側だけ赤い和柄の結び紐でまとめている。
「ほう、目が覚めたか。気分はどうだ?」
少女は足早に九郎に近付いてきた。かと思うと、額に手を当てて熱を看たり、脈を測ったりしている。
「ちょ、」
「動くんじゃない……ふむ、バイタルサインは正常だな。大したもんだ。あとは」
少女の手がベッド横に伸びる。置かれていたのは宝石のついた磁石コンパスのような道具だ。コンパスが九郎に向けられ、少女が何事かを呟く。三秒後、コンパスに就いた宝石は青く輝いた。
「神秘の過活性もなし。見事に落ち着いている。良かったな。多分だが、もう大丈夫だ」
「えっと」
「ん? なにか質問か? わたしが答えられるものなら答えるぞ」
「いや、君は誰で、ここはどこなんだ? 秘蹟協議会なんだろうなってことは、なんとなくわかってるんだけど」
式との話を通じて、秘蹟協議会という組織が動いていることは知っていた。病院では協議会の人間との接触も――巻くことに成功したが――ある。前後の状況を考えると、自分の身柄が協議会の手に落ちたのだろうことは推測できた。
正体のわからない、病院では監視までしようとした組織。普通なら最大にまで警戒するところだ。九郎がそれをしないのは、九郎自身がここにいるから、に他ならない。
もし秘蹟協議会が害を及ぼしてくるような組織なら、式がどんな手を使っても九郎の保護に動く。病院の個室を手配するような式が、こんな粗末なベッドに置いたままにしておくはずがない。式が動いていないということは、
「こいつらは俺をどうこうしようって奴らじゃない、てことなんだろうな……少なくとも今は」
安全の判断基準が世間一般と大きくかけ離れていることは、九郎も自覚していた。式に頼りっぱなしになることがどれだけ危険なことなのかも。
「なにか言ったか?」
「いや」
「そうか。では言葉が足りなかったことは謝る。すまなかった。わたしが誰か、だったな。わたしは万城目椿。君の言う通り、秘蹟協議会の人間だ。正確には協議会所属の衛士だ」
衛士とは現場の最前線で神秘に対抗する職種とのことだ。
「衛士、ですか。俺、いや僕は綾瀬九郎、です」
「綾瀬君だな。よろしく」
万城目椿と名乗った少女は、驚いたことに手を差し出してきた。同年代の少女で、挨拶で握手を試みてきた例など、九郎は知らない。知らないが礼儀として、九郎は椿の手を握り返した。驚く。女子の手などロクに握ったことのない九郎だが、こんなに、柔らかさのないものだとは思えなかった。
「状況の説明をするが、構わないか?」
「え、ええ、お願いします」
椿は手を放し、A4のファイルを開く。
「君は神秘所持者だ。それも極めて強力で、危険な神秘の。そして我々が現場に到着したときには暴走状態だった。我々は現場に介入、君の暴走を止め、神秘を鎮静させるための処置を実行。その後、君をここに運んだというわけだ」
恐ろしく真っ正直な説明だ。
誤魔化しがないのはいいこととして、正直すぎてかえってわかりにくい。これが素人だったら、一つとして理解できないに違いない。暴走や鎮静といった単語の意味はわかっても、文章の意味は理解できない。九郎は式と通じて神秘のことを知っているから、拙い説明でもなにを言わんとしているかを理解することができた。
「そ、そうですか」
「苦労した。なにしろ君は希少な融合型だ。ああ、神秘所持者には大きく分けて装備型と融合型の二種があって、大半が装備型に分類される。中でも君の神秘は融合型で、しかも全身の異形化を引き起こすほどの代物だ。早期の介入の判断は正しかった」
聞く相手を置き去りにする説明は五分ほど続き、
刑事ドラマなどで、課長と呼ばれるような人物が座る位置に置かれたデスク。そこには青年と中年の境い目を遂に跨いでしまったかの男が座っていた。九郎の記憶にある顔だ。病院に来て、色々と聞き出そうとした男だった。
丹藤も五年ほど前までは「おじさん」呼ばわりされることに抵抗を示し、今となっては受け入れてしまっている。現場に出て走り回ることはできても、現場から戻ると椅子に座って立ち上がることすら拒否したくなる身としては、おじさん扱いを否定することは難しい。
浮かべている笑みは穏やかでありつつ、隠しようのない疲労感が漂っている。
「来てくれましたか、綾瀬君。ま、そこに座ってください」
丹藤に勧められて座った椅子は中古のオフィスチェアで、体重を少しかけるだけで軋む音がする。九郎は気にしなかった。座り心地を気にする質ではないし、もっと気をつけなければならないこともある。




