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プロローグ 《竜玉》 ~十六~

 男はスマホを操作しながら足早に冷蔵庫を突っ切っていく。


 輸入牛肉を扱っている小さな商社で、冷蔵庫の中にはいくつもの牛肉が吊られている。牛肉の他に羊肉もオーストラリアから輸入していて、ワニ肉をラインナップに加えるのはどうかと考えている最中だ。


 考えてはいてもさして真剣にではない。男が経営する商社の主力商品はもっと別のものだからだ。祖業はとある品々の密輸と密売で、牛肉の輸入などはカモフラージュに過ぎない。


 とはいえ、最近はカモフラージュのはずの事業が思いのほか好調で、常城市内で三店舗を展開する焼き肉店との取引も、ジンギスカンを手ごろな価格で提供したいという会社との取引もまとまっている。試しにと自らが出店してみた焼き肉店も評判がよく、雇ったバイトがなかなか続かないことを除けば、ここ最近の表の商売は順調そのものだ。


 いっそのこと密輸なんてやばい商売とはそろそろ縁を切って、真っ当な商売一本でやっていくのも悪くないのではなかろうか。そんな考えが日に何度も男の脳裏に浮かび、その度に弟のことで踏みとどまる。


 幼い頃から素行の悪さで知られる兄弟は、兄のほうは外面を整えることができ、社会生活にも適応することができているが、弟はまるでダメだった。兄の欠点を一切合切集め、捏ねあげた人形。本当に人形だ。頭蓋骨の中に脳みそが入っているのかどうかさえも疑わしい、まるで考えるということをしない、粗暴で独善的な人間だ。


 だからこそ兄の命令には誰よりも忠実に動く。


 組織の運営は兄が行い、実力を伴う部門の実行者が弟なのだ。女癖も悪く、渡した小遣いが四日間もった例がない弟は、真っ当な商売にあっては間違いなく居場所を失ってしまう。


 頭は悪いが分際を知っている弟は、ここまで一度も兄を裏切ろうとしたことはなかった。商売柄、このことだけでも、他の欠点すべてを補うだけの価値がある。


 男は倉庫の奥にある扉を乱暴に押し開け、サイズにあっているとは言い難い椅子に腰掛けた。あちこちの塗装が剥げている椅子は、大げさな軋みを上げる。スマホを肩で挟みながらパソコンを起動し、パスワードを入力、いつかベッドで一戦交えたいと思っているアイドルの水着画像が表示された。


「そうか。あいつはまだ見つからないのか。まったく……ああ、問題ない。金が入るとギャンブルと女につぎ込むのはいつものことだ。懐具合からして、もう二、三日で戻ってくるだろう」


 通話の終わったスマホを切り、ズボンの後ろポケットに捻じ込む。凶悪な男だが、身内への情は篤いようで、表情にはイラつきなどは見られない。


「仕方のない弟だ。次の取引があるってのに」

「へえ、次の取引か。是非その内容を教えてもらいたいな」


 唐突にかけられた声に、素早く反応した男は椅子を吹き飛ばして立ち上がった。吊り上げられた両目の先には、どう見ても小学生の美少女が車椅子に乗っている。車椅子のハンドグリップを握るのは秘書だろうか、二十代半ばの、これまた美女だ。


「動くな」


 車椅子の美少女、式が取り出したのはサイレンサー付きの拳銃だった。立ち上がった男がなにかするよりも早く、まるボールペンでも取り出すかのような気軽さで構えている。


 男の知識ではそれがベレッタなのかトカレフなのかも区別し難いが、金属的な重厚感も子供の手には分不相応としか映らない。遊びでここに来たのか、どうして自分に銃口を向けているのか、判断はつかないにしてもわかっていることはある。舐めた真似を許す必要はないということだ。


 人身売買に手を出したことはない。もしかすると今日がその取っ掛かりになるかもしれない。どこまでも己に都合のいい夢を見ながら、男は恐ろしげな声を作った。


「おい、ガキ。ふざけたことして」


 男の口はそれ以上のセリフを続けることはできなかった。式がサイレンサー付きの銃の引き金を引き、小さな音と共に発射された弾丸が男の右太腿を正確に撃ち抜いたからだ。


 血と叫び声を上げて男は床に倒れ込んだ。無事な両手で傷口を抑えても、そんなもので出血が止まるはずもなく、両手の指の間からは赤黒い液体が漏れ広がっていく。銃で撃たれた衝撃よりも、痺れるような激痛よりも、血液が流れていく様が男を怯えさせる。


 恐怖をねじ伏せようと、怒りの形相で吠えようとした瞬間、秘書と思しき女性の靴が男の口にめり込んだ。血と歯を撒き散らした男は、顔の下半分を赤く汚しながらもそれでも立ち上がろうとして、向けられている銃口と、銃口の向こう側にある冷え冷えとした殺意に気付く。


 蛇に睨まれた蛙。男は、自分よりも遥かに年下の少女に圧倒されていた。


 座れ。式は声に出さず、銃を軽く動かすだけで要求を伝える。男は今の自分にできる最大速度で目の前の死神の命令に従った。


「これでようやく話ができる。ああ、最初に言ったのは嘘だ。君たちの取引には欠片の興味もないよ。心配しなくても、そんなに難しい要件じゃない。君が秘蹟協議会に隠れて扱っている霊的商品のことなんだが、その顧客リストが欲しいんだ。快く譲ってくれると期待しているけど」


 式の鈴の音のような声とは対照的に、男は声を失った。顧客情報を漏らすことがなにを意味するか、男はよく知っている。アメリカの大手IT企業が膨大な数の顧客情報を流出させたとかで、公聴会が開かれるような騒ぎになっていたが、男のいる業界では公聴会なんて手順は存在しない。


 顧客情報の流出は、即座に死につながる。


「この会社や君の自宅、隠し倉庫やトランクルームにあるすべての情報媒体はこちらで回収する。うちのスタッフは優秀だから、大した時間をかけずにあらゆる情報を手に入れることができる。だが、それだと少し時間がもったいない。是非、君には自発的で積極的な協力をしてほしいと思っているのだけれど」


 式は秘書からスマホを受け取り、ビデオ通話に設定し、男に向けた。途端、画面の映像の中で別の男が叫び声を上げた。


『兄貴! 助けてくれ、殺される!』

「!?」


 男は息を飲み込んだ。映像の男は弟だ。どこかの倉庫なのか、後ろ手に縛り上げられ、顔の右半分は腫れあがって、止まることなく血が流れている。連絡がつかなくなって大した時間は経っていない。いつものことだと気に留めていなかったのに、まさか囚われの身になっているとは。


 式の白く繊細そうな小さな手が、スマホを弄んでいる。


「どうだろうか? 素直に教えてくれないのなら、君は弟さんとは二度と会えなくなる。いや、もしかすると地獄で会えるかもしれないが、それまでに現世でも苦痛を味わうことになることだけは断言しよう」

「ハ」


 ハッタリだ、とでも言おうとしたのだろうか、いずれにせよ男の口は満足に機能しなかった。


 式の白く秀麗な顔は表情を変えないままに、男に見せていたスマホに向けて温度の感じられない声を投げる。


「残念なことにお兄さんは信じてくれない。まったくもって本意ではないのだけれど、教えた通りの手順でいこう。指からだ」

『待ってくれ頼む! 兄貴、言ってくれ! 殺さぎゃああっ!』


 スマホ越しに聞こえる悲鳴に、とうとう男の心は折れた。銃で撃たれ、顔を蹴られ、既に折れかけていたものが、完全にへし折られたのだ。


 霊的商品の密輸という危険な行為に手を染め、巨万とは言えないまでもそれなりの利益を上げてきた以上は、暴力に訴えて交渉を進めたことが少なからずある。暴力の有効性はよく知っていたし、暴力を躊躇うつもりもなかった。自分たち以上の暴力が存在することも弁えてはいた。


 しかし、自分たち以上の暴力に、まさか自分や弟が晒される日がこようとはあまり考えていなかったのだ。それも、こんな小学生の子供からなど。


「わかった……教える……なんでも話すから……」

「教えてもらう必要はないよ。顧客リストさえ渡してもらえれば、それで十分だ」


 そんなことをすればもう、この世界では生きていけなくなる。弱々しいながらも、まだ抵抗を見せようとする男に、サイレンサーの銃口がスマホに向けられた。正確には、スマホの画面に映る男の弟に、だ。


 男は出血か恐怖を原因とする眩暈に耐えながら、パソコンを操作する。


 開かれたページを式は手慣れた動きでスクロールしていき、ややあって目的の情報を確認した。


「うん、確かにこれで合っていそうだね。他に隠しファイルなどはあるのなら、今のうちに速やかに教えてほしい」

「そんなものはない! 本当だ! 信じられないなら調べればいいだろう。だがこれが全部だ。要求されたものは渡した。俺も弟も解放しろ!」


 そのとき。男は額に、背筋が凍り付くような冷たい金属が押し当てられるのを感じた。感じることができただけで、他には一切の反応もできないうちに、発射された二発の弾丸が男の頭蓋骨と脳を粉々に砕いた。


 画面越しに兄の死を目の当たりにした弟は短く悲鳴を上げ、それが最後。後頭部から顎に突き抜けた弾丸は、弟の人生を正確に終わらせた。


「君が《鬼爪》を持ち込んだせいで、今、九郎が苦しんでいる。この一点だけで、君を生かしておく理由はない。処分を頼むよ」

「はい」


 秘書の女が手早く連絡を取ると、倉庫に新たな人間が四人、慌ただしく入ってきた。ハウスクリーニング屋のような恰好をした彼らは、式が使う掃除屋だ。部屋の清掃から死体の処理まで、手際よく片付けてくれる。


「さて」


 すぐ近くに血と脳漿と砕けた頭蓋骨に塗れた死体があるのに、ましてや手を下したのは自分であるのに、式の心拍は平時とまったく変わらない。式の鼓動を乱すことのできる存在は限られていて、今、式が電話をかけている相手、綾瀬九郎こそが数少ない存在の一人だった。


『式、なにかわかったのか?』

「《鬼爪》を購入した奴がわかったよ。三山秀介、高校二年。住所などはこちらで調べた情報と合わせてメールで送る」

『さすがに、仕事早すぎじゃないか? 俺はまだ二件目を空振りしたところなんだが』

「既に二件を回っているだけでも驚きなんだけどね。蛇の道は蛇、だ。情報はすぐにそっちに送る。言うだけ無駄かもだけど、絶対に無理だけはしないように」

『無理も無茶もしない。やれること、やらなきゃならないことをするだけだ』

「やりすぎないかが心配だ。あとはこのサイトを見ておいてくれ。三山が頻繁に使っている動画投稿サイトだ」

『助かったよ、式』


 通話が終わる。《鬼爪》を密輸した業者のトップはこっちで排除したこと、組織自体もすぐに潰すことは伝える必要のないことだ。


 ではなにが必要か。


 常城市で活動を始めた秘蹟協議会の動向把握は、確かに必要なものだと思われた。より必要性の高いことがある。三山秀介を見つけることだ。九郎の執念ならいずれは発見するだろう。発見して、間違いなく殺す。こうと決めたなら、よほどのことがない限り決断を動かすことはない人間だ。


 式には、殺人を思いとどまるよう説得するつもりはない。復讐はなにも生まない、虚しいだけだ、どんな理由であれ人を殺していい理由にはならない、などと紋切り型の言葉を並べるつもりもない。


 式が棲息する世界には暴力が溢れ、陳腐な表現では血と硝煙の臭いが充満している。暴力の有用性も理解し、同時に副作用についても熟知していた。


 暴力を用いることへの感覚がマヒしてしまい、物事を安易に暴力で片付けてしまうような思考になってしまった人間を何人も知っている。


 式の考える最悪のケースでは、九郎が、緋桜和真のように、暴力に全幅の信頼を置いた挙句、他者の生命を軽視してしまう人間になってしまうことだ。九郎は両親を失って以来、心に欠落を抱えている。なにかの拍子で暴力の信奉者に堕ちてしまう可能性を否定できない。


「そんなことは、絶対にさせない」


 近くで九郎を支える必要がある。九郎の心をだ。集めた情報をスマホで送り、式も車に乗り込む。


「緋桜和真は論外だけど、私のようになられても困る」


 式のように人命を資源として捉え、効率的な運用と消費を両立し、そこから最大の利益を生み出すことを考える人間にもなってほしくはない。復讐の手助け自体には後悔をしていないが、複雑な感情を抱えていることには変わりなかった。


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