プロローグ 《竜玉》 ~二十一~
「芝さん!」
「余所見すんな椿ぃ! 丹藤の強化を受けてるから死んじゃいないはずだ。前に集中しろ!」
「状況から考えて覚醒したってとこでしょうに、なんて攻撃力だ。心を折られないで下さいよ、皆さん。我々の肩には世界の未来が、我々の後ろには人々の生活があるんだからね」
「わかってます。丹藤さんは支援をよろしくお願いします」
椿は乱れる息を強引に抑え込んで竜の様子をうかがう。このままでは、石塚が言うように討伐を考えなければならなくなる。なんとか、なんとか抑え込むことはできないか。
竜化の石を手に入れたい、とは協議会の意思だ。
人々を守るためには竜討伐もやむなし、とは現場の判断だ。
椿は討伐なんて選択は避けたい。椿が見ることのできなかった映像データによると、この竜は椿とそう歳の変わらない少年だという。
世界を守るために子供を犠牲にすることを容認してもいいのか。ベテランとして、苦い経験も味わっている石塚なら苦渋ではあっても肯定する疑問に、椿は未だ答えを出せない。
目の前で暴れる子供を助け、竜化の石も手に入れる。都合が良すぎる未来をなんとしても引き寄せたい、と椿は本気で考えていた。
「うん?」
暴れる、との表現に疑問が浮かぶ。突入から衝突の間、破壊の象徴として恐れられる竜にしては、一貫して攻撃が中途半端だ。
こちらが近付いてきた時点で攻撃をしてくるだけで、竜からは攻撃を仕掛けてこない。竜の位置は最初から変わっていないのだ。動こうとしない姿からは、自分たちを倒そうという積極的な意志が見受けられない。
『ァァァァアアァァァアアッァァアッァ!』
竜の目が椿を射抜く。怒りや敵意に満ちた目。荒ぶる感情の中に――――
「っっ!?」
止めてくれ。
――――酷く細い、しかし強靭な意志の光を見出した。
にわかには信じられなかった。肉体を人以外の姿に変じさせる神秘は、肉体を変化させると同時に心のありようをも変化させる。人の意思を保ったままでいるには、正式に衛士となったものでも多くの訓練を要するのだ。
であれば、この竜はなんだ? この竜へと姿を変えたのは椿と歳の変わらない少年だという。未熟な子供でありながら、熟練の衛士をもってしても難しい、獣化後の意思の保持を、不完全ながらも行うとは。
「……驚くのは後、ですね」
「椿?」
「石塚さん、丹藤さん。あの竜は、人の意識を残しています」
椿よりも遥かにキャリアを積んでいる二人が息を飲む。顔を見合わせ、かすれた声を絞り出す。本当か、と。先輩二人の問いに、椿は自信を持って頷いた。
「竜をまだ人に戻れる。取り押さえます」
椿の決断は秘蹟協議会の人間としては正しく、だからこそ丹藤と石塚は苦虫を噛み潰したような顔をした。
神秘や幻想の脅威から人々や社会を守り、救う。
この観点に立つのなら、竜化した人間――年齢を考えると自己でコントロールしているとは考えにくいことから――を助けるのも当然だ。反論するなら、幻想種で最強の竜を討伐ではなく捕獲するのはリスクが大きい、ということだ。
突入班は四人。
うち一人は竜の一撃で戦線離脱して、残りは三人。丹藤と石塚はキャリアが長く、命の取捨選択の経験も何度もある。多数の人々を守るために、一人ないしは少数を切り捨てたことも、片手の指では足りない。いずれは万城目椿も選択を迫られる場面にぶつかるだろう。だがそれは今日ではない。
「生徒の頼みだ。なんとかやってみよう」
石塚は呼気と共に賛意を示す。今このときは、選択に追いつめられる場面ではないということか。
「……なにをすればいいのかねぇ」
丹藤の返事には覇気は欠けつつも、決意は込められている。二人からしてみると、椿の決断は羨ましくもあった。
「大きくは変わらないと思います」
椿の瞳は決意同様にまっすぐで、槍を構えて竜と対峙する姿勢も正面からだ。腰を低くして、竜を見据え、突っ込んだ。裂帛の気合と共に銀槍が突き出される。容赦なく大気を突き砕く一撃も、竜の腕に弾かれた。
一撃を、だ。
椿の刺突は連続で放たれる。一撃で足りぬなら十撃を、尚をも足りぬなら届くまで万撃でも叩き込む。
竜の拳が突き上げられる。受け止めた椿の銀槍は砕け、衝撃で椿本人も大きく吹き飛ぶ。コンクリートの床に叩きつけられる前に丹藤が受け止め、圧力が二人を後方に数メートルも押し退けた。
「ありがとうございます、丹藤先輩」
「それはいいんだけどね、大きく変わらないって、具体的にどうやるんだ?」
椿の答えは単純だ。
「取り押さえるのなら、相手を戦闘不能や気絶にまで追い込む。決して殺さないように」
「叩きのめすことには変わりないってことか。簡単なのか難しいのか、わかりやすいことだけは確かだがな」
「そちらの弟子ですよ、石塚さん」
「椿の教導を依頼してきたのはそっちじゃなかったかな。つまりはお前の弟子でもあるぞ」
「二人とも集中して。我々は神秘の脅威から人々を守り、そして、神秘に振り回されたこの少年も救う。それだけのことです」
椿は笑った。もう手遅れなのだ、と諦める必要がなかったことが嬉しい。助けることができるのが、助けるための力があることが嬉しかった。
銀槍は修復され、柄を握る椿の両手にはかつてないほどの力が込められ、緊張のし過ぎは良くない、とすぐに緩められた。
最初、九郎の目に見えていたのは、大きく、そして下らない爪を振り回しているだけの影だけだった。次の瞬間には、爪を振り回していた影は赤い色に呑まれて掻き消える。多分、目的は果たしたはずだった。
だが全身を駆け巡る衝動は一向に収まる様子がない。いや、むしろ加速度的に増していく。
力を解放したのだから、もっと破壊しろ。もっともっと命を奪え。目の前に敵がいるのなら、いや、獲物が転がり込んできたのなら、一片の容赦もなく踏み躙れ。
九郎にとって、目の前にあるすべては獲物であり、蹂躙すべき対象でしかなかった。
一方には別に意識もあった。暴れまわる衝動を前に、風前の灯火といった態ではあっても。
力は望んだ。目的を果たすための力を。仇を討つための力をだ。仇こそを討てればそれでいい。無差別な力など不要。
なのに、この力は差別なく平等に周囲すべてを破壊しつくす。
気をしっかり持て。ありふれた言葉を、微かに残る意識で噛みしめる。
このまま、この意識すらも飲み込まれたとき、九郎は九郎でなくなる。九郎という存在は消えてなくなり、九郎が認識することができなくなった後に残るのは――九郎には確認のしようがなくなるが――衝動と本能に突き動かされるだけの、醜悪な化物だ。
もはや欠片となった微かな理性で、必死に衝動を繋ぎとめる。
一秒ごとに理性の鎖にひびが入り、砕け、千切れ飛んでいく。
燃え狂う真っ赤な炎が、最後に残った理性をも灰へと変えていく。
まさに一歩手前、いや、数ミクロン手前で、視界に入ったものがあった。
銀色の輝き。綺麗なだけじゃない。決意と優しさに溢れた輝きに、九郎の理性が強さを取り戻す。
こんなところで、負けてたまるか。




