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名前


 そんな時だった。突然、町場の鐘が鳴り響き、集まっていた誰もが振り返った。今まで広場を覆っていた話し声や歓声や音楽はぴたりと止み、ふたたび鳥の声が聞こえるほど静かになった。


「皆さん、お楽しみのところ突然すみません」


 その静けさの中心にローレンスが歩み出て、広場の端まで聞こえるように大声で言った。酒の入った人からは突然止めたことに少しばかりの野次も飛んだが、ローレンスは気にする様子もなく、自信たっぷりに続けた。


「すみません。ですが事前にお伝えしていたように、この町の名前を決めたいと思いまして」


 それを聞くと広場はまた歓声に包まれた。野次を飛ばしていた人たちもそんな振る舞いをしていたことすら忘れて、俺に任せろとばかりにグラスを掲げて盛り上がった。


「それでは案がある方はこちらの台の上で、この町に相応しいと思う名前とその理由をお願いします」


 町の人たちはひとりずつ台に上がると、温めてきた自慢の名前を順に語った。

 森で目覚めるから森の町、町の中心を川が流れているから川の町、秋になると町の西側に黄金色の麦が実ることから黄金麦の町。酔っぱらった蔵元のドドンは俺の名前が一番だと叫び、


「恥ずかしいったらありゃしないよ」


 と、顔を真っ赤にした奥さんに台から下ろされていた。


 次々と候補が上がっていくもどの名前もひとりよがりで、誰もがこの町のものだと思える意味と響きを持つ名前はひとつとして挙がらなかった。時間がたつにつれて最初の盛り上がりは薄れ、からかいまじりの声も飛び交った。そんな空気の中、最後のひとりが緊張した面持ちで台に上がった。


「古書の研究をしているナツといいます。私は『エルノ』という名前を、この町の名前に推薦します」


 聞いたことすらない名前の登場に少し退屈していた人たちもざわつき、どういう意味だと互いに訊ねた。そのことを台上から察したナツは話しを続けた。


「私は町場の地下に眠っている本を日々整理し、誰もが楽しめるよう古語を訳す、そんな仕事をしています。町場の地下は本当に広く、読まれることを待っている本はまだまだ無数にあります。そんな数えきれないほどの書籍の山から先日、私はある一冊の本に出会いました」


 何事にも冷静で落ち着いているナツだったが、台の上から語られる彼女の言葉は話の広がりとともに熱を帯び、勢いを増していった。広場に集まった人たちも誰もがその熱意と語られる物語に惹かれて口を閉じ、ナツの言葉に耳を傾けた。


「その一冊は書棚の隅で埃を被ってひっそりと置かれ、先日となりの本を手にした時に誤って落としてしまうまで、私も気に留めていませんでした。本を拾い埃を払った時、表紙を目にして初めて不思議に思いました。地下に保管されている書物はどれとして同じものはなく、一度でも読まれた物語がふたたび地下に戻ることはないからです。けれど、その本は私の良く知っている一冊でした。皆さんも良く知っている一冊でした。表紙には夜空を見上げる一匹の犬とガレフの星々という題が書かれていました」


 一息つき、反応を確かめるようにナツは広場を見渡した。

 本の題名を耳にしても誰ひとりとして口を開く人はいなかった。それが驚いているからなのか、困惑しているからなのか、退屈しているからなのか、伝わっていないからなのか、壇上のナツには判断できなかった。


「不思議に思いつつ、私は惹かれるようにその本を開きました。ランプの灯りのもと頁をめくっていくと、ガレフと少年が麦畑を駆けまわり、川で泳ぎ、木陰で休んでいる、私たちが知っているものと全く同じ物語が描かれていました。しかし同じに見える物語のなかで、ひとつだけ異なっていることがありました。ただひとつ違っていたのは、私たちが知っている本の中では少年と呼ばれていた人物に名前があったことです。エルノという名前が」

 

 乾いた唇を湿らし、ナツは自分自身に語りかける。大丈夫。


「私たちはある日森の中で目覚め、この町で暮らし、いつの日か旅立っていきます。どこから来てどこに行くのか、誰も知りません。昔から読み継がれ、器を用いた豊穣の祈りと感謝の祭りを行う。ガレフの星々はこの町にとって大切な一冊だと伺っています。そのガレフが待ち続けた少年の名前こそ、この町にもっとも相応しい名前ではないでしょうか」


 ナツが問いかけるように言葉を終えた。

 町の人たちはひとりとして口を開かず、風の音だけが広場を通り抜けた。町の中心に日射しが不釣合いな陽気さを落としている。


 そんな静けさの片隅で誰かが不意に手を叩いた。

 たったひとりの小さな拍手はとなりに伝わり、その小さな拍手がまたそのとなりへと伝わった。小さな拍手が次々に重なっていく。雫が波紋を投ずるように、パンがかまどで膨らむように、最初たったひとりが送った小さな拍手が重なり膨らみ、いつしか広場いっぱいに広がった。広場に集まった誰もが割れんばかりの拍手を送っていた。拍手の間からは歓声や指笛も聞こえてくる。その光景を目にして言葉にならない気持ちがナツの胸の奥から込み上げてきた。口から零れそうになるその想いを一息に飲み込むと、ナツは深く頭を下げて台から下りた。広場に集まった全員の気持ちを叫ぶように銀の鐘が爽やかな音を鳴らし、その音と競うように八つの楽器が目一杯の演奏を響かせた。誰もが演奏にあわせて踊り、収穫に感謝し、町の名の誕生を祝っている。言葉を交わしては、笑い声を上げている。コーザも、ヤンも、グエンも、バーデも、エーダも、チェスも、ザジも、リリナも、コルテオも。カサノとチノははじめて三人で雪雛おくりを祝っている。ジンも目の下を黒くしながらも、止まることなく杯を重ねている。その姿は声は本当に幸せにあふれていて、外から眺めていたリックにも自然と同じ気持ちが湧いてきた。その気持ちを確かめるように、リックは指先を擦り合わせた。


「ありがとうございました」


 鳴り響く音楽と笑い声で気づかなかったらしく、リックが顔を上げるとナツが立っていた。


 そのままナツはリックの隣りに腰を下ろした。

 雪巡りの時の化粧を落としてはいるが、紅をさした唇はまだ、かすかにその色を残していた。


「ありがとうって、何がですか?」

 

 リックは見当もつかず、ナツに訊ねる。


「ガレフの器、昨日割れてしまったんです。リリナは一晩中泣きはらして、ローレンスさんをはじめ、町の人たちもどうしたら良いか分からなくて。けれどジンさんと製鉄場のバルバドスさんのふたりが夜を徹して代わりのもの、いえ、以前のもの以上に素敵な器を作り上げてくれて。割れてしまった器は昔から伝わるもので、たとえどれだけ素敵なものでも代わりになることはないのかも知れませんが、それでも今日、リリナは笑顔で雪雛おくりに臨むことが出来ました。本当にありがとうございました」


「ふたりが」


「はい。昨日バルバドスさんが刀を打っているとジンさんが製鉄場に現れてふたりしてどこかに出かけたらしいのですが、今朝早くにバルバドスさんが出来上がったばかりの器を抱えてローレンスさんのところに来たそうです。ローレンスさんはジンさんが器の形を作り、その器にバルバドスさんが線を刻んだんだろうと言っていました。ジンさんは硝子職人でバルバドスさんは刀鍛冶、どちらかひとりではあの器を作ることは出来ないだろうからって」

 

 あの器はジンが作ったものだと確信していたが、刻まれた模様がバルバドスによるものだとは想像すらしておらず、それを聞いてリックは声も出なかった。


 秋の収穫の日のふたりのやりとりを思い返してみても、あのふたりが一緒にいるところなんて話を聞いた後ですら思い描くことができなかった。それでもあのふたりが一緒に取り組んでいるところを考えると不思議とそんなこともあるかもしれない、そんな気がしてきた。


 互いに文句を並べながらも最高の器にしようと、汗を流している姿が見えてきた。ジンが製鉄場に顔を出す様子を思い浮かべると、おかしくも温かい気持ちが湧いてきた。けれどそこまで想い描けても、リックにはもうひとつ分からないことがあった。


「僕は何もしていません」


 器を作り、雪雛おくりを無事に迎えられたのはジンとバルバドスのおかげだ。リックが何かをしたわけではなかった。ふたりが器を作っていた間、リックは毛布に包まり寝息を立てていただけだ。


 ナツに訊くとナツも訊ねられるまで気がつかなかったというように、どうしてだろうと不思議そうな表情を浮かべた。ひとつひとつ確認するように考えを巡すと彼女は言った。


「そうかも知れませんが、なぜでしょうか。あなたにもお礼を言わなくちゃって、そう思ったんです」


 ナツは恥ずかしそうな笑みを流れる髪の隙間からはこぼした。

 町の人たちは疲れることも飽きることもなく、踊り歌い、酌み交わしては杯を重ねている。演奏と笑い声が反響して、広場いっぱいに膨れている。そんな広場の端の少し離れた場所にいるふたり。今ならリックは言えそうな気がした。


「おめでとうございます」


 今度はナツが何のことだろうといった顔を浮かべている。


「町の名前」

 

 リックが続けた。


「エルノ。響きも理由も本当にこの町にあっていて、ずっと昔からこの名前だったような、そんな気がします」

 

 ナツは口を閉じて、少し先の踊っている人たちを見ていた。

 その顔はどうしてだか嬉しそうにも悲しそうにも見えず、ただ目を開いたまま眠っているように見えた。リックはナツがどうしてそんな顔をしているのか、自分の話しを聞いているのかも分からなかった。生まれた隙間を気持ちだけ埋めるように、ぽつりぽつりとリックは話しを続ける。けれど、溢れるほどの喧騒の片隅でその小さな沈黙に耐えられないように、ナツが口を開いた。


「嘘、なんです」


 リックは周りの騒々しさに、自分が聞き間違えたんだろうと思った。間の抜けた声がリックの口から漏れた。


「地下の絵本で少年の名前を見つけたことも、エルノという名前すらも、私が勝手に作ったことなんです。嘘なんです」


 話しだけが先を行く。リックは何も言えずに分からずに、ナツの横顔を見つめている。


「私にもどうしても忘れたくないことがあるんです」


 椅子からゆっくりと立ち上がると、ナツは前を見据えて口を開いた。


「町のみなさんには本当に申し訳ないことをしたと思っています。名前という町の顔に、私が自分勝手に傷をつけてしまったんですから。けれど私にもどうしても忘れたくないことがあるんです。こんなことをしてまで忘れたくないことがあるんです。それでもいつかは忘れてしまう、そのことも分かっているつもりです。どうしてこの名前を選んだのか、名前をつけたことすら思い出せなくなる日がいつの日か来るということも。たとえそうだとしても意味のないことだとしても、私は私が憶えている間に本当に忘れてしまう前に、私が出来ることをしておきたかったんです」

 

 言葉を終えたナツは振り返らず椅子に腰掛けもせず、そのまま前を見つめていた。ナツが何を思ってこんな話をしてくれたのか今どんな顔をしているのか、リックには想像も出来なかった。話だけが大きく膨らみ、大きすぎて全体が見えなかった。見えている場所ですらどこを見ているのか、何を目にしているのかすら、よく掴めなかった。


 ただ、すぐ隣りにいるはずなのに、ナツの色彩が褪せていくように思われた。

 広場の笑い声や会話や音楽が溢れるほどのはずなのに、距離感を失い、徐々に小さくなっていく。初夏の日射しは弱まり、料理の匂いが薄らいでいく。


 何もかもが遠ざかっていくように思える中、潰した膨らみの痛みだけがリックの指先に残っていた。周囲が遠のいていくのと反対に、指先の感覚だけが鋭く、痛みだけが強く、はっきりとしていった。じんわりとしていた指先の痛みが胸の鼓動に合わせて脈を打ち、打つ度に感覚を濃くしていった。


 その痛みを道標に、色褪せていく距離を埋めるように、リックは手を伸ばした。

 その先のナツの手に、触れた。


 どんな顔をしていたのだろう。

 リックは考えるよりも先に立ち上がりナツの手を握ると、振り返らずに前へと進んだ。町の人達が踊り歌う、輪の中へと真っ直ぐに。そうすることが正しいことなのか、ナツの手に触れた瞬間にも駆け出した後にもリックには分からなかった。


 ナツが何を忘れたくないのか、町の人たちに嘘をついてしまったことがどういうことなのか、リックにはよく分からなかった。けれど自分にも忘れたくない、失くしたくない想いがあるのだと握る手のひらが教えてくれた。


 言葉にならないもどかしさを抱えながら、そのことをリックはナツに伝えたくて気づいて欲しくて、強くその手を握った。気のせいかもしれない。リックに触れるナツの手が、それでも確かに、少しだけ強く握り返した。

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