プロローグ 《竜玉》 ~一~
初めての方は初めまして。
そうでない方は、また拙作を開いていただき、ありがとうございます。
二十話程度までは毎日更新、以後は一、二週間に一回くらいの更新ペースになると思いますが、よろしくお願いします。
「う、ぐ」
いくつもの痛みが全身を駆け巡り、風間旭は目を覚ました。痛みの種類は鋭いものもあれば、鈍いものもある。
風間の、半分しかない視界から得られる情報は少ないが、白いシャツは至るところが赤く染まっていて、白い部分を探すほうが難しい。
顔は腫れ上がり、右目は塞がってしまっている。鼻も潰れているのか息をするのに口をするしかないが、口腔からも大量の出血があって空気にも血の味が混じっていた。
なにが起きた?
風間は自分の記憶の沼の底を漁る。今日は新しいレギュラー発表があった。小学生の時分から続けてきたサッカーだ。
小中学校では実力不足か努力不足か、あるいは両方なのか、遂にレギュラーの座を射止めることのできなかった風間だったが、高校入学後はそれまでの鬱憤を振り払うかのように練習に取り組んだ。
走る速度は凡庸でも、フリーキックの精度はチームで一番だと評価され、出場した練習試合でも監督にアピールすることに成功してきた。
結果、念願のレギュラーを得ることができたのだ。背番号を渡されたとき、泣いてしまいそうになって周囲からは、からかわれもした。
最近は日も長くなってきたとはいえ、部活組からするとまだまだ暗くなるのは早いと感じる。風間が学校を出た頃には、すっかり周囲は暗くなっていた。
あまり遅くなると母親がうるさいが、今日ばかりは説教も気にしなくて済みそうだ。顔が緩むのが我慢できそうにない。帰路への足取りが軽くなりすぎて足を挫いてしまわないか、自分でも心配になる。
ここまでだった。
どれだけ遡ってみても、風間の記憶はここで途切れていた。ここから先はなにもない。気付けば後ろ手に椅子に縛りつけられ、凄まじい暴力を受けた。誰に? 目の前にいる男にだ。顔はわからない。
首を上げるだけの力も失っていて、不具合が生じている聴力で辛うじて男の声が聞き取れた。
「くそ! なんだよこれは! 期待外れだちくしょうが!」
パソコン画面の前に座って声を荒げている。思い通りになっていないことが起きているのだろう、乱暴に机を叩いてもいた。風間はゆっくりと――ゆっくりとしか動かせない――首を動かす。
場所は倉庫のようで、父親が好きな一時間ものの刑事ドラマ、その二時間スペシャルのときによく放送される犯人の隠れ家のような印象だ。
事実、風間の印象は当たっていた。
倉庫の中にいるのは風間以外には犯人と思しき男だけだ。倉庫の中には、わざわざ持ち込んだのだろう、一部のカバーの破れた二人掛けソファまで置いてある。隅に視線をやると、大きめのゴミ袋の中には詰め込まれたコンビニ弁当や、スナック菓子、おにぎりの空袋がいくつも確認できた。
体を縛っている椅子の足元には、風間自身の大量の血が水溜りになりつつあった。頭から零れ落ちた血の一滴が足元に落ち、広がった波紋が風間の脳細胞を刺激した。
レギュラー発表後、ちょっとした打ち上げが行われる。学校近くにあるコンビニで、近しい友人たちだけで行われた小さく短時間なものだが、空気に酔うというのか、盛り上がってカラオケに行こうという話にもなった。
夜通し遊び続けそうな雰囲気はさすがにマズいと思い、途中で店を出た風間は、練習とバカ騒ぎで疲れてはいたものの、満足した顔で道を歩く。
心地良い疲労感が高校生の肉体と精神に満たされている。高校生活で間違いなくもっとも幸福感に包まれた彼の歩みは、近道を求めて大通りから外れたのが悪かったのか、だが百メートルも続かなかった。
神経を総毛立てるような生暖かい風が風間の頬を撫で、高揚感も幸福感も根こそぎ、得体のしれない恐怖感に取って代わられる。
「っ……誰、だ……?」
辛うじて風間本人の意思に従う口でもって問い詰める、はずだったのに、呟いた程度の声量では相手に何らの痛痒を与えることもできなかった。体や四肢を動かすことはできない。ガムテープでくくられている部分だけではない。見えないなにかに羽交い絞めにされたかのように、指一本を動かすことすら困難だ。
蛍光灯が落とす弱い光の向こう側から、ひょろりとした人影が現れた。
風間の見知った顔、いや、見知っているはずの顔だ。名前はわかる。体格も髪型も風間が知っている通りなのに、暗がりに浮かぶ凶悪な笑みが、風間に強い違和感を与え、混乱させるのだ。
こいつはこんな笑い方をする奴だったのか、と。
人影は一歩、風間に近付く。ずるり、と音を立てて闇から這い出てきたようだ。人を食う巨大な蛇。そんな感覚を覚えた風間の脳は、うるさいくらいに警告の早鐘を鳴らす。普段なら走って逃げ出すこともできたろうに、今はもう神経系がまともに機能していない。椅子ごと倒れて逃げるような抵抗を見せることもできず、ただただ震えるだけだ。
人影はにたりと笑い、たっぷりの悪意を込めて言った。
「よお、風間。ちっと、協力してくれや」
人影が突き出してきた右手には、猛禽類のように鋭く巨大な爪が装着されている。五本の爪はいずれもがべったりと赤黒く汚れていて、鉄を思わせる悪臭が風間の嗅覚を否応なく刺激した。
血液。
直感的に理解した風間の顔が引きつる。
「あああああああああああっ!」
夜を引き裂くような絶叫、だと風間だけが思っていた。実際は、あまりにか細い、囁くような吐息が漏れただけだった。
「っ、頼……む、も、やめ……て、れ……」
聞き取りにくい声だが、はっきりとした命乞いだ。加害者の男はいかにも意表を突かれた、とでもいうように、わざとらしく目と口を丸くした。大仰に手を叩いて、病的に陽気な口調で返答する。
「やめる? どうして? こんなに楽しいの」
男は左手のナイフを振り上げ、
「に!」
風間の右太腿に突き立てた。
「――――っっ!」
声にならない悲鳴を上げる風間。その悲鳴が息切れを起こす前に、太腿からナイフが引き抜かれ、続けて腹部が刺される。男はナイフ越しに伝わってくる肉の感触と、なにより風間が撒き散らす感情に愉悦の笑みを浮かべた。
「そうだ」
腹に突き入れたナイフをそのままにして、男は風間から離れる。
「忘れるところだった。お前に見せたいものがあったんだ。それも二つ」
風間の視界では男の後ろ足、それも膝から下くらいしか見ることができない。それでも、男がパソコンを操作していることだけは、鈍った思考でもなんとかわかった。
男は顔を上げられない風間を気遣ったわけでもないだろうが、髪を掴んで無理矢理顔を引き上げる。片目だけの風間が見たものは、知らないサイトだった。
「知らないだろ? まあ、それは仕方ない。見つけたおれが言うのもなんだが、かなりマイナーなサイトだ。世界にいくつもある動画投稿サイトの一つで、どんな動画があるかというと」
男は風間の耳元に口を近付け、先程以上に多くの悪意を込めて囁いた。
「こぉんなの」
半分だけの視界でも、風間にははっきりとわかったことがある。殺人動画だ。漫画やドラマの世界で見たことがあるだけの、非現実的で凄惨な映像に、風間の片方だけの目は恐怖に見開かれた。
「いい顔だ。ところで、もう一つ見せたいものというがこれだ」
掴まれた髪が乱暴に離され、次に見たものは異形の巨大な爪を装着した男の右手だった。風間にとって、それはさっきからずっと見ているものだ。否応なく視界に飛び込んできて、あまりの不吉に意識を背けていた。なのにこの男は、まさに今初めて見せるように、誇示してきたのだ。
血に塗れていて、血以外のものも付着しているせいで汚れが酷い。体毛や皮膚片、組織の一部がこびりついていて、手入れの類は一切されていないことが素人目にもわかる。装着ではなく皮膚に癒着しているようでもある。
「そうだ。最後に教えておくことがある」
異形の爪が走る。風間の喉は引き裂かれ、鮮血が噴き上がった。
「今から新しい動画を上げようと思っている」
二話目は本日中に投稿する予定です。