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コーザ


「そろそろ仕事も終わっているでしょう」

 

 散らかった部屋をさっと片付けると、階段を下りて煉瓦づくりの建物へと向かう。正面へ回り木札のかかった扉を開けると、中は甘く香ばしい匂いでいっぱいだった。

 

 その匂いに気を取られていると、白いエプロンをかけた女性が手を拭きながら奥から出て来た。彼女はリックが来ているのを目にすると奥の部屋に声をかけた。その声におそろいの白いエプロンと帽子をかぶった男が顔を出した。


 ここはこのロッソ夫妻が二人で切り盛りしているパン工房、天秤座だそうだ。この町には全部で四つのパン工房があり、ロッソ夫妻は主に広場より北側の人たちにパンを焼いているらしい。

 

 工房の朝は町の誰よりも早い。まだ太陽が地平線の遥か下で眠り、星が一日でもっとも流れる時刻にかまどに火をいれ、朝食に間に合うようにパンを焼き上げる。だから夜は早くに休んでしまいあまり役に立てないかもしれないが、何かあったら遠慮なく言って欲しいとリックが恐縮してしまうほど丁寧にふたりは述べた。


「残り物で悪いんだけど、よかったら食べてよ」

 

 帰り際、彼女はパンを詰めたバスケットを持たせてくれた。


「明日はこの町を案内します。何か困ったことがあったら、ロッソさんか同じ部屋の方に言ってください。遠慮することはありませんから」

 

 挨拶を終えて建物から出ると、ナツは一礼し町場の方へと帰っていった。

 

 坂を下る姿が一歩ずつ小さくなり、左に折れると見えなくなった。空はすっかり夕日に染まっている。リックは部屋に戻るとすることもなく、窓側のベッドに腰掛けて天井を見上げた。鳥のさえずりが聞こえると窓から顔を出してその姿を探した。


 小鳥は三羽か四羽がひと組となってやって来た。石畳に降りると小走りで近づき、皿に残ったパンをついばんだ。小鳥には見るからに大きなパン屑をくちばしを使って器用に口に詰め、上を向くと少しずつ飲み込んだ。そんな小鳥たちの様子を眺めているとリックの頭にひとつ考えが浮かんだ。

 

 太陽が森の奥にかかり、窓から見える家々にもぽつぽつと明かりが灯りはじめた。その様子をぼんやりと眺めていると下の扉が勢いよく開き、その勢いのまま足音が階段を駆け上がった。


「お前か、新しいノーマは」

 

 階段を上って顔を出したのはナツの話していた通り、リックと同じ年の頃の少年だった。

 金色の髪はつんと立てられ、ぐりぐり眼とその下のそばかすが正直者という印象を強くしている。シャツは汗でぐっしょりと濡れ、顔や服は煤と焦げで黒く汚れている。ふたりの背丈は少年が立てた髪の分だけ高いぐらいでほとんど差はなく、互いに細い線をしていたが、少年の幅のある肩と捲り上げられた袖の下からはリックにはない力強さがうかがえた。


「俺はコーザ。分からないことがあったら何でも俺に聞いてくれよ」

 

 コーザは手を出し、リックの手を強く握った。リックはその手を正直痛いぐらいに感じていたが、その力強さよりも手のひらから伝わる感触に驚いた。彼の手のひらにはいくつも肉刺まめができ、潰れた肉刺が手の皮を厚く硬くしていた。


「と、言ってみたけれど俺もこの町ではまだ二番目の新参者だからな、まだまだ知らないことだらけなんだけどな」

 

 人好きのする笑みを浮かべて、自分の言ったことを嘲るようにコーザは笑う。その顔を見ていると、一緒に住む人ってどんな人なんだろう。そう悩んでいた不安も薄れていった。


「ところでさ、入った時から気になっていたんだけど何かいい匂いがしないか、この部屋」


 匂いの出どころを探るように、コーザは小刻みに宙を嗅ぐ。


「待っている間、やることもなかったから作っていたんだ、夕食を」


 リックがかまどの方を振り向くと、コーザは跳ねるような足どりでそちらに向かい、小鍋の蓋を開けた。鍋の中に溜まってた匂いがぱっと部屋に広まった。コーザが立ち上る匂いを湯気ごと吸い込むと、どこからか腹の虫が大きく鳴いた。その音を聞くと野菜を切り、煮込み、不安に思いながら新しく一緒に暮らす人を待っている間、リックは何度も繰り返した言葉を声に出した。


「良かったら一緒にと思って」




「本当に美味かった。この町に来てからもう結構たつけどさ、今まで食べたなかで一番美味かったよ」

 

 コーザは三皿目を食事が今はじまったかのような勢いでかき込み、天秤座でもらったパンを半分食べてもまだ足りず、リックの分をさらに半分もらい、皿に残ったスープをパンで最後の一滴まで残さず掬うと口を大きく開けて頬張った。

 

 そこまで食べるとさすがに満腹になったようで椅子を引いて後ろにもたれかかり、見るからに膨れ上がった腹を満足気にさすった。


「けど、よくあんな材料でこんなに美味いものが作れたよな」

 

 コーザは後ろの棚をあらためて眺めた。

 今まで食事はどうしていたのかと不思議に思えるほど、部屋に食料は見当たらなかった。部屋に残っていたのは箱に詰められたままの何種類かの野菜とバター、乾いて固くなったチーズだけだった。

  調味料の類いに至っては塩しかなく、ロッソ夫婦にオイルと胡椒を分けてもらい、庭先になっていた香辛葉を摘み取った。

 

 香辛葉をじっくり炒めて香りを引き出し野菜を加え、バターと馴染ませてから水を入れて煮込むと、野菜が柔らかくなった頃に薄く切ったチーズを加えてスープを作ってみた。あり合わせの、材料とも言えない材料でなんとかこしらえた夕食だったが、コーザの食べっぷりを目にしてリックは胸をなで下ろした。


「なあ」

 

 そう言いながらコーザはテーブルに乗り出した。


「俺が部屋の掃除と食料の受け取りに行ってくるからさ、リックが料理を担当するってのはどうだ? いわゆる作業の分担ってやつだな。俺はどうも料理ってのが苦手でさ」


「いいよ。料理するのは好きだから」


 最初に入ってきた時の部屋の散らかり具合を考えるとコーザに掃除を任せるのは気が進まなかったが、料理をすることが少しも苦にならなかったリックはその提案を受け入れた。

 この夕食を作る時もまるで体が作り方を知っているかのように、自然と手が動き野菜の皮をむいて手早く切ることができた。名前以外何ひとつ憶えていなかったリックにとって料理をすることで何かを思い出せるかもしれない、そんな希望もあった。


「助かるよ。これでもう齧らなくてすむ」


「かじるって?」


 意味が分からず、リックが訊き返す。


「今まで料理なんてしてなかったからさ、齧ってたんだよ、そのまま野菜を。ぽりぽりってさ」


 コーザはまたも自分の言ったことを戯けるように笑った。リックもたまらずに吹き出し、声を上げて笑った。昨日まで虫の声しか聞こえなかった庭先にふたり分の笑い声が響いた。

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