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旅立ち人


 朝に起こされるように、リックは目を覚ました。

 

 頭が空っぽで真っ白だったが、すぐに昨日が雪雛おくりだったことを思い出すと、リックは跳ねるように体を起こした。窓枠にかかっていた月明かりはもうそこにはなく、代わりに朝日が射していた。


 慌てて振り返ると隣りのベッドからはいつもと変わらない、いびきまじりの寝息が聞こえた。その音に、リックは大きく息をついた。何度も繰り返してきた朝の光景。何かが変わってしまったようには少しも思えなかった。


 どれくらい眠っていたのだろう。

 外からは時折、小鳥のさえずりが聞こえてきた。昨夜は夜が深けるまで起きていたはずなのに少しも眠気を感じなかった。コーザが目を覚ましそうな気配はなく、リックは静かに着替えをすませると階段を降りて外に出た。見上げると水色の空は高く、陽は昇りはじめたばかりだった。その水色の空に映える白い煙が天秤座の煙突から静かに上り、香しいパンの焼ける匂いが庭に流れていた。


 リックはいつものように裏口から天秤座に入るとカサノとチノと言葉を交わし、焼きたてのロールパンを二つ受け取った。紙袋の隙間からバターのいい匂いが抜けてくる。パンを口にしながら柵を出て、行き先も決めずに早朝の町を歩いた。


 時々、町の人に会い、言葉を交わす。

 祭りの翌日でまだ眠っている人も多いのか、人通りはいつもよりも少なかった。


 ぼんやりと歩き小道を曲がると、町の西側への大通りに出た。

 そのまま真っ直ぐに進んでも、そこにあるのは境界線に立つ二本の木と丘へと続く坂道だけだったが、陽射しが心地よくて考えることなくリックはその道を進んだ。


 入り口につき、前を見る。その先に続く景色はいつもと変わらない、緩やかな坂道だけだった。右に曲がり左に曲がり、のんびりと道が丘の上へと続いている。ただ誰が取り付けたのか、境界線に立つ二本の木の片側に『エルノ』と彫られた真新しい板が取り付けられていた。そうだ。この町に名前がついたんだ。名前の彫られた木板を目にして、リックはあらためて嬉しくなった。その気持ちとともに道を引き返した。


 人通りこそまだ少なかったが、陽が高くなるにつれて家の前に干される洗濯物は増えていった。風にはためくその風景も一年前、エーダとはじめてあった時と少しも変わっていなかった。

 

 工房に立ち寄る。今日は前もって休みにしていたことに加えて、みんなのなかにまだ昨日の酒が残っているのだろう。工房に入っても誰も来ておらず、落ちてしまわない程度に弱められた炉の火だけが、無人の工房の中でひとり働いていた。棚に置きっぱなしになっている古い瓶を手に取って指で弾いてみても、澄んだ音色が誰もいない工房に反響するだけだった。


 工房をあとにすると広場に向かった。椅子も机も飾り付けもすでに片付けられ、昨日の祭りの名残りは何一つとして残っていなかった。人や机や笑い声で埋められていた昨日の広場が目に焼きついていて、今日の様子は元に戻っただけなのに、閑散としていつもよりも広く思えた。囲いの縁に腰をかける。色鮮やかな魚がその中を泳ぎ、背びれが水面に線を引いている。空には白い雲が今日の日のように、ゆっくりと東から西へと流れている。


 ふと視線を下ろすと、道の先に見知った顔が見えた。

 少し距離があってすぐには分からなかったが、それは確かに水車小屋のチェスだった。どうしてチェスがここにいるのだろう。そう疑問にも思ったが、チェスの表情を見るとそんな疑問もすぐに消えてしまった。言葉にならないその表情はただ、何かを抱えていた。それが何なのかリックには分からなかったが、その目を見ていると急に胸が騒いだ。


『待って』


 リックが立ち上がろうと足に力を込めた時、後ろから声がした。


「今日はお休みですか」


 振り返るとローレンスが町場の階段を下り、囲いの方へと歩いて来ていた。


「いい天気ですね。こんな日に木陰でのんびり過ごしたら、本当に気持ちがいいでしょうね」


 ローレンスが空を斜めに見上げる。

 リックは振り返った視線を戻して道の先を探したが見通しの良い一本道にもかかわらず、チェスの姿はどこにも見当たらなかった。道の先まで目を凝らしてみても小柄な女性がふたりいるだけで、大柄なチェスの体は影すらなかった。


「そうだ」


 思い出したように、ローレンスは両の手を合わせた。


「昨日、美味しいお茶をいただいたんです。よかったら飲みに来ませんか」


「いただきます」


 チェスのことに気をとられて、考えることなくリックは答えた。

 それを聞いたローレンスはひとつ頷くと、踵を返して町場へと歩きはじめた。リックはもう一度、道の先を探してみたが、その先にいるのはやはりふたりの女性だけでチェスの姿は見当たらず、気にかかりながらも急ぎ足でローレンスの後を追った。落ち着いてはいたが不安はまだ、胸のなかに影を落としていた。あとで水車小屋に行ってみよう。そう思いながら、リックは町場に入った。


「お茶を入れてきますから、待っていてください」

 

 広間の椅子を指し示すとローレンスは奥へと入っていった。

 リックは言われたように広間に入り、席に着いた。見渡しながら、ここも最初に来た日から変わっていないなと思った。天井は高く吹き抜け、何列もの長椅子が整然と並んでいる。色絵硝子を照らしている明かりが夕日から朝日に変わったぐらいだ。それでも色絵硝子は澄んだ光と色を広間に投げかけ、見つめるリックをあの日のようにすぐに惹きつけた。

 

 不意に、温かいものがリックの頬を流れた。

 それは両の目から溢れるように零れるように絶え間なく続いた。どこからこの気持ちが来るのか、どうしてそう思うのか、分からなかった。色絵硝子に惹かれてそう感じているのではない。それだけが確かだった。ただ、寂しいという気持ちが止めどなく押し寄せた。寂しさはふたつの目からだけでなく、口からは嗚咽となって溢れた。言葉が出てこなかった。何かを言おうとしても、浮かんだままの言葉は形をとることなく、開いた口唇はいたずらに空を食むだけだった。


 どうしてだろう。この一枚を見ていると何故か、息が出来ないほど息を止めたくなるほどの寂しさが溢れてくる。目から零れた涙が頬を伝い、石畳を濡らしていく。染みをつくっていく。一粒でしかなかった染みは零れるほどにその形を大きく、その色を濃くしていく。


 どうしようもなく、リックはその寂しさに沈んでいた。

 冷たく、灯りもない寂しさの底。そっと初夏に匂いがした。涙で霞んだ視界でリックは必死に目を凝らした。小さな欠片。本当に小さく、消えてしまいそうなほど幽かに、けれど確かにそこに欠片はあった。欠片は温かく、温かいのに見つめるほどに、リックの胸を締めつけた。掴もうといくら手を伸ばしても、その手が触れることはなかった。それでもその欠片は近づくほどに涙を乾かし、見つめるほどに締めつける胸を温めた。


 窓一面に飾られた多くの色絵硝子たち。

 一番下の列の一番端のその一枚。


 その一枚には白い毛皮の一匹と太陽に向かって大きく強く咲く、黄色い花が描かれていた。


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