遠い遠い昔の話
休憩していた南側から町を斜めに横切るようにして東側へと向かう。
午後も午前と同じように様々な職場を回っては挨拶を重ねる。
午前は農場や牧場といった食物を扱う場所が多かったが、午後の最初に巡った町の南から東にかけては石切り場や印刷場、製紙工場や時計工房といった工場が多く軒を並べていた。
時計工房には老人がひとりいるだけだった。鳥の巣のように絡まった白髪の下、分厚いレンズを片目にはめて時計をのぞき込んでいる。細いピンを片手に、軸や歯車を精緻に組み合わせていく。工具を回し蓋を締め、ねじを巻き直すと時計は何事もなかったように動き始めた。カチリ。
「こんな世界であっては時計なんぞ、なんの意味も持たないんだがね。日が昇れば目を覚まし、暗くなったら家に帰る。それ以上、時刻を細かに分ける必要がない。けれどワシはこの時計の音が好きなんだ。一秒毎に時を刻む音。永遠のようなこんな世界にあっては、この音だけが時の有り難さを思い出させてくれる」
最後に訪れた養蚕場をあとにすると、ふたりは東側の端へと足を向けた。
北と南の町端には丘を下り、リックが町の入り口で見上げたような二本の木はない。町と外との境界も曖昧で、その先には見わたす限り外の世界が広がっているだけだ。北側の先には岩肌の崖が立ち、南側には町を横切る一本の川と平原が遥か彼方まで続いている。誰かがそこから出て行くことも入ってくることもなく、誰かに町の境界を、人の存在を知らせる必要もない。
だから北と南の境に木は立っていなかった。東側の外もただ平原が開けているだけで、霞むほど遠くまで目を凝らして見ても目に留まるようなものは何ひとつとしてなかった。途切れることなく道すらなく、どこまでも草原が続くばかりだ。けれどこの東側は違っていた。北側や南側と同じようにその先には何もないのに、道の両脇には二本の木が町と外との境界線をはっきりと示していた。
「ここは旅の扉と呼ばれています」
リックとナツが東の端に着いた時、太陽はすでに今日の頂きを越えて森の方角へと傾き始めていた。陽の光りが境界線に立つふたりの影を町の外へと伸ばしている。
ナツは入り口に立つ木の息吹を感じとるかのようにそっと幹に触れると、そのまま視線を上へと向けた。
「毎年この二本の木の真中を通るように太陽が昇り、西側の木の間に真っ直ぐに沈んでいく初夏の一日に、『雪雛おくり』というお祭りが開かれます。春の恵みを楽しみ、秋のより良い収穫を町の皆で祈るお祭りです。それは神様の加護を願い、豊穣の感謝を捧げる神事であるとともに別れを、新たな門出を祝う場でもあるのです」
ナツは静かに話し始めた。
「お祭りの翌日、町人のひとりがここから旅立っていきます。彼らは旅立ち人と呼ばれています。どこへ旅立って行くのか、どうして旅立たなければならないのか、誰一人として知る人はいません。町のことや世界のことを私たちが何も知らないように、旅立ちについてもほとんど何も分かっていないのです。ただひとつ、旅立ち人は雪雛おくりのひと月ほど前の夜、くじらの夢を見ると言われています」
「くじら?」
その言葉に、リックは目覚めた時に見上げていた円い空を思い出した。尾びれを大きく揺らし、まるでとなりを流れる雲とじゃれあうみたいに大空を泳いでいたくじらの姿を。
「はい。海に住むというあのくじらです。そして夢の中でくじらは語るそうです。旅立ちの日は遠くはないと。もちろん語るといっても言葉を交わすわけではありません。交わすのは心や意識です。くじらの目を見た瞬間、彼らは理解し受け入れてしまうそうです。自分に旅立ちの日が訪れようとしていることを。旅立たねばならないことを。
そんな夢みたいなことって、そう思うかもしれませんね。本当に夢のような話ですがその夢から覚めると、くじらの尾びれのような模様が胸元に残っているそうです。
旅立ち人に選ばれることは名誉なことだと言われています。しかし旅立ち人は選ばれても、自分が選ばれたことを町役をのぞいて町の誰にも話してはいけない決まりになっています。
夢を見た日からおよそひと月の間、旅立ち人はその秘密を守り、そして雪雛おくりの翌日、誰に言うことなくひっそりと、この二本の木の間から町の外へと旅立って行くそうです」
ナツは視線を下ろすと振り返った。
「広間の窓に飾られた、絵や模様の描かれた硝子を憶えていますか」
「はい」
「あのガラスは色絵硝子と呼ばれています。ここから旅立った人たちの忘れ形見なんです」
下ろした視線をもう一度木に戻すと、ナツは小さくも強く息を吸った。
「遠い遠い昔の話だと聞いています」
「その昔、この町にひとりの硝子職人がいたそうです。そして彼がその年の旅立ち人。ただ悲しいことに、その人には将来を約束した女性がいました。彼はもちろん彼女にも、町の誰にも自分が旅立ち人だと明かしませんでした。しかし彼女の方は彼の態度の変化から、不意に気づいてしまったそうです、彼が今年の旅立ち人だと。恋人ですからどんなに隠そうとしても隠しようのないことなのかもしれませんね。お互いに言うことも訊くことも出来ないまま最後のひと月が過ぎ、雪雛おくりの日を迎えました。
無事に祭りを終えた翌朝、まだ外は暗闇に覆われ町中が寝静まっている時刻に、彼はひとり静かに出立しました。彼女は見つからないよう物陰に隠れ、見送りに立っていた町役がその場を離れると急いで彼の後を追いました。町からは絶対に見えない距離まで来た時、彼に追いつき声をかけました。彼女は訊ねます、
『どこに行くの』
『分からない。けれど、行かなきゃいけないんだ、どうしても。ごめんな、本当に』
声をかけられても彼は振り返ることも彼女の顔を見ることもなく、それだけを言うと再び歩き出しました。彼女もそれ以上何も言えず何も訊けず、ただ彼の横に並んで歩くことしか出来ませんでした。離れないように離さないようにいつもより強く、手を握って。
夜になり、ふたりは火を起こして休みました。
最初に交わしたひと言より後は、どちらとして口を開くことはありませんでした。言葉のないふたりの間を、焚き火の燃える音だけが響いていました。
彼女は眠るつもりはありませんでしたが、疲れや張りつめていたものが緩んだこともあったのでしょう、気がつくとほんの少しの間だけ眠ってしまいました。うたた寝とも言えない、ほんのわずかな時間。しかし、その一瞬の間に彼は煙のように消えてしまったそうです。腰掛けていた場所には跡すら残っておらず、あたりは見わたす限りの平原で身を隠せるような場所はどこにもありませんでした。足跡ひとつ残っていない中、それでも彼の姿を追いましたが何も見つけることなく二日後、彼女は涙とともに町に戻りました。町は彼女が突然いなくなったことで大騒ぎになっていました。彼女は町に戻ると一番に彼は戻っていないかと訊ねましたが、町の人たちは誰もがこう答えたそうです、
『誰だい、それは』と。
町の人、全員がです。誰に訊ねても彼のことは知らない、記憶にないと言います。誰も、誰も、誰も。彼女は彼の家に向かいましたが、そこには彼の私物や雑貨はおろか家具すらなく、広くなった部屋にはうっすらと埃まで積もっていました。
彼の形跡がなにひとつとして見つからず自分自身をも疑いそうになりましたが、それでも一日中握りしめて歩いた彼の手の温もりと握り返す感触だけは彼女の手に残っていました。たとえ町の誰ひとりとして彼のことを憶えていなくても、それだけは彼女にとって絶対だったのです。
失意の中、彼女は自分の家に戻ります。扉を開け、崩れるように腰を下ろした時でした。涙も涸れた彼女の目に一枚の絵が映り込みました。春の訪れとともに咲く、白い花びらと黄色い雄しべの野花。その絵は彼女の一番好きな花を映した色絵硝子でした。彼からの最後のプレゼントでした。
彼女は町中の人にその一枚を見せて回りましたが、それでも彼のことを思い出した人は一人としていませんでした。後日、彼女は町役にこう語ったそうです。
『私、苦しいんです。つらいんです。料理をしていても洗濯をしていても、あの人のことが浮かんでくるんです。忘れることが出来たら楽になれるのかもしれない。けれど忘れてしまうことの方が私には怖いんです。忘れてしまったら彼は本当にいなくなってしまうんです。だから私はこの痛みとともに生きてゆきます。たとえ辛くても一緒に過ごした思い出とここにいたんだという色絵硝子があるから、私はこの痛みとともに生きていきます』
次の年からその年の旅立ち人を知る人は四人になりました。
旅立ち人その人と見送りに立つ町役、色絵硝子を製作する硝子職人、元となる絵を描く絵師の四人です。
旅立ち人が自分の心に一番残っているものを色絵硝子にしてもらい、それを祭りの翌日より町場の広間に飾る。それ以来、町の風習になっているとのことです」
話し疲れたのか思いを巡らせているのか、ナツは幹に手を置いたまま、じっと目を閉じている。リックは何も言えずにナツの後ろ姿を見つめていた。風が、梢を揺らした。
「結局、町のひとりとして誰かがいたことを憶えていないのなら、色絵硝子も意味のないことなのかもしれません。けれど、旅立たなくてはならなかった人がいたのかもしれない。その誰かが自分の大切な人だったかもしれない。窓一面の色絵硝子を目にしてそう思うだけで、私は今日ここにいられることに感謝し恥ずかしくないように過ごしていこうと、そう思うのです」
見上げた空はまだ鮮やかな青色を残していたが、森の奥へと傾きだした太陽は橙色の光りを発しては雲を染め、空に青色と橙色の層を作っていた。
ナツは右の指先で目尻に触れると、何かを振り解くようにさっと振り返った。
「もう夕方ですね。これで町の案内は終わりです。今日一日お疲れさまでした」
その夜、リックはベッドに入ると天井を見上げて思い返していた。
この世界に来た日、森に切り取られた円い空の中で雄大に泳いでいたくじらの姿を。
くじら、色絵硝子、旅立ち人、胸に残る尾びれの跡。
その話しはまるでおとぎ話のようで、リックにはナツの話していたことがうまく掴めなかった。絵空事のようで本当のこととは到底思えなかった。
祭りがあるのは夏の初めだ。その日はまだ遥か遠く、秋を、冬を、春を越えなければやって来ない。リックは考えるのを止めて静かに目を閉じた。