町役
丘の小屋から町の途中まで、長い年月をかけて踏み固められた白い土道が続いていたが、先へ先へと進むうちにいつしか四角い石が敷き詰められた石畳のものに変わっていった。
道が石畳に変わったのを境とするように、建物も木造の平屋から階を重ねた石造りのものが見られるようになってきた。
視線を少し、上に向ける。まだ距離はあったけれどこの道の先に、周りのものよりも頭ひとつ高い建物が見えた。その建物は鋭く尖った塔をもち、傘下に銀色の鐘が吊るされていた。
石畳の通りをリックとコルテオは真っ直ぐに進んで行く。
道沿いの建物が空を長方形に切り取っている。
区切られた空が広がると、その先に円く開けた場所に出た。
その中心には石畳と同じ材質で作られた大きな井戸のような囲いがあった。囲いの中を覗き込む。井戸のような深さはないけれど中は透き通った水で満たされ、色鮮やかな魚が涼しげに泳いでいる。太陽がちょうど真上に昇っているらしく水面には黄金色の楕円が映り、魚がその下を通るたびに円をゆらゆらと揺らした。
「ここじゃ」
その囲いの斜め前にある建物に着くとふたりは足を止めた。そこは遠くからでも見えていた、頭ひとつ高く塔の下に銀の鐘をもつ建物だった。
数歩ばかしの石段の先には厚く大きな扉があったが、コルテオはその石段を上らずに横の小さな扉へと向かった。
取手を手に扉を叩くと、中から小走りで近づいて来る足音が聞こえた。
その音が止まると扉が開いた。扉を開けてくれたのは小柄な女性だった。
女性といってもまだ少女と大人の間の年頃で、全身を一枚布で仕立てられた濃紺色の服で包んでいた。肩下まで伸びた髪は細く、瞳と同じ薄い色をしている。先ほどまで書きものでもしていたのだろう。目にかかることはない長さの前髪を邪魔にならないよう片側に寄せて、白い花の形をした髪留めでとめている。
「ノーマをお連れしました」
扉が開くと、コルテオが彼女に告げた。
「ご苦労様です。それでは町役のところへ案内します。どうぞこちらへ」
彼女はふたりを中に入れると先に立って歩いた。外は汗ばむほどの陽気だったのに石造りの建物はひんやりと冷たく、空気は閉めきった場所特有の匂いと湿り気を多く含んでいた。
狭い通路に三人の足音が反響する。入り口より通路を進み、角を曲がると広間が見えた。広間の天井は高く吹き抜けになっており、その下には何列かの長椅子が並べられていた。正面には壇が置かれ、左側は重ねられた煉瓦が壁をつくっていた。
右側の窓には様々な模様や絵が描かれた色彩豊かな硝子が一面を飾っている。その窓が陽の光りを通し、閉じられた部屋に外と変わらない明るさをもたらしていた。
広間を右手に見ながら通り過ぎ、もうひとつ角を曲がると彼女は足を止めて扉を叩いた。
「はい」
返事がして、彼女は扉を開けた。
「失礼します。ノーマがいらっしゃいました」
「ありがとう。それでは通してください」
彼女は脇にそれてリックとコルテオを中に入れると、一礼し部屋を出た。部屋は決して広いとは言えなかったが壁一面と机の上、それと床に積まれた書物でいっそう狭く感じられた。
「ようこそ。私はこの町で町役をしています、リヒト・ローレンスといいます」
男は立ち上がり、机の上に高く積まれている本の山から顔を出すと、右手を差し出した。
彼は大人と呼んでよい年齢ではあったがまだそんな立場には似つかわしくない若さで、先ほどの女性と同じ紺色の服を身に纏い、同じ色の髪を左右に撫でつけていた。鼻の上には小さな丸眼鏡がちょこんと座り、緩んだ紐が両耳にかかっていた。
「リックです」
そう返しながら、リックはローレンスの手を取った。
「昨夜はよく眠れましたか」
「はい」
「それは結構です。それではコルテオ氏よりすでに伺っていると思いますが、もう一度ここのことを話しておきましょう」
ローレンスは本に埋もれた部屋の隅から椅子を出すと、リックに勧めた。
コルテオは、「わしは広間で待たせてもらおうかの」と言って部屋を後にした。眼鏡を外し机の上で手を組むと、ローレンスはひとつ咳払いをして話しを始めた。
「リック、あなたが昨日経験したようにこの町の人たちは皆、ある日あの森で目覚め、この町で暮らすようになりました。どこから来たのか、それまで何をしていたのか、手がかりになりそうなことを憶えていた人はひとりとしておらず、誰もが自分の名前だけを持ってこの町に来ました」
ローレンスとふたりきりになり、背筋が伸びきるほどにリックは緊張した。集中して聞いているつもりでも話しが聞いている側から溢れていくようで、それがリックの頭と体をさらに強ばらせた。
「私たちが自分のことを何も知らないように、この町についてもこの世界についても、私たちはほとんど何も知りません。森から出て来たはずなのに入り口は見つからず、地平線の先は歩いても歩いても、見わたす限りの平原が続くばかりです。
上流にあるはずの水源にも下流にあるという海や湖にもどれだけ進んだとしても辿り着くことはありません。世界はどこまでも広く、その世界のどこかにこの町がある。私たちに分かっているのはたったそれだけのことで、他にも町が存在するのか、人が住んでいるのかすら私たちは知らないのです」
話しが進むにつれて真剣な空気が部屋に満ちていく。
「この世界で生きていくことは決して易しいものではありません。今日のような日を見れば穏やかな、とても過ごし易い場所と思えるのでしょうが、夏は焼けるほどに熱く冬は凍えるほどに寒い。実りに恵まれない年も決して少なくはありません。
そんな世界で暮らしていくために私たちはひとりひとりが役割を持ち、この町を支えています。ですからリック、あなたにもあなたが出来る形で町を支えてもらいたいと思います。 あなたが食べる麦や野菜が誰かが土を耕し種を蒔き、天候に苦心し収穫することではじめて成り立っているように」
リックが曖昧に頷いていると難しい顔で話していたローレンスの顔が年相応の笑みを浮かべた。
「と、偉そうに言ってしまいましたが難しいことですよね、人を、町を支えるなんて」
参考になるか分かりませんが、と前置きをして言葉をつなぐ。
「私のことをお話しましょう」
ローレンスは書きものをしていた書類を閉じ、机上で角を合わせると端に置いた。
「どれほどの月日が流れたでしょうか。私がここに来たのも君と同じぐらいの年の頃でした。最初は右も左も分からず、はじめてできた友人に誘われるまま、町外れの牧場で働きはじめました。
朝日とともに起きて乳を絞り、昼に放牧に出し、その間に寝藁を替え飼い葉を用意する、そんな仕事です。肉体労働ですから大変な重労働でしたし、最初のうちは体の節々が痛み、手足は鉛をつけているかのように重く感じたものです。しかし、生き物に触れることは私にとって大きな喜びであり、そんな厳しさにも次第に慣れていきました。
ある年の冬のことです。働いていた牧場で一頭の仔牛が生まれました。
冬が深まり雪が深々と降る夜、難産の末にようやく生まれた雌牛です。母牛は仔を生むとすぐに死んでしまいましたが、仔牛はなんとか息を吹き返すことができました。
ただ春になり夏を迎えても、その仔牛は他の仔と同じ年に生まれたとは思えないほど小さく、また病気がちで弱かったため、潰してしまおうという話がでました。牛は乳を出すのが仕事です。体が大きくならず手間だけがかかり、乳を一向に出す見込みのない牛をそのまま置いておくことは、収穫の乏しかったその年の町には重荷にしかならなかったのです。
その話に最初に反対したのは町の子供たちでした。体が小さく母親がいなかったその仔牛を彼らはことさら可愛がっていました。しかし牧場の大人たちはその仔を潰すことに決めます。牧場の目的は子供たちを楽しませることではなく、日々の糧を生産することだからです。
そんな折りのことです。当時の町役が子供たちの側に立ち、牧場や町の方々と話し合い、子供たちがその仔牛の面倒を見ることを条件にもう一年だけ様子を見ることになりました。
子供たちは交代で厩舎を掃除し寝藁を替え、丘の麓まで青々とした草を食べさせにその仔牛を連れて行きました。そのかいあって次の夏を迎えた頃には、仔牛は他のどの牛にも劣らないだけのミルクを出すまでに成長することができました。その時、私は町役に訊ねました。
『どうしてこの仔が大きくなると分かっていたのですか、みんな諦めていたのに』と。
すると彼はこう答えました。
『成長するかなんて私には分かりませんし、仔牛を潰してしまうことに反対だったわけでもないのですよ。子供たちの話を聞き牧場の方々の話を聞き、どうすることが一番良いのか町の皆で話し合った結果、子供たちが世話をするという条件でもう一年様子を見ることに落ち着いただけなんです。私はただ皆で議論をし、少しでも多くの方が納得できるよう一緒に話しをしただけなんです』
その時の町役を見て思ったんです。ミルクや果物や野菜を作るだけじゃない、人の話に誠意をもって耳を傾けることが町を大きく支えることに繋がるのだと。その時も仔牛を潰してしまう方が簡単で効率的だったはずです。しかし仔牛が成長して乳を出すようになっただけでなく、一年世話を任せることで子供たちも多くを学び、仔牛とともに成長することができたのですから」
遠い時を思うようにローレンスは重ねられた本に視線を落とした。
「その後、私はここで町役の手伝いをしながら日々の業務を学び、跡を引き継ぐに至ったわけです。急ぐ必要はありません。しばらくの間、この町を見て触れて町の人たちの話を聞き、自分が何をしたいのか町のために何ができるのか、じっくり考えてみるといいと思います」
話しを終えると、ローレンスはふたたび眼鏡をかけて席を立った。
「それではそれまでの間住む所にお連れしましょう。コルテオ氏のところから毎日通うのはさすがに大変ですから」