プロローグ 《竜玉》 ~十四~
新堂美晴の殺された現場には、彼女以外も含めた生々しい血痕が大量にあり、立ち入り禁止のテープと共に見張りの警察官が立っている。
警察官の外側には女子高生が無残に殺害されたことを無遠慮に喚き散らすマスコミ各社と、騒ぎを聞きつけてやってきた野次馬でごった返していた。
いつの時代にも暇な人間というものはいるもので、暇人共の無責任なざわめきを背に受けながら仕事を全うする人間というのもまた、いつの時代にもいるのである。
石塚が持っている機械は去年の春に何度目かのバージョンアップを終えた霊子測定器だ。どこのメーカーのものなのかを知らなくとも、使い勝手がいいだけでも十分に重宝する。
モンゴルのある支部に出向いたとき、試験的に、と導入されていた新規参入企業の霊子測定器を使う機会があったが、あれは酷い出来だった。とにかく重く、バッテリーの質も良くない上に、計測数値を記録することもできなかったのだから。いや、企業じゃなくてどこかの研究施設だったか。
どうでもいいことを考えながら、石塚は淡々と仕事をこなしていく。警察官でも、初めての殺人現場では嘔吐することがあるらしい。ベテランの石塚はさすがにそんな無様を見せることはないが、それでもこれは、酷い現場であることに違いはなかった。
未成年の前途洋々たる――犯罪者にでも転落していくような連中もいるが――若者が、これほどまでに惨たらしく殺されなければならない理由がどこにあるのだろうか。
霊子測定器が強い反応を示す。霊子反応と呼ばれるもので、これで新堂美晴を含む、この場で起きた殺人は動物などではなく、神秘や幻想を用いた犯罪であることが断定される。
若い頃の石塚には警察になる夢があった。警察になって殺人犯のような悪党を一人残らず捕まえたかったのだ。
夢が叶うことはなかったが、叶わなくてよかったと思っている。警察にいれば、今回のような神秘がかかわる案件には手も足も出ない。証拠を掴むことができずに迷宮入りし、何年か毎にテレビで追加情報を求めますと訴えかけ、必ず犯人を捕まえてみせる、と空虚な誓いの言葉を口にしなければならなかっただろうから。
石塚は携帯電話を取り出す。スマホではなくガラケーだ。以前、一度はスマホを購入した石塚は、電力消費が激しいとか言ってすぐにガラケーに戻した経緯がある。
「内田、霊子反応が出た」
『出ちゃったか。それで?』
「パターンの違うものが二つ」
『二つ!? 幻想どうしが争ったってこと?』
「そこはまだわからん。数値は、特に一方が異常に大きい。そっちにデータを送るから、照合してくれ」
『了解、と』
霊子反応は指紋や銃の線状痕のように、それぞれに固有のものであり、秘蹟協議会のデータバンクに登録されていれば、石塚が採集した霊子反応と照合して特定することができる。ようするに指紋照合や顔認識ソフトと同じみたいなものだ。
残念ながら石塚のガラケーでは霊子反応データを送ることができないので、同行している部下がスマホで送信する。
『これだね。すぐに照合するからちょっと待ってて』
通話越しでもキーボードを叩く音が聞こえる。昔は人差し指だけでしか操作できなかった内田も、今では視線を手元に落とすことなく自在に扱うことができるまでになっていた。時間にして十数秒、あるいは数十秒だったか、結果はすぐに出た。
事件現場に残されていた霊子反応は、協議会のデータバンクにあったものと一致したのだ。
「《鬼爪》ぇ? そいつはたしか」
『ええ、最後に確認されたのは三年前、バンコクよ。日本に入ってきたって情報は協議会のデータバンクにも載ってないから、正規のルートじゃないことだけは間違いないわね』
「常城市に持ち込むってだけでも正気とは思えねえな、そいつ」
神秘への理解の乏しい緋桜和真率いる第一常城興産が絶対的な勢力を誇るのが、ここ常城市だ。常城市に神秘や幻想を持ち込むことは、緋桜和真が手を伸ばしていない隙間に勢力を築こうとすることに繋がり、一歩間違うと血で血を洗う事態になりかねない。
霊装《鬼爪》は装着型、左右どちらの手にも装備可能だが多くは右腕に着ける。新堂美晴の傷口からも、犯人は右利きであると考えられていた。
石塚が霊子測定器を周囲に向け、期待する反応は返ってこない。犯人が誰であれ、新堂美晴を殺害した後は、速やかに装備を解除したのだと考えられる。
「《鬼爪》のことで他にわかっていることは?」
『ちょっと待ってね。ええと、これね。《鬼爪》の装着者は徐々に殺人衝動を抑えられなくなっていく、とあるわね。つまり次の被害者が出る可能性は高いってことと、これまでにも犠牲者が出ている可能性もあるってこと』
「被害者については警察のほうが詳しいだろ。行方不明になっているケースも調べといてくれ。後は」
『わかってる。《鬼爪》の所有者についてでしょ。調べてみるわ。協議会がマークしている密輸ルートがいくつかあるから、そっちも当たってみる。外れる可能性も高いけど』
その場合は解決に要する時間が飛躍的に増すことになる。つまりは犠牲者の数が増えることを意味しているのだ。密輸ルートにしたところで、一切を協議会が把握しているはずもなく、こればっかりは協議会の網に引っかかってくれることを祈るしかない。
「それで、もう一つのほうはどうだ?」
『残念だけど、協議会にはデータがないわ』
内田の返答に石塚は驚く。あれほどに大きな反応を示した神秘のデータがない。考えられることは限られていた。
「活動していなかったってことか」
『ええ。どれだけ強力な神秘や幻想でも、協議会のデータバンクに載る前に活動が確認できなくなってしまったものまでは登録できない。反応の大きさからして、相当に危険なものだってのは確かなんだけど』
数値だけを見るなら、《鬼爪》よりも遥かに危険だ。可能なら《鬼爪》よりも先に対処したい。
だがここで問題があった。神秘や幻想は、常日頃から積極的精力的に活動しているようなものは滅多にない。休眠と表現するべきか、基本的に神秘は活動していないのだ。
適合者が触れる、強制的に稼働させる、神秘自らが動く、などの要素がない限り、神秘や幻想は活動しない。活動しない以上、霊子反応はゼロないしは極めて乏しい状態になり、協議会が把握できないことも当然であった。
「こいつが、そうなんだろうな」
石塚が見下ろす場所には、なにかを引きずったような跡がある。引きずった跡は路地裏を出て行ったところで消えていた。強大な神秘なら、ビルを飛び越えていけるような力を得ることもできる。だが現場の状況を見る限り、規格外の身体能力を発揮してこの場を脱出したとは思えない。
となると、車のような移動手段を用いたと考えるべきだろう。単独なのか、支援者がいるのかはまではわからないが。
目についたのは監視カメラだ。ビルの持ち主か、テナントの借主あたりが設置したものだろう。本物かフェイクなのかはわからないが、確かめる価値はある。もしかすると、なにかしらの手掛かりがあるかもしれない。
「この映像を手に入れることができるか?」
『やってみる』
「今の時点でわからんのなら仕方がない。こっちはまず《鬼爪》を追う。そっちは引き続き《鬼爪》と、もう一つの神秘についての情報を集めてくれ」
『わかった。十分に注意して』
石塚は鎖を引きずる音が聞こえた気がした。危険度の高い仕事――協議会の仕事に危険でないものなどないのだが――に着いたときに、決まって聞こえてくる音だ。
実際の音ではなく、石塚の心の内から響いてくる警鐘のようなものだ。鎖に繋がれた凶暴な獣が、鎖を引き千切らんと暴れている。
音が聞こえてくるのはいつものこと。しかしこれほどに大きく荒っぽい音は、石塚の長い経験の中でも初めてのことだった。




