プロローグ 《竜玉》 ~十一~
丹藤の視線がピルケースに落ちた。つられて九郎の視線も落ちる。緑色だったはずの宝石は、サファイアやブルートパーズのような青色に変わっていた。アレキサンドライトのように光や角度によって色が変わる石なのだろうか、と九郎は思う。
「嘘ってわけでは……なさそうだ」
「え?」
「いや、こっちの話だ。疲れているのに悪かったね」
打ち切ろうとする丹藤に、柳本が声を荒げて噛みついた。
「まさかこれで終わりですか? 冗談じゃない。もっと深く聞くべきでしょう!」
「相手は見ての通りの子供だぞ。これ以上は望めんさ」
「聞きもしないでなにがわかるのですか! この程度で帰ったんじゃ手ぶらと同じだ。おい君、他に覚えてることは本当にないのか? 犯人の顔は見なかったのか?」
「え? 犯人?」
「そうだ、犯人だ!」
柳本は丹藤を押し退けるようにして前に出てきた。九郎が子供であることを忘れたわけではないにしろ、手掛かりになりそうな情報を手に入れられないことに怒りを感じている。
事件解決の手掛かりを求めているというよりも、早く緋桜和真の捜査に戻るために動いていることなど、九郎には知る由もない。
柳本の逸りは丹藤の静止を無視して行動化する。その大きな手が九郎のまだ細く小さな肩を掴む。
「本当は見たんじゃないのか? よく思い出してくれ。男たちだけじゃなく、新堂美晴というまだ高校生の女の子も殺されている。被害者のためにも、君だけが頼りなんだ」
「――――え?」
九郎の思考が凍結した。
「美晴姉さんが……死んだ?」
呆然と吐き出された九郎の言葉に、丹藤と柳本は失敗を悟る。九郎の点滴の繋がった腕が力なく上げられ、柳本に向かって伸びた。
「どういうことだよ? 美晴姉さんが死んだって……」
九郎の内側に、記憶にないはずの光景が鮮明に、克明に出現する。
記憶が浮かび上がる、なんて生易しい表現ではない。トラックが衝突してきたかのような衝撃、鉄の臭いが鼻腔の奥にまで届くような生々しい質感をもって、唐突に現れたのだ。
九郎の意識など残っていなかったはずなのに、その瞬間だけが蘇ってくる。地面に横たわる美晴の体を、男の巨大な爪が貫くまさにその様を。
鮮明な映像。
圧倒的な質感。
自分がその場にいた事実。
いずれもが強烈な衝撃となって九郎の脳髄を撃つ。
「っぅぁぁぁああああああああっ!?」
「お、おい君!」
「柳本! なにしてんだ!」
事態を処理しきれなくなった九郎の理性、そのタガが外れる。絶叫が響き、病室から少し離れた場所にあるナースステーションでは、電子カルテで記事を書いていた看護師が何事かと顔を上げる。
「なにをしているんですか!?」
女性看護師が飛び込んできた。九郎の大声に反応したにしても対応が早すぎる。最初から警察が子供の九郎に対して無茶をしないよう、部屋の外に待機していたのだろう。
「ケガ人なんですよ! 興奮させるなんてなにを考えているのですか!」
「いや、これはですな……」
「これ以上は許容できません。貴方方は彼の安静と回復の妨げになっています。すぐに出て行ってください!」
女性看護師の剣幕は凄まじく、丹藤と柳本は口をモゴモゴさせながら病室を出て、いや追い出される。閉じられたスライドドアの向こうからは、丹藤たちが相談する内容が聞こえてきた。
――――逸りすぎだ。
――――必要なことだった、と思っていますが……
――――そうかい。こっちは捜査に戻るから、柳本君は彼の警護に就くように。
――――なっ。
――――彼が本当に犯人の顔を見ていたなら、犯人が口封じに動くかもしれないだろ。そもそも追い出されたのは君の失態だ。責任を取りなよ。
警護ではなく監視ではないのか。警察に対する九郎の認識を肯否定してくれるような親切な対応は存在しなかった。
看護師と二人きりになった病室で、しかし九郎は安静を保つなんてことはできない。自分に優しく接してくれた人が死んだ。殺された。だというのに、こんなところでのんびり寝ていられるわけがない。
「退院する」
「え? 綾瀬君?」
「今から退院します。お世話になりました」
「ちょ、待って」
ベッドから降りようとする九郎を、看護師が制止する。
「離してください。入院なんかしてる場合じゃないんだ」
部屋の外にいるだろう警察が入ってくることを警戒して、声を抑えて訴えた。病衣のままだろうとなんだろうと、このまま病院を飛び出て、すぐにでも新堂美晴を殺した犯人を捜しに行くつもりだ。いや、仇を討つつもりでいる。
「綾瀬君、少し落ち着いて」
「無理です。これが落ち着いてなんか」
詳しい事情はさっぱりわからないし、まだ小学生の身でなにができるわけではないにしろ、回復を待ち続けるなんて真似はできそうにない。
「大丈夫です。式様から聞いていますから。だから落ち着いて、綾瀬君」
「!?」
予想だにしなかった固有名詞の登場に、九郎の沸騰していた頭は一瞬で冷却された。
「看護婦さんは、式の知り合いなのか?」
「今は看護婦じゃなくて看護師よ。彼はわたしのスポンサーだから。わたしだけじゃなくて、この病院には何人もあの人の部下が潜り込んでいるわよ。ま、常城市のあちこちにいるんでしょうけど。あ、世界中かな」
式の魔の手はこんな病院にまで伸びているのか。政府の内側にまで伸びていても驚かないぞ、と九郎は思った。
看護師によると九郎がここに入院してきたのと同時に、看護師をはじめとする式の部下たちに連絡が入る。内容は、「警察から守ること」と「九郎が採るであろう行動を助けること」。九郎が犯人探しに動くことまで見抜いていたと説明されると、九郎は自分が単純なのか、式の理解が深いのか、わからなくなる。
看護師の胸ポケットからけたたましい音がした。外部からかかってきた電話が病院用のPHSに転送されたらしく、「はい」と九郎に手渡される。
「もしもし?」
『とりあえず、声が聞けて安心したよ、九郎』
「式……これからもっと心配をかけることになるんだが」
『私のところに来たデータだと、命に別状はないようだが……それでも、念のために二、三日は入院しておいてほしいのだけど?』
「無理だな」
『わかってた。言ってみただけだ。すぐに迎えに行く』
「それは助かるんだが」
九郎は警護≠監視がついていることを説明する。病室内には隠し通路なんてものはない。窓から出ることはできなくはないだろうが、バランスを崩して転落でもしようものなら確実に死亡する。
『検査を名目に使うから問題はない』
「検査?」
『レントゲンでもCTでもMRIでもなんでもいい。病室から検査室へ移動して、検査室の奥から病院外に出てもらう』
サスペンスドラマで時々見かける脱出方法だ。まさか自分が実践することになるとは、九郎は思いもよらなかった。看護師が一礼をして退室すると、九郎はベッドに横になったままで会話を続ける。
「事情はわかっているのか?」
『わかっていないこともあるけど、お前と比べると確実に色々と知っている』
「できれば会って話したいんだが」
『心配ない。今、病院に着いたところだ。駐車場に回るのも面倒だから、来賓用の玄関に着ける』
どうして小学生が普通に来賓用の玄関なんかを利用できるのか。式が規格外であることを改めて知った九郎の耳にノックの音が届く。先程の看護師だ。検査の準備ができたので移動することを告げられる。さすがにベッドごと移動することはないが、車椅子に座っての移動だ。
通話を終え、PHSを看護師に返し、検査室へ移る。陰惨とは言わないまでも、険しい目つきで柳本がついてきた。だがさすがの警察も検査室の中にまではついてこられない。普通は少なからず緊張を強いる検査室の中は、九郎にとっては警察の監視から逃れることのできる、願ってもない場所だった。
看護師から差し出されてきた籠には、新しい服と財布、連絡用の携帯電話、呪紋の刻まれたナイフが用意されている。携帯電話に登録されている唯一の番号にかけると、すぐに式が出て、九郎は携帯を耳に当てたまま着替えを始める。
「今、検査室だ。どうすればいい?」
『看護師が案内するから、ついて行けばいい。渡された携帯は身元がわからないやつだから、安心して使ってくれ』
「どさくさ紛れに俺を裏社会に引きずり込もうとしてないか?」
別の意味で不安になる九郎だった。式の返答は明快だ。
『そんなことはしない。するなら正面から堂々と、一緒に来てくれ、と言うよ』
「そうか」
呆れたことに、サイズはぴったりだった。財布の中には一万円札と千円札がそれぞれ十枚ずつ。小銭も百円玉と十円玉が十枚ずつ用意されている。九郎の人生で見たことのない大金だ。更衣はともかく、武器と金銭の用意は看護師の仕事内容には絶対に含まれていない項目だろう。
着替え終わり、財布を仕舞い、最後にナイフを手に取る。九郎が握ると同時、呪紋に光が流れ、刀身全体をぼんやりと金色に輝かせた。仕組みがわからないなりに、強力な武器だとは分かる。
九郎が式の待つ車に乗り込んだのは、およそ三分後のことだった。




