プロローグ 《竜玉》 ~十三~
車中では式が静かに瞑目している。
なぜあいつにだけは自分の嘘がわかってしまうのか。そんなことを考えながら。
式の仕事を考えると、嘘や取り繕いがわかってしまうことは死活問題ですらある。たとえそれが近しい位置にいる相手であったとしても、式の嘘を見抜いたならば、友情や信頼はたちどころに警戒の閾値を越え、容易に殺意へと姿を変えただろう。
今、車を運転している宮川は、組織の中ではもっとも付き合いが古い部類に入る人間だ。式としても、宮川の能力や忠誠に対しては一定の信頼を置いている。置いてはいても、例外にはなりえない。必要だと判断したなら即座に手を下す。能力や忠誠など、引き金を引くことを躊躇させる理由にはならない。
だが相手が綾瀬九郎であるというだけで、式はどこか嬉しいとすら感じるのであった。
九郎だけが自分を見抜くことができる。
九郎なら自分を見抜いても構わない。
綾瀬九郎が己にとって特別な人間であることを強く自覚している式にとって、だからこそ路地裏で目の当たりにした光景は放置できる問題ではなかった。
式が到着したとき、路地裏には日常を嘲笑う凄惨な現場があった。血の池という表現そのままに、アスファルトの上には赤黒い液体が広がり、血の池の中には大量の体組織が浮かんでいる。倒れている複数の死体は、いずれも真っ当な――真っ当という表現が適切かはともかく――ものではない。
腹には風穴が開いている。四肢は切り飛ばされ、あるいは千切られ、握り潰されていた。目と口は恐怖と絶望に見開かれ、血涙の痕も見てとれる。死者の中に新堂美晴を見つけると、式は二重の意味で不愉快になった。
近しい人間を失ったことへの不快さが一つ。式にとっても新堂美晴は「近しい」の部類に入る人物だ。九郎に対するものとは比べるべくもないとはいえ、新堂美晴が困っているのなら、持ちうる非合法な力を行使しても構わないと思える程度には。
もう一つは、九郎が大きな衝撃を受けることへの懸念だ。
九郎と新堂美晴の関係は、知人の枠を超えて友人と呼べる。九郎の交友関係は狭く、式と叔父夫婦、その子供以外に付き合いのある他者はほとんどいない。あっても表面上のものだ。小学校内で多少の言葉を交わしても、放課後まで共に行動するような相手はおらず、また作ろうともしない。
新堂美晴は九郎の狭い世界の中で、光を放つ数少ない人間だった。
それを失った。いや、奪われたのだ。両親と同じく。九郎が心身に受ける衝撃はどれほどのものになるか、想像もつかない。胸元にある石も、普段は穏やかな水面のような青色をしているのに、式が駆けつけたときには溶岩のように真っ赤になっている。
まるで九郎の理性を焼き溶かしたかのようだ。
式にとっては、これこそが大問題だった。九郎が竜へと姿を変じている。体格では大人に勝る。神話や伝説同様に強固な鱗に覆われている。鋭く巨大な爪を、強靭な腕を、太い尻尾を振り回している。竜体のあちこちには血や肉片がこびり付いている。
いずれも、式からすればどうでもいいことだ。九郎が九郎でなくなることこそを、式はもっとも恐れている。
「式様!」
「下がっていろ」
秘書兼護衛の宮川を下がらせる。式はここに来るまでに大体の事情を把握していた。式と繋がりのある店員が偶々、危険度の高い路地に入っていく九郎を見かけ、点数稼ぎ目的に後をつけたのだ。トラブルに巻き込まれた形になったところで、式に連絡を寄こす。
式の行動は素早かった。市内各所に配置されている監視カメラはもとより、九郎とトラブルになった暴漢たちのスマホをも乗っ取って、状況を観察していたのである。
九郎が竜化してからおよそ三分。式の知る限り、身体変化をもたらすような神秘は、例外なく精神を蝕む。獣に姿を変じることは、心までも獣へと変えるということだ。
神秘を制御下に置くことができれば問題はない。制御が叶えば、人の心を持ちながら、強大な力だけを振るうことができる。そのためには多大な努力と長い時間を要することは当然で、いずれも九郎には不足しているものだ。
このままでは九郎が本当の獣に成り下がってしまう。絶対に避けねばならない。
「必ず助ける」
式の瞳に決意の光が灯る。取り出したのは拳銃だ。女子供が護身用にと携行する、コンパクトで携帯性にも優れたタイプでありながら、十発の装弾数を誇る。グリップはシングルスタックで薄く、この銃のことを式は気に入っていた。
弾丸は正規のものでは効果がないとわかっているので、対幻想種用のものを用意している。ファンタジーにおける強靭な防御の象徴ですらある竜の鱗。その防御を抜くことができればいいのだが。
式が銃を構える所作は洗練されていて、十分に習熟していることをうかがわせる。目の前には複数の大人たちを殺してのける幻想種。秘蹟協議会でも最低五~十人のチームを組んで当たるような相手に、銃を持っているとはいえ小学生が単身で挑む。
問題はもう一つある。式の足だ。式の移動手段は車椅子だが、車椅子の機動力など高が知れている。式の体力は平均よりも劣り、また車椅子バスケのようなスポーツの経験もない。機敏な動きは無理だ。
竜は膨大な呼気と共に、式へと拳を振り下ろす。防御は無意味。バックステップのような芸当はできない。確かに人を殺しうる拳を、式は冷静に見据え、全体重を片側にかけて車椅子ごと地面に倒れ込むことでこれを回避する。
獲物を捕らえられなかった拳は、掠めたアスファルトをこそぎ取った。覚醒から僅か五分でこれだけの攻撃力は脅威だ。あるいはチームで事に当たっていたなら、動揺や恐怖が広がっていたと考えられる。事実、後ろに下がっている宮川の顔色は失われていた。
だが式は一人だ。周囲の誰が動揺したところで、場の空気がどれだけ淀んだところで、式個人は微塵も左右されない。破壊力こそ脅威であれ、日常的に暴力と共にある式を怯ませることはできない。
地面に倒れたまま引き金を引く。五発の銃弾が立て続けに竜体に着弾する。腹、胸部、両腕の付け根に命中し、何らの効果も認められなかった。
『オオォォオォオォオ!』
効果があったのは一発。鎖骨接合部の石に命中した弾丸だ。九郎の石はモース硬度で十以上、剛性や強度においてもチタンを遥かに上回ることが明らかになっている。
つまり、弾丸そのものの威力に効果があったわけではない。弾丸に刻まれている術式の効果だ。興奮抑制剤があるように、神秘の活性化を鎮める術式もある。式の銃弾は威力を犠牲に、強力な沈静術式が刻まされていた。
「石にしか効果がないか……予想通りだが」
暴走状態にある神秘や幻想種を鎮めるための術や道具は確かにある。だが低位の神秘ならともかく、全身を変異させるほどの神秘を鎮めるとなると、一度だけで十全の効果を発揮することはできない。複数回に亘って、且つ術式投与順を踏まえる必要もあった。
式は体を転がしながら、銃のマガジンを交換する。一番目の術式は打ち込んだ。次は二番目。理想では三番目の術式を打ち込むことができれば完璧だが、一番と二番の術式だけでも九郎を元に戻すことは期待できる。
石に銃撃を受け苦悶に身を捩る竜を狙い、次の発砲を行う。ただ一発で、正確に石に命中させた。
苦悶と共に竜の動きが止まる。鎖骨の石に透き通るような青い輝きが生まれ、染み入るようにして石全体に広がった。が、澄み切った青を取り戻したと思った瞬間、赤い輝きが再び石を飲み込む。
青と赤の勢力争い。これは予想外だった。九郎の定期診察を通じて、石の情報は継続して収集し続けてきた式だ。秘蹟協議会や他の神秘、幻想についての情報も得ている。
今、式が用いている銃弾は秘蹟協議会が使用しているものを、横流しで手に入れたものだ。それを手持ちの魔術師や学者に研究させてきた。成果として、いくつかの術式は実用段階にまで至っている。万が一の事態を想定して調整を繰り返してきたこの術式なら、二発目を打ち込んだ時点での決着を期待できるだけの試験成績があった。
式の目前の空間が弾ける。竜が苦痛を振り払うように力任せに腕を振るったのだ。式は体を再び倒れ込ませて転がる。すぐ頭の上を規格外の暴力が通り過ぎていく。
竜が腕を振るっただけで、攻撃でなかったことが幸いした。もし明確な殺意のある攻撃なら、式に回避する術はなかっただろう。
式は幸運を実感する。竜の腕を避けることができたことにではなく、別のことに対してだ。
神秘の専門家である秘蹟協議会ですら、まだ持っていないかもしれないこの術式。それをもってすら、完全には暴走状態を解除できないほどの神秘。この場に居合わせたのが秘蹟協議会なら、九郎はどうなっていただろうか。沈静化が困難だとの判断が下されたなら、人類社会を危険な神秘から守ることを理由に、殺害されていたかもしれない。
九郎の石の正体はまだわからないが、九郎本人が制御できていないことを踏まえると、危険度はかなり高く設定されると予想される。協議会よりも早く事態を把握できたこと、協議会よりも先に到着できたことは、間違いなく幸運だった。
収集された情報から判断する限り、九郎が竜化したのは守るための力を欲してのことだ。今は衝動に支配されているとはいえ、衝動を受け入れた理由そのものは、人の心による。
竜化してから一時間と経っていない。衝動に呑まれてからはもっと短いことから、人の意識を揺さぶり起こすことは、十分に可能だと式は考えていた。人の意識を取り戻すことができれば、人に戻ることもできる。
式は手を万人に差し伸べるつもりはない。
九郎だけが特別なのだ。
相手が九郎に限り、僅かでも可能性があるのなら必ず救う。
可能性がないのなら、どんな手段を用いてでも可能性を作り出す。
式の意志に迷いや揺らぎは微塵もない。式は満足に動かない足に腹を立てながら体を起こす。姿勢の保持のためにビル壁に背中を預ける。
式は竜の目を見つめた。石と同様に灼熱に染まった瞳。怒りか、狂気か、意志か。
「九郎」
三度、銃を構えた。
式の消耗は激しい。体力的にはともかく、精神的な負担が大きいのだ。強靭な精神力を持つ式にしても、九郎を失うかもしれないという事実は極めて重い。だが式には悲壮感など欠片もなかった。白く秀麗な顔には、清冽にして凄絶な決意のみが漂う。
「必ず助ける」
もう一度、式は覚悟を口にした。




