絵本
最後のグラスが出来上がった時、すでに陽は森の端にかかり始めていた。
その時刻になってもジンは戻ってきておらず、リックは片付けを終えると家に帰った。
家に着いた時にはもうあたりは暗く、コーザも先に戻っていた。夕食をはさみながらジンに訊けなかったことをリックはコーザに訊ねた。
「ガレフの器は俺も去年の雪雛おくりの時に一度見たことがあるだけだけどさ」
炒ったひよこ豆をつまみながらコーザが話す。
「雪雛おくりの最初に雪拾いといってその年の巫子が雪の樹の種を拾うんだけど、器はその種を入れておく入れ物でさ、 去年巫子が前を通った時に一瞬見えただけだけど、硝子の表面に細かい線が刻まれていてその線が光りを反射して、虹みたいで本当に綺麗だったな」
「その器、何か特別なのかな」
「特別って?」
「その器が割れたって聞いてみんな騒いでいたから。他の物で代わりにしようとは言っていたけど」
コーザはもうひとつパンを取ると考えを巡らせるように回し、半分にちぎると口に放り込んだ。
「絵本の中でさ」
「絵本?」リックが訊き返す。
「ああ。町に伝わる昔話を描いた絵本があってさ、ガレフって名前の犬がその本の主人公なんだ。ガレフは飼い主が旅立ってしまった後、ひとり旅の扉でその飼い主を待ち続けるんだけど、食べるものも食べず、日に日に痩せ衰えて最後には死んでしまう。
その年、町は数年に及ぶ凶作で食料も底をつき、誰もが冬を越せないだろうと覚悟していたんだけど、ガレフがよく遊んでいた西の麦畑にその体を埋めてやると育ちの悪かった麦が一晩のうちに大きな穂を実らせ、町の人たちは誰ひとり欠けることなく次の春を迎えることが出来た、そういう話し。その話しにあやかって雪雛おくりではその時の奇跡と町を救ってくれたガレフに感謝し、今年も実りに恵まれますようにって、ガレフが使っていた器を祭りに使うんだ」
グラスを手に水を飲む。乾いた喉を潤してコーザは話しを続ける。
「もちろん祈ったからって豊作になるわけでもないし、器だって本当にガレフが使っていたものかどうか分からないぐらいなんだ。ガレフだって本当にいたのかも分からないくらいだしな。けれど、この町にはその絵本を読んで育った人も多くてさ、単なる祭りの小道具以上にその器を大切に思っている人も多いんだ」
コーザはパンを食べ終えると両手をはたいて席を立ち、棚から一冊の本を取り出した。リックは手を拭って受け取ると、その表紙に目を落とした。
『ガレフの星々』と、夜空を背景に黄色い文字で書かれている。その下に雨土で汚れた白い毛並みの一匹が、星空の向こう側を見上げていた。
夕食を終えると明日の雪雛おくりにそなえて、ふたりは早めにベッドに入った。
ふたつのベッドの間に置かれた小さなランプに明かりを灯し、リックは絵本を開いた。長い年月が経ったことが一目で分かるほど、その本の角は潰れ糸は解れ、破れた箇所は丁寧に貼り直されていた。日に焼けて変色したり色褪せている箇所も多かったが、柔らかな筆使いで描かれた挿絵からは十分な暖かみが伝わってきた。
本の中でガレフは高く実った麦畑を少年とともに駆け回っていた。暖炉の前では体を丸めて眠り、旅の扉では雨風が吹きすさぶ中、ひとり闇の奥を見つめていた。
リックがページを繰っていくと、物語の終わり近くに一枚の絵が描かれていた。ガレフのとなりに腰を下ろしたひとりの老人とミルクの注がれた器。その器には何色もの線が引かれ、それぞれが交錯して美しい模様を表面に描いていた。
『お前さんは憶えているのかの』
おじいさんはガレフに尋ねました。ガレフはおじいさんに顔を向けると、まっすぐにおじいさんを見つめました。大きくてどこまでも深い色をした瞳でした。
『おまえさんは憶えておるんじゃろうのう。わしも何か忘れてしまった気はするんじゃ。じゃが、それが何だったか思いだせん。思い出せん。それが大事なことだということだけ、わしの中に残っておるのにのう』
ガレフはおじいさんを見つめたまま、静かに座っていました。
おじいさんにはそれだけで十分でした。
夜空には星が瞬き、虫たちは鳴き声を響かせています。
ふたりの目の前には満天の星空の下、地平線がいつまでもどこまでも続いていました。
リックは読み終えると静かに本を閉じ、ランプの灯を消した。
毛布を頭までたぐり寄せて、眠りについた。




